第38話 カイとの合流
私の「まだ来たばかりですよ」という返答を聞いた瞬間、笑う木は実に愉快そうに枝を揺らした。
枝に吊るされた小さな店々が一斉にからからと音を立て、瓶の中の光が跳ね、吊り看板が勝手に表裏を入れ替え、どこかの棚に並んでいた靴が一足だけぴょんと跳ねた。
普通の市場なら商品が動いた時点で大問題だけど、ここは妖精の国である。むしろ動かない商品の方が少数派かもしれない。
私は改めて周囲を見渡しながら、これは想像以上に厄介で想像以上に面白い場所だと理解した。
売り手は妖精だけではない。商品そのものがこちらを見ている。
値札も逃げるし、店もたぶん気分で移動する。つまり買い物とは言っても財布からお金を出して終わるような単純なものではなく、相手に選ばれ、条件を満たし、場合によっては商品と交渉する必要があるのだろう。
「ここでは欲しいものを買うんじゃない」
笑う木が、幹の顔をにんまりと歪ませながら言った。
「欲しがられたら買えるのさ」
「つまり、交渉相手は店主ではなく商品そのものですね」
「そうそう。よくわかってるね、青い王子」
「その呼び方は定着させないでいただけますか」
「じゃあ、印の王子」
「悪化していますね」
「じゃあ、青くてひらひらしてて面白そうな子」
「長い」
笑う木はけらけらと笑った。木なのに笑い声がやたら腹に響く。
というか、木が笑うたびに市場全体が揺れるので、枝の店たちが少し上下に揺れ、上の方から「こぼれるー」「鍋がー」「値札逃げたー!」みたいな声が降ってくる。
市場としてどうなのだろう。
妖精の市場としては正しいのかもしれないけど。
「ラウラリア様」
「はい」
「この市場では、購入前に必ず効果と条件を確認してください」
「もちろんです」
「商品が勝手に近寄ってきた場合も、即座に受け取らないでください」
「もちろんです」
「履かないでください」
「まだ靴の話はしていませんよ」
「そちらです」
ルーザがそう言った瞬間、私の足元に何かがこつんと当たった。
視線を下げると、小さな靴があった。深い緑色の、つま先が少し上向きに丸まった妖精らしい靴で、銀の糸で細かな葉の刺繍が入っている。
明らかに私の足の大きさではない。そもそも小さい。なのにその靴は左右揃って私の足元へぴょこぴょこと近寄り、まるで「さあ履け」と言わんばかりに身を乗り出している。
靴が身を乗り出すとは何なのか。自分で言っていてわからない。でも実際にそう見えるのだから仕方ない。
「……これは?」
「妖精の寄り道靴!」
近くの店から、小さな妖精が顔を出した。
丸い帽子をかぶった、店主らしき妖精だ。店主らしき、というのも怪しい。商品が動いている以上、店主が本当に店主なのか、店に住んでいるだけなのか、商品に雇われているのかすらわからない。
「一日一回、道を間違えた時に、もっと楽しい方へ足が向くよ!」
「危険です」
ルーザが即答した。
「まだ説明の途中ですよ」
「説明の途中で危険と判断できます」
「でも楽しそうですね」
「だから危険です」
完璧な返答だった。
しかし靴は諦めなかった。ぴょん、ぴょん、と跳ねながら私の足元へ寄ってくる。
しかも、微妙に可愛い。動きが小動物のようだ。
自分を履かせようとしている靴を可愛いと思うのはだいぶまずい気がするが、実際に可愛いのだから仕方ない。私は少しだけしゃがみ込んで、靴と目線を合わせた。
靴に目はないけど、なんとなく目線がある気がする。
「君は私に売られたいのですか?」
靴がぴょんと跳ねた。
「肯定のようです」
「ラウラリア様、近づきすぎです」
「まだ触っていません」
「履かせようとしています」
「靴が?」
「はい」
次の瞬間、本当に靴が動いた。
片方が私の足首の方へ跳ね、もう片方が少し遅れて続く。
