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第44話 逆流川


 カイはもう完全に目を輝かせていた。黙っていれば冷たく近寄りがたい外見をしているくせに、内側から漏れている期待値が犬だ。

 しかも、ただ散歩に行く犬ではない。大きな水たまりを見つけて、飼い主が止める前に全力で飛び込む準備をしている犬だ。

 これは危ない。非常に危ない。


「カイ」

「おう!」

「飛び込まないでくださいね」

「飛び込まねぇよ!」

「本当に?」


「……たぶん」

「今、間がありました」


 ルーザが即座に指摘する。カイは露骨に視線を逸らした。


「いや、だってさ。逆流川だぞ?普通の川ならまだしも、逆流してるんだぞ?しかも迷子コイン出るんだぞ?ちょっとくらい流されてみたいだろ」

「流されることを前提にしないでください」

「でも、流されない逆流川ってもったいなくない?」

「その価値観が危険です」


 ルーザの声は静かだったが、少しだけ疲れていた。

 昨日からずっと、彼女は私とカイの好奇心の手綱を握っている。


 しかも、私の好奇心は一見落ち着いて見える分だけ厄介で、カイの好奇心は見たまま全力で前へ出るので厄介だ。

 方向性の違う厄介が二つ並んでいる。


 改めて考えると、ルーザの同行は本当に正解だったと思う。父上、やはり人を見る目がある。性格は悪いけど。


 川辺へ近づくにつれて、景色は奇妙になっていった。

 地面は柔らかな草地から、銀色の小石が混じる河原へ変わる。川の水は透明で、底まで見えるほど澄んでいるのに水面だけが淡く光っていて、時折逆向きに波紋が広がる。

 普通は何かが水に落ちたとき波紋は外へ広がるはずなのだが、この川では外から中心へ戻っていく。

 すごく気持ち悪い。気持ち悪いのに、見ていると癖になる。妖精の国、視覚的な中毒性が強すぎる。


 そして、水中には鳥がいた。


 昨日遠目にも見たが、近くで見るとさらに意味がわからない。

 小さな青い鳥が、水の中をすいすい泳いでいる。羽を魚のひれのように使い、くちばしで泡をつつき、時々こちらを見上げる。

 目が合うと、鳥は水中で会釈した。礼儀正しい。


「ルーザ、鳥が水中で会釈しました」

「確認しました」

「これは普通ですか?」

「妖精の国では、おそらく」

「便利な言葉ですね」

「便利ですが、これ以外に処理方法がありません」


 その通りだった。


 川辺には、小さな桟橋があった。桟橋と言っても木材でできた普通のものではなく、巨大な葉を何枚も重ねて編んだような、柔らかそうなのに妙に頑丈そうな足場である。

 そこに一艘の舟が繋がれていた。

 舟は白い貝殻のような形をしていて、縁には細かな蔦模様が走り、船首には銀色の鳥の飾りがついている。

 いや、飾りだと思ったのだが、近づくとその銀色の鳥がゆっくりこちらを見た。生きている。船首飾りまで生きている。もう驚かない。いや、少し驚いた。


 そして、その舟のそばに、渡し守がいた。

 ペリカンだった。


 かなり大きなペリカンだった。 

 私の腰ほどの高さがあり、真っ白な羽に黒い縁取り、長いくちばし、そしてなぜか小さなシルクハットと蝶ネクタイを身につけている。

