第39話 嘘つき看板の迷路
三枚の葉に浮かんだ文字を見比べながら、私はしばらく考え込んだ。
《嘘つき看板の迷路》《歌う花の舞踏会》《逆流川の渡し舟》。
どれも先ほど市場へ来る前に軽く触れた三本の道の発展形であり、言い換えるなら、この妖精の国が私たちにまず見せた三つの基本ルールを改めて本格的な遊びとして提示してきた形なのだろう。
嘘を見破ること。
相手を喜ばせること。
迷うこと、あるいは流れに身を任せること。
どれも普通のゲーム攻略なら副次的な要素として扱われそうなものだけど、この国ではそれが堂々と主役になっている。
剣を振るうでも、魔術で敵を焼くでも、素材を集めるでもなく、言葉に付き合い、花と踊り、川に翻弄される。
……うん、やっぱりかなり変なイベントだ。
そして、変なイベントほど面白いという私の中の困った価値観が、さっきから小躍りしている。
「順番を決めましょう」
ルーザが冷静な声で言った。
彼女は三枚の葉を一枚ずつ見て、それから私とカイを順に見る。
その視線には、明らかに「どうせ二人とも全部やる気なのは理解していますが、だからこそせめて順序くらいはまともに決めましょう」という諦めが滲んでいた。
ここへ来てまだそれを諦めていないのは偉いと思う。
私とカイだけなら、たぶん「じゃあ近いやつから行く?」「いや名前が面白いやつから行こうぜ!」くらいの雑なノリで突っ込んでいた可能性が高い。
そう考えると、ルーザの存在は本当にありがたい。
ありがたいのだけど、彼女からすれば私はともかくカイまで合わせて二人分の面白そうなもの突撃癖を管理する必要があるわけで、改めて考えると仕事量が多い。
ごめん。たぶん謝っても改善はしないけど。
「私は、まず《嘘つき看板の迷路》を推奨します」
「理由は?」
私が尋ねると、ルーザはすぐに答えた。
「先ほど確認した三本の道の中では、白い小道の看板が最も規則性を読み取りやすく、ラウラリア様の言語理解と私の魔力感知を合わせれば対応しやすいと判断します。また、妖精との契約や言葉遊びへの対策としても、最初に嘘と本当の扱いを深く理解しておくことは有用です」
「なるほど。妥当ですね」
「加えて、カイさんが迷子コイン目的で《逆流川の渡し舟》へ突撃する前に、少し落ち着かせる必要があります」
「ばれてる!?」
カイが即座に反応した。早い。反応が良すぎる。
「カイさん、今、絶対に川へ行きたそうでしたよね」
「いや、だって迷子コイン稼げるし」
「やっぱり」
「でもさ、迷子って言葉だけ見ると最悪だけど、ここだと収入源なんだぞ? この発想すごくない?」
「学んではいけない経済観念ですね」
ルーザが淡々と言った。私は笑いそうになったがなんとか堪えた。
迷子を収入源と認識し始めるプレイヤー、だいぶ終わっている。
いや、イベントの仕様がそうなっているのだから仕方ないのかもしれないが、少なくとも人としての大事な何かが川に流されている気がする。逆流川だから戻ってくるかもしれないけど。
「では、まずは《嘘つき看板の迷路》へ行きましょう」
私がそう結論づけると、笑う木は枝を揺らして楽しそうに笑った。
「いいねぇ、いいねぇ。青い王子は嘘から遊ぶんだねぇ」
「嘘から、という言い方が少し嫌ですね」
「嘘は楽しいよ。ほんとうより軽くて、ほんとうより速くて、ほんとうより遠くまで飛ぶ」
「そして、時々戻ってきて頭に刺さる」
「よく知ってるねぇ」
「知りたくはありませんでしたが」
笑う木はまた笑った。市場全体が揺れる。
吊り看板の一つが「あっ」と言って逃げた値札を追いかけている。もう市場の通常風景として流している自分が怖い。順応が早すぎる。
笑う木が枝を一本下げると、その先に吊るされた小さな扉が私たちの前へ降りてきた。
扉といっても、実際には板に取っ手がついているだけのようなものだが、周囲には細かい文字がびっしりと刻まれている。
その文字の一部は上下逆さまだったり、途中で別の言葉に変わったり、こちらが見ていると照れたように隠れたりしている。文字が照れるな。いや、もうそこに突っ込む段階は過ぎたのかもしれない。
「この扉の先が《嘘つき看板の迷路》だよ」
「入場条件は?」
ルーザが即座に確認する。
「嘘コイン一枚」
「一人一枚ですか?」
「一組一枚」
「戻る条件は?」
「出口から出る」
「出口がない場合は?」
「出口はあるよ」
「それは本当ですか?」
「本当。でも出口が出口とは限らない」
「またそういうことを」
ルーザが無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。
