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第43話 川へと進む


 次に目を開けた時、視界に映ったのは現実の自室の天井だった。


「……戻った」


 小さく呟きながら、私はゆっくりと身体を起こした。

 現実のベッドは当然ながら花弁ではないし、枕も歌わないし、毛布も勝手に体温調整をしてくれない。


 いや、歌わない枕についてはむしろ安心すべきなのだけれど、あの妖精宿の寝心地を経験した直後だと、いつもの布団が少しだけ味気なく感じられるのが困る。

 父上の言っていた妖精の食べ物に気をつけろという話を思い出す。食べ物だけではない。寝具も危険だ。快適すぎるものは生活水準を壊す。妖精の国、本当に油断ならない。


 身体を起こして、肩を回す。すると、妙な余韻があった。


 昨日の訓練後に現実の動作が少し上品になっていたように、今日は今度は踊りの余韻が残っている。

 立ち上がる時の重心の移動、足を床へ下ろす角度、腕の動き。何気ない動作が、少しだけ滑らかだ。いや、私は現実では別に舞踏会に出る予定もないし、花と踊る予定もないのだが、身体が妙に「一拍目で重心を乗せると綺麗ですよ」みたいな情報を残している。


 私はベッドの上でしばらく無言になり、それからスマホを手に取った。


 予想通り、三毛猫――いや、カイからメッセージが来ていた。しかも、ログアウトしてからほとんど間を置かずに送られてきたらしい。


『俺、踊り上手かっただろ!!!!』


 第一声がそれだった。

 私は思わず吹き出した。


『そこ自分で言う?』

 送信すると、すぐに既読がついた。待機していたな、これ。


『言うだろ!!』

『あれは言うだろ!!』

『俺あの舞踏会で一番輝いてたまであるだろ!!』


『悔しいけど、たぶん一番盛り上がってた』


『よっしゃああああああ!!!!』


 画面の向こうで完全に跳ねている気配がする。犬だ。やっぱり犬だ。いや、本人は否定するけど。


『でも水色の犬って呼ばれてたね』


『そこは納得してない』

『犬じゃない』

『だが踊れる』

『つまり俺は踊れる水色の何か』


『犬では?』


『違う!!!!』


 たぶん今のでまたびっくりコインが出るなら出ていた。現実側には出ないのが惜しい。いや、現実でびっくりコインが出始めたら普通に怖いか。


 その後も少しだけ、カイとは舞踏会の話をした。

 彼は昔からダンス系のゲームや音ゲーが好きで、現実でも少しだけダンスを習っていたことがあるらしい。


 私はそこで初めて、三毛猫についてまた一つ知らなかったことを知った。

 ネット越しに長く遊んでいても、案外知らないことは多い。

 性別も顔も知らなかった相手が、ゲーム内では水色の髪と黒い翼を持つ踊れる美形で、木に枝ぶりを評価され、花に犬扱いされている。情報量があまりにも多い。


『明日は川だよな?』

 最後に、カイがそう送ってきた。


『たぶんね』

『よし!!!!』

『流される前提で喜ばないで』

『でも逆流川だぞ?』

『だから危ないんだよ』

『だから面白いんだろ!』


 私はスマホを見ながら、小さく笑った。否定できない。

 逆流川は絶対に面白い。絶対に面倒で、絶対に危ないし、絶対にカイがはしゃぐ。ルーザの苦労が目に見えるようだ。ごめん、ルーザ。たぶん明日も謝ることになる。


 やり取りを終え、私はスマホを伏せた。


 今日はもう寝るべきだ。イベント初日だけでかなり濃かったし、現実の身体もなんだかんだで疲れている。

 DHOはゲームのはずなのに、精神的な疲労は普通に持ち帰る。