私は思わず笑いそうになったが、その前にルーザの手がすっと伸びた。
彼女は靴を片方ずつ、まるで危険な小動物を捕まえるように指先でつまみ上げた。靴はじたばたした。靴がじたばたした。私はもう笑うしかなかった。
「じたばたしていますね」
「しています」
「可愛いですね」
「危険です」
「危険で可愛いもの、多くないですかこの国」
「妖精ですので」
また便利な言葉が出た。
店主妖精は不満そうに頬を膨らませている。
「その靴、青い王子を気に入ったのにー」
「購入条件は?」
ルーザが問う。
「花コイン五枚、迷子コイン一枚、あと一回道を間違えること」
「最後」
「靴だから!」
「靴だから、では説明になっていません」
「なるよ!」
「なりません」
ルーザと妖精の会話は平行線だった。
効果は面白い。間違いなく面白い。
赤の塔に応用できるなら、侵入者が道を間違えた時にもっと面白い方へ足が向くギミックとして使える可能性すらある。
いや、靴そのものは装備品だが、妖精のロジックを得られれば何かに応用できるかもしれない。
楽しい方向へ足が向く。危険な言葉だ。ダンジョン運営者としては非常に惹かれる。だが、今買うかと言われると微妙だった。迷子コインがないし、何よりルーザの視線が痛い。
「今回は保留にしましょう」
私がそう言うと、靴はがっくりと項垂れたように見えた。だから靴が項垂れるとは何なのか。
「あとで縁があれば」
そう付け加えると、靴は少しだけ復活したようにぴょんと跳ねた。店主妖精は「浮気しないでねー」と言った。
靴に浮気とは。もう何もわからない。
その時、遠くから見慣れた水色が走ってきた。
いや、走ってきたというより、人混みと妖精と吊り看板の間を器用に抜けながら、なぜか片手に葉っぱを持ってこちらへ向かってきた。
水色の髪。黒い翼。犬っぽい満面の笑み。
カイだ。
「ラウラー!」
「カイ、無事でしたか」
「無事! 迷子になったけど無事!」
「迷子になった時点で無事の定義が怪しいですね」
「でも迷子コイン三枚拾った!」
「稼いでる」
「迷子って稼げるな!」
「学習してはいけない方向です」
ルーザが即座に言った。正論である。
カイは私たちの前まで来ると、得意げに手の中のコインを見せてきた。確かに迷子コインがある。
淡い紫色で、表面にはぐるぐるした渦の模様が刻まれていた。迷子の概念をこれほどわかりやすく硬貨にすることある?いや、妖精の国ならある。
「それで、木の説教は終わったんですか?」
「終わった。最後に『少し枝ぶりが良くなった』って褒められた」
「おめでとうございます」
「何を褒められたんですか」
ルーザが真面目に聞いた。
「枝ぶり」
「カイさんに枝はありません」
「俺もそう思う」
カイは真顔で頷いたあと、すぐににやっと笑った。
「で、見せたいものがある」
「嫌な予感がしますね」
「いい予感だろ!」
「カイがそういう顔で持ってくるもの、大体面白くて危険なんですよ」
「最高じゃん」
「最高ですね」
「ラウラリア様」
ルーザの声が低くなった。
私は咳払いした。危ない。カイと話していると、判断基準が面白いかどうかに傾く。ルーザがいなかったらたぶんもう三つくらい変な商品を買っていた気がする。
カイが手のひらを開く。
そこにあったのは、小さな種だった。
赤とも緑とも紫ともつかない不思議な色をしていて、表面には笑った口のような模様が浮かんでいる。
見るからに怪しい。だが同時に、ものすごく惹かれる。
なぜなら、その種からは微かな妖精の魔力と、ギミックに近い何かの気配が感じられたからだ。
いや、私にそこまで精密な魔力感知ができるわけではないが、なんとなくわかる。これは、使える。何にとは言わないが、使える。
「これは?」
「いたずら罠の種」