妖精の国へ来てから、彼女の無表情の種類が少しずつわかるようになってきた気がする。今のは「面倒な仕様ですね」の顔だ。たぶん。
私は嘘コインを一枚取り出し、扉へ近づけた。
すると扉の文字たちが一斉にざわめき、コインをぱくりと飲み込んだ。
飲み込んだ。扉が。いや、正確には扉の中央に口のような模様が現れて、そこへコインが吸い込まれたのだ。これも市場の商品と同じく自我持ちなのだろう。
私はもう驚かない。
扉が開く。
中から、看板の声が大量に漏れてきた。
《こっちが入口》
《こっちは出口》
《出口は入口》
《入口は嘘》
《嘘は本当》
《本当は嘘》
《右は左》
《左は右》
《水色の犬は右》
「誰が犬だ!!」
カイが入る前から釣られた。
早い。早すぎる。
ルーザが静かに言う。
「カイさん、まだ入っていません」
「だって今、明らかに俺のこと言っただろ!」
《吠えた》
《犬だ》
《水色の犬だ》
《枝ぶり犬だ》
「枝ぶり犬って何だよ!?」
その瞬間、扉の上からぽん、と小さな光が落ちてきた。
《びっくりコインを獲得しました》
「入場前にコイン出たんですけど」
「カイさんの反応が良すぎるためでしょう」
「俺、妖精の国に搾取されてない?」
「されてますね」
「即答!?」
私はさすがに笑った。カイは不満そうだが、びっくりコインはしっかり拾っている。文句を言いながらも回収はするあたり、ちゃんとプレイヤーである。
偉いのか浅ましいのかは判断に迷うけど。
私たちは扉をくぐった。
中は、看板だらけだった。
迷路というからには壁や通路があるのだろうと思っていたが、実際には少し違っていた。
そこは白い霧に包まれた広い空間で、道らしい道はあるのに、その輪郭が曖昧だった。地面は白い石畳で、左右には背の低い生垣のようなものが連なっている。
しかし、その生垣の上や道の脇、頭上からぶら下がる枝、足元の小石に至るまで、あらゆる場所に看板が立っている。
木の板、金属板、紙札、布、石碑、小さな立て札。
しかも全てが喋る。
文字が浮かぶだけのものもあれば、声に出してくるものもあり、中には咳払いをしてから発言する律儀な看板まである。
情報量が多い。
白い霧の中で看板たちが口々に嘘か本当かわからないことを言ってくる光景は、幻想的というよりやや嫌がらせに近い。
《出口は右》
《出口は左》
《出口は上》
《出口は昨日》
《出口は君の心の中》
《その言い方はちょっと詩的》
《ありがとう》
《でも嘘》
《ひどい》
「看板同士で会話しないでください」
私は思わず言った。
《ごめん》
《ごめんは嘘》
《でも本当》
《どっち?》
《知らない》
「初手から混沌ですね」
「はい。非常にうるさいです」
ルーザが言った。真顔だが、声に少し疲れが滲んでいる。まだ始まったばかりなのに。
私はまず、周囲の看板を観察した。嘘つき看板の迷路という名前からして、全ての看板が嘘をつくとは限らないだろう。
全てが嘘なら逆に簡単だ。看板の指示と逆へ進めばいい。
だが妖精の国がそんな素直な設計をするはずがない。おそらく一部は本当で、一部は嘘で、一部は本当だけど役に立たず、一部は嘘だけど利益がある。
そして、目的が出口へ行くことだけなら正しい選択肢でも、コイン収集や隠し報酬を考えると別の選択肢が有効になる可能性がある。
「ルーザ、魔力の流れは?」
「複数あります。最も強い流れは右方向ですが、左方向にも弱い反応があります。正面はほぼ停滞。ただし、上方向にも微弱な流れがあります」
「出口は右、何かがあるのは左、正面は停滞、上は特殊……ですか」
《右へ行けば戻れる》
《左へ行けば進める》
《正面へ行けば考えられる》
《上へ行けば落ちる》
近くの四枚の看板が、順番にそう表示した。
私は少しだけ笑った。
「なるほど」
「何かわかりましたか?」
「まず、《右へ行けば戻れる》はおそらく本当です。ただ、戻れることが目的とは限りません。入口に戻るのか、正しい状態に戻るのか、迷路外へ戻るのか、そこが曖昧です」
「はい」
「《左へ行けば進める》は嘘の可能性が高いですが、進めない代わりに嘘コインが出るかもしれません」
「はい」
「《正面へ行けば考えられる》は、道としては停滞しているが、情報を得られる場所かもしれません」
「はい」
「《上へ行けば落ちる》は……普通に危ないですね」
《ちぇ》
「今のは本当だったようです」
カイが上を見上げる。霧の中に、逆さまになった小さな扉が見えた。
「上、行ってみたくない?」
「カイさん」
「まだ何もしてない!」
「意識が上に向いていましたよ」
「ルーザさん、ラウラだけじゃなくて俺の意識も読めるの!?」
「わかりやすいので」
「俺そんなにわかりやすい!?」
「はい」
カイは少ししょんぼりした。犬である。