 翼の片方には細い杖のような櫂を持ち、立ち姿は妙に紳士的だ。


 ペリカンなのに。


 いや、妖精の国のペリカンなので、紳士的でもおかしくはないのかもしれない。おかしいよ。でもここでは通る。

 ペリカン紳士は私たちを見ると、非常に丁寧に一礼した。


「ようこそ、逆流川へ。お客様方、行き先はお決まりでしょうか」


 声がやたら渋い。

 カイが小さく「声かっこよ」と呟いた。わかる。ペリカンなのに声がかっこいい。下手したら私よりもかっこいい気がする。


「行き先を言えば、そこへ連れて行っていただけるのですか?」

 私が尋ねると、ペリカン紳士は穏やかに微笑んだように見えた。くちばしなので表情はわかりにくいが、たぶん微笑んだ。


「いいえ」

「いいえ」

「はい。ここは逆流川でございますので、お客様がお望みの場所へそのまま向かうとは限りません」

「でしょうね」

「お望みが明確であればあるほど、川は少し照れます」

「川が照れる」

「はい。そして反対へ流れます」

「面倒ですね」

「川ですので」

「妖精ですので、の亜種が来た」


 私は軽く額に手を当てた。

 なるほど。普通に目的地を伝えればその反対側へ流れる。

 ならば、行きたい場所の逆を言えばいいのか。そう思った瞬間、ペリカン紳士はまるで私の考えを読んだように、こちらへゆっくり視線を向けた。


「なお、雑な嘘は川に失礼です」


 釘を刺された。

 カイが「ぐっ」と声を漏らす。


「今、俺たちは市場に戻りたいって言おうと思ってた」

「雑ですね」

「雑です」


 私とルーザが同時に言った。カイは不満そうにしたが、反論はできないようだった。

 ペリカン紳士は静かに続ける。


「逆流川は、言葉の裏側と気持ちの流れを見ます。行きたい場所の反対を口にするだけでは、川は動きません。行きたいけれど行きたくない。行きたくないけれど気になる。戻りたいけれど進みたい。そういう曖昧さを、川は好みます」


「面倒だけど、かなり面白いですね」

「お褒めに預かり光栄です」

「褒めたことになるんですか?」

「川への言葉は、たいてい褒め言葉か文句です」

「広い」


 ルーザが静かに川を見た。警戒している。いや、いつも警戒しているが、今日は特に警戒している。顔色がほんの少し悪い気がした。


「ルーザ、大丈夫ですか?」

「問題ありません」

「顔色が悪いような」

「これは警戒色です」

「警戒色」

「はい」


 ペリカン紳士が「ほう」と感心したように頷いた。


「珍しい。人型のお客様で警戒色を自称される方は初めてです」

「自称したくてしたわけではありません」

「川も喜んでおります」

「喜ばないでください」


 川が、ちゃぷん、と音を立てた。喜んでいるらしい。ルーザの警戒色が川に刺さった。何それ。


 カイはもう舟に乗りたくて仕方ない顔をしていた。だが、私とルーザに左右から見られ、ぎりぎり踏みとどまっている。


「で、どうする? 乗るよな?」

「乗ります。ただし、まず目的を決めましょう」

「目的は迷子コイン!」

「違います」

「違うの!?」


「違います。まずは逆流川の性質を確認すること。次に、可能なら《逆流川の渡し舟》の遊びを一つ達成すること。迷子コインは結果として得るものであって、目的ではありません」