「名前からしてダンジョン向きですね」
「だろ!?」
「だろ、ではありません」
ルーザが止めに入るが、カイはもう止まらない。
「説明がこれ」
彼は花びらでできた商品札を見せた。
《【いたずら罠の種】
植えると楽しい。楽しくない時もある
踏むと何か起きる。起きない時もある
価格:嘘コイン三枚、迷子コイン二枚、笑われた回数一回 》
私は無言で読んだ。
ルーザも無言で読んだ。
「……説明がひどいですね」
「だろ?」
「褒めていません」
「でも欲しいだろ?」
「欲しいですね」
「ラウラリア様」
ルーザの声がさらに低くなる。
しかし、これは本当に欲しい。
低級妖精罠を発生させられるなら、赤の塔の中層以降に仕込むだけでかなり面白くなる。
もちろん難易度を上げすぎると集客に悪影響が出るため、使いどころは慎重に考える必要があるが、報酬部屋前や分岐の一部に仕込めば、嫌らしいが記憶に残るダンジョンへ近づく。
しかも妖精由来という独自性がある。問題は説明の曖昧さと価格だ。嘘コイン三枚はある。迷子コイン二枚はカイが持っている。笑われた回数一回とは何だ。
「笑われた回数一回、というのは」
「俺が笑われればいいんだろ?」
カイが即座に言った。
「たぶん」
「任せろ」
「任せていいんですか?」
「笑われるのは得意だ!」
「それを胸張って言うのはどうなんですか」
カイはその場で大きく息を吸い、近くの妖精たちへ向き直った。
そして、なぜか変な顔をした。黙っていれば冷たい美形が、全力で変な顔をした。周囲の妖精たちは一瞬見た。
見たが、笑わなかった。むしろ「え、何?」「こわい」「顔が迷子」「枝ぶり悪くなった?」みたいな反応をしている。
カイが固まった。
「笑わない……だと!?」
「努力の方向が違います」
ルーザが静かに言った。
私は口元を押さえた。危ない。私が笑いそうだった。
でもここで私が笑って条件が満たされるのかはわからない。というか、笑ったらカイが少し傷つきそうだ。いや、もう傷ついているかもしれない。変な顔をして妖精に引かれる冷たい美形。絵面が強い。
その時、笑う木が低く笑った。
「水色の子」
「なんだよ」
「枝ぶりが、また少し悪くなったねぇ」
「俺に枝はないって言ってるだろ!?」
カイが素で叫んだ。
その瞬間、市場中の妖精たちが一斉に笑った。
けらけら、ころころ、鈴の音みたいな笑いが枝から根元まで広がっていく。値札まで笑っている気がする。商品札が揺れ、いたずら罠の種がぽんと跳ねた。
《条件達成:笑われた回数一回》
「納得いかねぇ!」
「条件は満たしましたね」
「俺の尊厳と引き換えに!」
「お疲れ様です」
「ラウラ、なんか淡々としてない!?」
「笑うと悪いかなと思って」
「優しさが逆に刺さる!」
カイは頭を抱えていたが、いたずら罠の種は無事に交換可能になった。
嘘コイン三枚を私が出し、迷子コイン二枚をカイが出す。共同購入である。購入処理が終わると、種はカイの手の上で小さく跳ね、まるで「よろしく」と言うように笑った口の模様を光らせた。
「これ、使う時は慎重にしましょう」
「わかってる。まずは一粒だけ試験運用だな」
「設置階層は?」
「中層以降」
「報酬付きで」
「だな」
これは収穫としてかなり大きい。
妖精の国のアイテムは単なるイベント報酬ではなく、赤の塔の経営にも関わる可能性がある。
つまり、このイベントは私個人の強化だけでなく、ヘル家と赤の塔の発展にも繋がる。そう考えると、やはり全力で探索する価値がある。
その後、私は市場をさらに見て回った。
どの商品も癖が強かった。
飲むと一時間だけ語尾が歌になる水。
持っていると道に迷いやすくなる地図。
相手に渡すと相手の靴紐だけがほどけるリボン。
夜にだけ読める本。ただし朝になると内容を忘れる。