 しかも、楽しい疲れだから厄介だ。嫌な疲れならやめようと思えるのに、楽しい疲れは「明日もやりたい」に変換されてしまう。運営はやはり危険だ。


 私は布団に潜り込み、天井を見上げた。


 妖精王、ひみつコイン、逆流川、赤の塔への転用、レアへの報告、父上への報告。考えることはいくらでもある。

 でも不思議と、それらは重荷ではなかった。むしろ、次々と開いていく扉のようで、その先が見たくて仕方ない。


「……明日も忙しそう」

 そう呟いて、私は目を閉じた。



 そして翌日。


 学校がある日だったらかなり厳しいところだったが、幸いにもまだ休日だった。

 私は朝食を済ませ、軽く身支度を整え、それからバイザーを装着した。


 現実の自分からラウラリアへ切り替わる感覚はもうだいぶ馴染んでいる。

 慣れとは恐ろしい。


 意識が沈み、そして浮かび上がる。

 目を開けると、そこは妖精の宿の花弁の部屋だった。


 白い花の壁。淡く光る種の天井。ふわふわの花のベッド。歌わないように我慢している枕。

 いや、枕が我慢しているのは見ただけでなんとなくわかった。微妙に震えている。私は枕に向かって小さく言った。


「おはようございます。歌は小さめでお願いします」


 枕が、とても小さく「ラ~」と鳴った。

 許可制にしたら少し歌った。かわいい。いや、かわいいけれど慣れてはいけない。枕は本来歌わない。


 身体を起こし、軽く伸びをする。

 ラウラリアの身体は相変わらず軽く、しなやかで、昨日踊った疲れのようなものはほとんど残っていない。

 むしろ、舞踏会の後だからか、動きが少しだけさらに滑らかになっている気がする。


 スキル取得ログが出るかと思ったが、今のところ目立った通知はない。もしかすると日付変更処理や一定の蓄積が必要なのかもしれない。

 あるいは、舞踏会で得たものはコインやアイテムが中心で、技能化するほどではなかったのか。カイには何か踊り系スキルが出ていてもおかしくない。あとで聞いてみよう。


 扉の外へ出ると、隣室からルーザがちょうど出てくるところだった。


「おはようございます、ラウラリア様」

「おはようございます、ルーザ。よく眠れましたか?」

「はい。枕が二度ほど歌おうとしましたが、問題ありませんでした」

「問題あったように聞こえます」

「黙らせました」

「強い」


 枕にも厳しい。さすがルーザ。

 その少し後、カイも合流した。彼は見た目こそいつもの冷たい美形だが、目が朝から輝いていた。理由は聞かなくてもわかる。


「川!!」

「朝一番の第一声がそれですか」


「川!!!!」

「増えた」


「逆流川!!!!」

「具体的になった」


「行こうぜ!」

「まず報告です」

「えっ」


 カイが固まった。

 私は涼しい顔で言った。


「一度ログイン後に赤の塔と屋敷側へ報告すると決めていたでしょう。レアと父上に、昨日の成果を共有します」

「あー……そうだった」

「忘れていましたね」

「川が楽しみすぎて」

「でしょうね」


 ルーザが静かにため息を吐いた。昨日から何度目かわからないため息である。


 妖精の宿から出ると、笑う木の市場は朝らしき空気に包まれていた。

 朝らしき、としか言いようがない。


 空の魚が銀色で、草の先に丸い露が光り、店の値札たちがまだ眠そうに揺れている。妖精たちも昨日より少し静かで、と思ったが、私たちを見つけた瞬間に「青い王子起きたー!」「黒いお姉さんかたい朝ー!」「水色犬、川行く?」と騒ぎ始めたので、静かなのは気のせいだった。