「でも迷子になるなら目的にしてもよくない?」

「だめです」

「ルーザさんまで」

「迷子を目的化すると、戻る判断が遅れます」


 まったくもって正論だった。カイは少しだけ口を尖らせたが、すぐに切り替えたらしい。


「じゃあ、まずは性質確認だな」

「はい」

「で、ちょっと迷う」

「ちょっとだけです」

「ちょっと迷子」

「迷子を程度で管理しようとしないでください」


 私たちのやり取りを聞いていたペリカン紳士は、穏やかに翼を広げた。


「それでは、お乗りください。逆流川は、迷うお客様を歓迎します。ただし、迷いすぎるお客様は、時々回収します」

「回収」

「はい。完全に迷子になった場合、宿、入口、市場、または自分の心の中へ戻されます」

「最後が怖い」

「稀です」

「稀でも怖い」


 舟は思っていたより安定していた。

 貝殻のような座席は柔らかく、足元には水が入ってこない。

 船首の銀色の鳥がこちらをちらりと見て、なぜか小さく頷いた。よろしく、ということだろうか。こちらも軽く頷き返しておいた。船首鳥と挨拶する日が来るとは思わなかった。


 ペリカン紳士が櫂を水へ差し込む。

 その瞬間、舟は前へ進まなかった。


 上へ進んだ。


「……は?」


 カイが素の声を漏らした。私も一瞬、言葉を失った。舟は川面に浮かんでいるはずなのに、川そのものが空へ向かって流れているので、当然のように舟も空へ向かう。


 いや、当然ではない。だが、この国では当然らしい。

 足元の水面が坂のように持ち上がり、舟はその水の坂をゆっくり滑り上がっていく。空へ。川が空へ。舟が空へ。

 ペリカン紳士は平然としている。ルーザは船縁を無言で掴んだ。カイは目を輝かせた。


「すげぇぇぇぇぇ!!」

「声が大きいです」

「だって川が空にある!!」

「見ればわかります」

「見てもわかんねぇよ!!」


《びっくりコインを獲得しました》


「川でも出るんですね」

「俺、もうどこでも出るな!」

「誇っていいのか迷いますね」


 舟は空へ向かって上がり続ける。

 下を見ると、先ほどいた河原が少しずつ小さくなっていく。上を見ると、空を泳いでいた魚たちが川の流れに沿って横切っていく。


 魚が空を泳ぎ、鳥が水中を泳ぎ、ペリカンが舟を漕ぎ、私たちは空へ流されている。どう考えてもおかしいのに、景色は圧倒的に綺麗だった。

 銀色の水面が空の光を反射し、遠くの花畑や笑う木の市場が宝石のように見える。


 ペリカン紳士が穏やかに尋ねた。


「お客様方、どちらへ向かわれたいですか?」


 私は少し考える。

 正直に言えば、私たちはまだ市場の奥へ進むための次の手がかりが欲しい。


 つまり、《逆流川の渡し舟》の遊びを終え、奥への招待状を開く条件を満たしたい。

 だが、それをそのまま言えば反対へ流れる可能性がある。

 かといって雑に嘘を言えば川に失礼と言われる。ならば、行きたい場所と行きたくない気持ちを両方含める必要がある。


「できれば、私たちは迷いすぎず、しかし何も得られないまま戻るのは避けたいです」

「良い曖昧さです」


 ペリカン紳士が頷いた。


「目的地は?」

「まだ知らない場所へ。ただし、戻れる範囲で」

「非常にお客様らしいご注文です」

「褒められている気がしませんね」

「川は喜んでおります」


 川がちゃぷんと鳴る。喜んでいるらしい。

 カイが横から身を乗り出した。


「俺は迷子になりたい!でも戻れないのは嫌だ!」

「欲望が素直ですね」


 ペリカン紳士が感心した。


「正直すぎる願いは、川にとって少し眩しいです」

「眩しいのか?」

「はい。ですので、少し曇らせます」

「え」


 次の瞬間、霧が出た。


 川の上に、ふわりと白い霧が広がる。

 舟の周囲が一気に見えなくなり、さっきまで見えていた市場も花畑も空の魚も消えた。水音だけが残る。舟は進んでいるのか止まっているのかわからない。

 上下の感覚も薄れ、今、自分たちが空にいるのか地上にいるのかすら曖昧になる。


「カイさんのせいでは?」

 ルーザが静かに言った。


「俺のせいなの!?」

「素直すぎる願いを言ったので」

「川、繊細すぎない!?」

「川ですので」

「ペリカンさんまで!」


 ペリカン紳士は平然としている。

 霧の中でも迷いなく櫂を動かし、舟を進める。


 水音だけが近くなったり遠くなったりしていて、時々霧の向こうから「こっちじゃないよ」「そっちでもないよ」「迷ってる?」「迷ってるねぇ」といった声が聞こえる。妖精たちの声だろうか。あるいは川そのものかもしれない。