効果は面白いが、実用性と危険性のバランスが非常に難しい。ルーザがいなかったら、私は三割くらい買っていた気がする。危ない。
そんな中で、私は一つの小さな栞を見つけた。
それは薄い銀色の栞だった。先端に小さな花の飾りがあり、表面には細い文字のような模様が刻まれている。派手ではない。むしろ市場の中ではかなり地味だ。だが、不思議と目が離せなかった。
「これは?」
近くの棚に座っていた小さな妖精が、眠そうに目を開けた。
「妖精契約の栞」
「効果は?」
「妖精との約束を、一度だけ文字にして確認できる」
私は目を細めた。
ルーザが初めて、明確に関心を示した。
「それは有用です」
「ですよね」
妖精との会話で最も怖いのは、言葉の解釈違いと契約の成立条件だ。もし一度だけでも約束を文字にして確認できるなら、事故を防げる。攻撃的なアイテムではないが、この国では非常に価値が高い。
「価格は?」
「花コイン三枚、嘘コイン二枚、ごきげんコイン一枚」
受付妖精が横から飛んできて、驚いた顔をした。
「え、もう買えるの?」
「はい」
「普通、最初は足りないのに」
「道を調べておいて良かったです」
「変なのー」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私は必要なコインを出した。
花コイン、嘘コイン、ごきげんコイン。
さっき三本の道を確認したからこそ揃っていた組み合わせだ。一つの道だけを進んでいたら、おそらく足りなかった。やはり最初の情報収集は正解だった。
栞は私の手のひらにふわりと落ちた。
《妖精契約の栞を獲得しました》
私はそれを慎重にインベントリへしまう。
「これは大事に使いましょう」
「はい。軽々しく使うべきではありませんが、いざという時の保険になります」
ルーザが認めた。これは大きい。ルーザが認める妖精アイテム、かなり信頼できる。
カイが横から覗き込む。
「いいなそれ」
「カイも買います?」
「コイン足りない」
「迷子コインに偏っていますからね」
「迷子稼ぎしすぎた」
「偏った稼ぎは危険ということですね」
「勉強になるなぁ」
カイは妙に納得していた。迷子から学ぶな。
買い物を終えたところで、笑う木がまた口を開いた。
「王に会いたいのかい?」
唐突だった。
私はゆっくりと顔を上げる。
「妖精の王様、ですか?」
「そうとも言うし、そうでないとも言う」
「また曖昧ですね」
「妖精だからねぇ」
「便利な言葉」
笑う木は枝を揺らした。
「王に会いたいなら、まず遊ばれな」
「遊ばれる」
「妖精は、遊べない客に興味がないよ」
「なるほど」
私は少しだけ笑った。
つまり、この国で奥へ進むには、戦闘力やコイン数だけでは足りない。妖精の遊びに付き合い、その中で評価される必要がある。面倒だ。非常に面倒だ。だが、面白い。
「遊びとは?」
ルーザが問う。
笑う木は三本の枝を揺らした。すると、枝の先から三枚の葉が落ちてきた。それぞれに文字が浮かび上がる。
《嘘つき看板の迷路》
《歌う花の舞踏会》
《逆流川の渡し舟》
見覚えのある要素ばかりだった。
さっきの三本の道が、そのまま発展したような遊びだ。
「三つの遊びを越えな。そうすれば、もっと奥の招待状が開く」
「全部ですか?」
「一つでもいい。三つでもいい。全部なら面白い」
「全部やりたいです」
「でしょうね」
ルーザが即答した。カイも同時に言った。
「全部やろうぜ!」
「でしょうね」
ルーザが二回目の諦めを口にした。
私は笑った。
「では、遊び方を学びましょう」
「遊ばれる前提で話を進めないでください」
「でも楽しそうだな!」
「ええ、とても」
笑う木が大きく笑った。
市場全体が揺れ、妖精たちが騒ぎ、どこかで値札がまた逃げた。