私は考えた末、まず正面へ進むことにした。
出口へ直行するなら右だろうが、今の目的は迷路を理解することだ。
正面の停滞は、裏を返せば安全に情報を整理できる場所かもしれない。
それに、《正面へ行けば考えられる》という表現が気になった。看板の言葉をそのまま受け取るなら、正面へ進むことで「考える」状況に置かれる。
つまり問題部屋のような場所がある可能性が高い。
「正面へ行きましょう」
「了解」
「承知しました」
《正面はつまらない》
《正面は面白い》
《正面は正面》
《正面は斜め》
《正面って何?》
「哲学を始めないでください」
看板たちを無視して進むと霧が少しずつ晴れ、丸い広場のような場所に出た。
中央には一本の大きな看板が立っている。
ほかの看板より少し立派で、縁に金色の装飾がついていた。ただし、装飾が立派だからといって信頼できるわけではない。むしろ怪しい。
その看板には、こう書かれていた。
《この広場にある看板のうち、本当のことを言っている看板は一枚だけ》
周囲には五枚の小さな看板がある。
《一:出口は右にある》
《二:出口は左にある》
《三:この中に嘘つきはいない》
《四:一は嘘をついている》
《五:四は本当を言っている》
私は一瞬だけ目を細めた。
「論理パズルですか」
「そのようです」
ルーザが頷く。カイは看板を見て、少しだけ顔をしかめた。
「うわ、こういうの苦手」
「勢いで解くタイプではないですからね」
「俺のこと何だと思ってる?」
「水色の犬」
「ラウラまで!?」
《水色の犬》
《正解》
《吠える?》
「吠えねぇよ!」
《吠えた》
《びっくりコインを獲得しました》
「また!?」
カイは迷路との相性が良いのか悪いのかわからない。少なくともコインは出ている。びっくりコインに偏っているが。
私は看板の内容に意識を戻した。
本当のことを言っている看板は一枚だけ。
五が本当なら四も本当になるので、五は嘘。
四が本当なら一は嘘で、他が嘘なら成立する可能性がある。
三が本当だと全員本当になるので矛盾。
二が本当なら出口は左で、他が全て嘘。
すると四は嘘なので一は本当になってしまう?
いや、四が嘘なら「一は嘘をついている」が嘘、つまり一は本当。すると一と二が両方本当になるので矛盾。
一が本当なら出口は右で、四は嘘になり、五も嘘、三も嘘、二も嘘で成立する。
つまり本当は一だけ。出口は右。
「答えは一ですね」
私がそう言うと、中央の看板が少し震えた。
《正解》
ぽん、と嘘コインが一枚出た。
「正解で嘘コインなんですね」
《嘘を見破ったから》
「なるほど」
カイが感心したように言った。
「ラウラ、こういうの得意だよな」
「好きですね」
「俺は途中で四と五が喧嘩してるように見えた」
「感覚派すぎる」
「いや、でも四と五は仲悪そうだったぞ」
《四と五は仲が悪い》
《嘘》
《本当》
《昨日喧嘩した》
《一昨日もした》
「看板同士の人間関係、いや看板関係を出さないでください」
私は頭を押さえた。
迷路内の看板は情報のノイズが多すぎる。
正解したことで広場の右側に道が開いた。
私たちはそこへ進む。
しばらくすると、今度は分岐の多い通路に出た。
《笑えば正解》
一枚の看板が、ふいにそう表示した。
私は足を止めた。
ルーザが即座にこちらを見る。
「ラウラリア様」
「まだ笑っていません」
「笑うかどうか考えましたね」
「少し」
「笑わないでください」
「看板相手にですか?」
「念のためです」
しかし、その警告が少し遅かった。
私は笑ったつもりはなかったのだが、口元にごく薄い微笑みが乗っていたらしい。微笑みが癖になっているからだ。
次の瞬間、周囲の看板たちが一斉にざわめいた。
《きれい》
《ずるい》
《もう一回》
《道を教えたい》
《でも嘘つき看板だから嘘をつきたい》
《教えたい》
《騙したい》
《困る》
《看板、困る》
「ラウラリア様、看板を魅了しないでください」
「不可抗力です」
「看板まで反応するとは」
「私も想定外です」
看板たちは大混乱だった。
右を指す看板が左を向き、左を指す看板が自分を指し、正面の看板が《ちょっと待って》と表示する。
迷路が迷っている。嘘つき看板の迷路なのに、看板側が困っている。これはこれで面白いが、進行不能になったら困る。
カイは横で腹を抱えていた。
「看板が照れてる!!」
「笑わないでください」
「無理だろこれ!」
《水色の犬、笑った》
《犬も笑う》
《びっくりコイン?》
《いや、ごきげん?》
《どっち?》
ぽん、とごきげんコインが一枚出た。
「カイの笑いでごきげんコイン出ましたね」
「俺、役に立ってる?」
「立っています」
「方向性!」