 しばらくして、舟がぐらりと揺れた。


「おっと」

 カイが楽しそうに言う。


「楽しそうですね」

「楽しい!」

「でしょうね」


 ルーザは船縁を掴む手に少し力を入れている。顔色がまた少し悪い。警戒色が濃くなっている気がする。


「ルーザ、本当に大丈夫ですか?」

「問題ありません」

「船酔いでは?」

「警戒色です」


 その瞬間、霧が晴れた。

 舟は、丘の上に着いていた。


 川なのに。

 いや、川は確かにあった。 だが、そこは水辺ではなく、なだらかな丘の中腹に銀色の川が細く流れている場所だった。


 川は地面を無視して丘を上り、草むらの間を蛇行し、ところどころで輪っかを作りながら空へ消えている。

 舟はその川の一部にそっと接岸した。


 周囲には、大小さまざまなものが落ちている。

 靴下、紙切れ、古びた鍵、小さな瓶、ため息の形をした灰色の雲、丸まった言い訳、片方だけの手袋、半分眠っている地図、そして「昨日のやる気」と書かれた小さな炎。


「到着しました」

 ペリカン紳士が丁寧に告げる。


「こちらは《忘れ物の丘》でございます」

「忘れ物の丘」

「はい。妖精の国で落とされたもの、忘れられたもの、置き去りにされたもの、忘れたことにされたものなどが集まります」

「最後が少し重い」

「軽いものもございます」


 ペリカン紳士は翼で丘を示した。


「お時間が許す限り、ご自由にお探しください。ただし、他人の忘れ物を持ち帰る場合は、その忘れ物に好かれる必要があります」

「また選ばれる方式ですか」

「妖精の国ですので」


 私は舟を降りる。

 足元の草は柔らかく、どこか懐かしい匂いがした。


 忘れ物の丘という名前のせいか、空気全体に少しだけ切なさがある。

 だが、暗くはない。むしろ、落とし物たちは妙に自由だった。


 片方だけの靴下が草の上を跳ね、言い訳が「今日はちょっと用事が」と呟きながら転がり、ため息の雲がふわふわ漂いながら「はぁ」と小さく鳴る。切ないのかギャグなのか判断に困る。


 カイは早速、「昨日のやる気」と書かれた小さな炎に近づいていた。


「これ、持って帰ったら明日すげぇ頑張れるんじゃね?」

「やめてください」

「でも昨日のやる気だぞ」

「誰のものかわかりません」

「じゃあ拾ってもいいのでは?」

「だめです」


 ルーザがその横で、丸い青い石を拾い上げた。


「これは……落ち着き、でしょうか」

 石の表面に《落ち着き》と書いてある。


 カイが顔を上げた。


「それ、俺に必要って言いたい?」

「はい」

「即答!?」

「持つべきかと」

「拾い物で性格補正しようとするな!」


 ぽん。

《びっくりコインを獲得しました》


「ここでも出る」

「ここでも出ますね」


 私は笑いながら、丘の上をゆっくり見て回った。

 忘れ物たちはどれも不思議で、触れる前から物語があるようだった。


 使われなかった約束と書かれた細いリボン。

 誰かのために用意されたけれど渡されなかった花束。

 明日やる気だった計画書。

 途中で忘れられた言葉。

 半分だけの名前。

 小さな箱に入った勇気。

 忘れたことを忘れた記憶。


 見ていると、少しだけ胸がざわつく。妖精の国の中では比較的静かな場所なのに、情報量はむしろ多い。


 その中で、私はふと足を止めた。

 水面の近く。逆流川の細い流れの底に、何かが沈んでいる。


 透明なコインだった。


 いや、見えたと言っていいのか怪しい。光の角度によって、そこにあるようにもないようにも見える。丸い形をしているようで、ただの水の歪みにも見える。だが、私はそれを見た瞬間、直感した。


 ひみつコイン。


 声に出しそうになった瞬間、ペリカン紳士が静かに言った。


「それは、見つけたと言うと逃げます」


 私は口を閉じた。

 カイが「え、何が?」と言いかけたので、ルーザが無言で彼の口を押さえた。早い。助かる。


「では、どうすれば?」


 私は小声で尋ねた。

 ペリカン紳士は、紳士的に帽子を少し傾けた。


「見つけていないふりをして、忘れないことです」

「……なるほど」

「忘れ物の丘では、忘れなかったものだけが、次へ進みます」


 私は水面を見ないようにした。

 だが、意識の中には、その透明なコインの位置をはっきり刻む。川の曲がり角。眠っている地図の近く。ため息の雲が流れる少し手前。


 見つけていないふりをして、忘れない。

 なんて妖精らしい条件だろう。


 面倒で、綺麗で、少しだけ意地悪で、そしてどうしようもなく面白い。


「ラウラ」

 カイがルーザの手から解放され、小声で言った。


「今、絶対なんか見つけただろ」

「見つけていません」

「嘘っぽい」

「見つけていません」

「なるほど、見つけてないんだな」


 カイは妙に察した顔で頷いた。こういう時の勘はいい。

 ルーザも私を見て、静かに頷いた。共有はできた。言葉にはしない。


 その時、カイの手元で「昨日のやる気」がぼっと明るく燃えた。


「ところでカイ」

「何?」

「それ、持って帰るつもりですか?」

「……これ、持って帰ったら明日すごく頑張れるかなって」

「返しなさい」

「やだ!」

「カイさん」


 ルーザが落ち着きの石を差し出した。


「代わりにこちらを」

「俺に足りないものを拾い物扱いするな!」


 ぽん。

《びっくりコインを獲得しました》


 忘れ物の丘に、カイの声と私の笑いと、ルーザの静かなため息が混ざって流れた。逆流川はその音を受け止めるように、ゆっくりと上へ流れていった。

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