 カイが「犬じゃない!」と反応し、ぽん、とびっくりコインが出る。


「朝の挨拶みたいになっていますね」

「嫌な挨拶だな!」

「収入のある挨拶です」

「それはちょっと良い」

「良くありません」


 ルーザが止めた。


 そのまま、私たちは一度ログアウト地点というか、妖精の国の通信可能な安全区画を使って、ヘル家側へ報告を繋いだ。

 完全に通常の連絡と同じではなく、妖精の国を経由しているせいか少しだけ花びら混じりの映像になる。

 連絡画面の端に小さな花が咲いているのは、仕様なのか妖精の悪戯なのかわからない。たぶん両方だ。


 最初に繋がったのはレアだった。


『ラウラリア様! ご無事ですか!』


 画面越しのレアは、いつもより少し緊張した顔をしていた。赤の塔の管理を任せているとはいえ、彼女としては私たちが妖精の国で何をしているか気が気でなかったのだろう。

 私は安心させるように微笑んだ。


「無事ですよ。初日はかなり順調でした」

『よかった……!』


 レアはほっと息を吐いた後、すぐに仕事の顔へ戻った。


『成果を伺っても?』

「もちろん。まず、妖精契約の栞を入手しました。妖精との約束を一度だけ文字にして確認できるそうです」

『非常に重要ですね』

「次に、嘘つき看板の欠片。設置すると、たまに嘘をつく看板になるそうです。ただし勝手に喋り、寂しいと余計に喋るらしいです」


 レアが固まった。


『……精神管理が必要な看板、ということでしょうか』

「たぶん」

『赤の塔に設置する場合、看板の孤独対策まで運用項目に入るのですね』

「そうなりますね」

『……わかりました。看板の孤独対策欄を作ります』

「作るんですか?」

『必要なら』


 有能すぎて怖い。いや、ありがたい。

 だが、赤の塔の運用資料に「看板の孤独対策」という項目が追加されるのかと思うと、かなりじわじわ来る。

 カイは横で笑いを堪えている。


「それから、歌う花びらを入手しました。一度だけ、植物や妖精の機嫌を少し良くする効果があるそうです」

『そちらも有用ですね。交渉補助、または赤の塔内の植物系ギミックに転用できる可能性があります』

「はい。あと、各種コインもそこそこ。花コイン、嘘コイン、ごきげんコイン、びっくりコインなどです」

『びっくりコイン……?』


 レアが首を傾げた。私はカイを見た。


「カイが大量に稼ぎました」

『カイ様が?』

「ほぼ専用通貨みたいになっています」

「言い方!」


 カイが抗議した瞬間、妖精の国側の通信画面の端からぽん、と光が出た。


《びっくりコインを獲得しました》


 レアが画面越しに目を丸くした。


『……本当なのですね』

「本当です」

「納得されるのも傷つくんだけど!?」


 レアは少しだけ笑った。良いことだ。

 赤の塔管理で緊張しているだろうから、カイには今後も適度にびっくりしてもらおう。本人の尊厳は少し削れるかもしれないが、コインになるのでたぶん大丈夫だ。いや、大丈夫なのか?


 その後、赤の塔の状況も簡単に聞いた。

 レアによれば、昨日の間も侵入者は順調に来ており、調査隊は中層で慎重に進行中。報酬改善後の評判は少しずつ良くなっているらしい。

 ただし、「喋る看板を追加する場合は、設置場所と告知しない範囲の調整が必要」と早くも具体的な指摘が入った。仕事が早い。さすがレア。


 レアへの報告を終えると、次は父上――バルタザールへの報告である。

 画面が切り替わり、重厚な書斎が映った。


『ほう』


 第一声がそれだった。

 バルタザールは椅子に座り、楽しそうにこちらを見ていた。たぶん、私たちが妖精の国で何かやらかしていることを期待している顔だ。腹立たしいくらい的確である。


『初日から何をした』

「嘘つき看板を泣かせました」


『ほう』

「花と踊りました」


『ほう』

「カイがかなり踊れました」


『ほう?』


 父上の目が一番そこで光った。

 カイが露骨に嫌そうな顔をした。


「そこ反応しなくていいだろ!」

『犬が踊れるとはのう』

「犬じゃないです!」

『では、水色の踊る犬か』

「悪化してる!!」


 ぽん。

《びっくりコインを獲得しました》


 バルタザールは声を出して笑った。


『便利じゃのう、おぬし』

「便利扱い!?」

「父上、カイはびっくりで経済を回せる可能性があります」

『よい才能じゃ』

「よくないです!」


 ルーザが隣で静かに立っていたが、父上とカイのやり取りに少しだけ目元が緩んだ気がした。

 やはり犬ネタは強い。カイには悪いけど、非常に強い。


 私は気を取り直して、バルタザールへ重要な点を報告した。

 妖精たちは赤の塔の存在をある程度知っているらしいこと。観察印がついていること。嘘つき看板の欠片と歌う花びらが、赤の塔へ転用できる可能性があること。妖精契約の栞は重要な保険として温存するべきこと。


 父上は最後まで黙って聞き、それから低く笑った。


『やはり、妖精どもはおぬしを見ておるな』

「嬉しくはありませんね」

『面白いではないか』

「否定はできません」

『ならばよい。見られているなら、見返せ。遊ばれているなら、遊び返せ。ただし、名と約束だけは軽く渡すでないぞ』

「肝に銘じます」

『それと、川には気をつけよ』

「父上もそう言いますか」

『妖精の川は、道より面倒じゃ。流れるのは水だけではない』

「……時間とか、記憶とか?」

『場合によっては機嫌も流れる』

「機嫌」

『機嫌が下流へ行くと不機嫌になる』

「字面はわかるのに意味がわからない」


 バルタザールは楽しそうだった。


『まあ、行けばわかる』

「みんなそれを言う」

『便利な言葉じゃからな』


 報告を終え、通信が切れる。私は軽く息を吐いた。


「さて」

「川だな!」


 カイが即座に言った。


「はいはい。川ですね」

「やっと!」

「ただし、流される前提ではなく、調査する前提で行きます」

「流されながら調査すればいいのでは?」

「それが一番危ないです」


 妖精の市場を抜け、私たちは逆流川へ向かう道を進み始めた。

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― 新着の感想 ―
一応ダンジョン関係は二人以外だとレアだけがマスター側って知ってるという体だったと思うけど、もう普通にルーザがいるところで話してるし、父上にもマスター側って言ってないけど知ってる前提みたいな話してないか…
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