第35話 妖精の国
花の門へ足を踏み入れた瞬間、視界が一気に光で満たされた。
それは転移の白い光とも、ログイン時の浮遊感とも違う、もっと柔らかくて、もっと騒がしくて、もっと遠慮のない感覚だった。
まるで大量の花びらと陽光と鈴の音と甘い香りを全部まとめて顔面に投げつけられたような、そんな綺麗な暴力。
そして次の瞬間、私は柔らかい草の上へ降り立っていた。
「――っ」
足元に広がっていたのは、見たこともないほど鮮やかな緑の草原だった。
いや、緑と言っていいのかすら少し怪しい。葉の一枚一枚が薄く光を含んでいて、角度によって青にも金にも見える。
踏みしめると草がかすかに歌うような音を立て、足を離すと何事もなかったかのように元へ戻る。
視界の先には巨大な花がいくつも咲いていて、その花弁の上を小さな光が転がるように跳ねていた。
空は青い。だが現実の空ともヘルの空とも違う。
雲の代わりに透明な魚が泳いでいて、遠くでは川が空へ向かって流れている。
というか、川が空へ向かって流れている。二度見した。やっぱり流れている。重力ちゃんと仕事してる?
「……すごい」
私の口から、素直な声が漏れた。
その横で、ルーザが静かに周囲を見渡していた。
彼女はさすがというべきか、転移直後にも取り乱していない。
足場を確認し、視界を確認し、私の位置を確認し、周囲の魔力の流れまで探っているようだった。
あまりにも落ち着いているせいで、逆にこの光景の方が間違っているような気がしてくる。いや、間違っているのは景色の方で合っていると思う。
空に魚がいるし、川が上へ流れているし、近くの花がたぶん私たちを見ている。花に目はないはずなのに、見られている気がする。
「ルーザ」
「はい」
「すごいですね」
「すごく危険ですね」
「感想の方向が違う」
「ラウラリア様、あちらの花は先ほどからこちらを観察しています。空の魚も一定の周期で進行方向を変えており、ただの背景ではありません。足元の草も踏圧に反応して魔力を返しています。景色としては美しいですが、環境としては全てが信用なりません」
「すごく危険ですね」
「はい」
言われてみればそうだ。綺麗だから忘れそうになるが、ここは妖精の国である。
木が喋るかもしれないし、草が密告するかもしれないし、空の魚が急に降ってくるかもしれない。
降ってくる魚って何?嫌だなでも少し見たいな。
そう思ってしまう時点で、たぶん私はだいぶ妖精側に適性がある。
そこで、視界の端にメッセージが跳ねるように現れた。
[ラウラ!!!!]
[やばい!!!!]
[空に魚いる!!!!]
[あと木に話しかけられてる!!!!]
[なんか「お前は枝ぶりが悪い」って言われた!!]
[俺、木に枝ぶり評価されたんだけど!?]
私は耐えきれず、少しだけ肩を震わせた。
カイが初手から事故っている。
いや、無事そうで何よりだ。無事そうではある。
メッセージがうるさいということは、少なくとも元気だ。むしろ元気すぎる。木に枝ぶりを評価されているのはよくわからないが、妖精の国ならありそうなのが怖い。
[こっちは無事だよ。ルーザも一緒]
[よかった!]
[俺は木に説教されてる!!]
[「もっと根を張れ」って言われた!!]
[俺、木じゃないんだけど!?]
[落ち着いて。たぶん人生訓だよ]
[木に人生訓言われるゲームある!?]
あるよ。ここに。
私は笑いを堪えながら、メッセージを閉じた。ルーザがこちらを見ている。
「カイさんですか」
「はい。木に説教されているそうです」
「……そうですか」
ルーザは一瞬だけ沈黙したあと、それだけ言った。
反応が薄い。
その時、目の前の草がふわりと揺れた。
風かと思ったけど、違う。
草の中から小さな何かが飛び出してきたのだ。
それは手のひらに乗りそうなほど小さな存在だった。
薄い羽。金色の髪。花びらを重ねたような服。ぱっと見は、絵本に出てくる妖精そのものだ。
大きな瞳は淡い緑で、頬は綺麗な桃色に染まっていて、見た目だけならとても可愛い。見た目だけなら。
問題は、その妖精が出てきた瞬間に、足元の草が「きゃー」「出たー」「受付だー」と小声で騒ぎ始めたことである。
草、喋るな。いや、歌っているのかもしれないけれど、どちらにせよ情報量が多い。
小さな妖精は私たちの前でくるりと回り、空中に腰掛けるように浮かんだ。
「招待状」
第一声がそれだった。
可愛い声だったけど、言い方が雑だ。
「招待状を見せてください、でしょうか?」
私がやんわりと言うと、妖精はぱちぱちと瞬きした。
「招待状見せて」
「少し丁寧になりましたね」
「えらい?」
「ええ、えらいです」
「やった」
妖精は両手を上げて喜んだ。ちょっと可愛い。
だがルーザが横で静かに警戒している。そうだ。可愛いからといって油断してはいけない。父上もルーザも言っていた。
妖精は面倒。可愛い面倒。つまり最悪である。
私はシステムメニューを開き、イベント参加用の招待状を表示した。
淡い花びらの縁取りがされたカードのようなものが、私の手元に現れる。ルーザも同じように、同行者用の印を表示した。
妖精は私の招待状を覗き込み、それからルーザの印を見て、また私の招待状を見る。
そして、ぴたりと止まった。
「……あれ?」
嫌な予感がした。
ルーザも同時に私の前へ半歩出た。早い。さすが。
妖精は私の招待状の周りをぐるぐる回りながら、何度も角度を変えて見ている。やがて、ものすごく楽しそうな顔になった。
「あれれれれ?」
「何でしょう」
「これ、普通の招待状じゃない」
「帰っていいですか?」
「だめ!」
即答だった。
判断が早い。
「普通の招待状に、観察印がついてる」
「観察印」
「うん。面白そうな子につくやつ」
「帰っていいですか?」
「だめ!」
「二回目も早い」
私は思わず遠い目をした。
観察印。父上とルーザの予想が的中している。
やはり私は妖精に目を付けられていたらしい。まだ何もしていないのに。
いや、何もしていないというのは無理があるかもしれないが、少なくとも妖精の国ではまだ何もしていない。入国審査の段階で面白枠認定されているの、なかなか先行きが不安だ。
ルーザが静かに問う。
「観察印とは、妖精側から特定の参加者を識別するための印ですか」
「そう!」
妖精は嬉しそうに頷いた。
「面白そうな子、変な子、きらきらした子、危なそうな子、転びそうな子、走りそうな子、歌いそうな子、泣きそうな子、全部見る」
「分類が雑ですね」
「雑じゃないよ。妖精の分類だよ」
「余計信用できません」
ルーザが真顔で返した。妖精が少しむっとする。
「黒いお姉さん、かたいねー」
「警戒していますので」
「つまんない」
「それは良かったです」
「え?」
妖精が止まった。
つまんないと言われて「良かったです」と返せる人間、なかなかいない。
妖精も予想外だったのか、少しだけ目を丸くしている。父上の言っていた「ルーザなら妖精が逆に困るかもしれん」が、早くも現実になりつつある。これは面白い。とても面白い。
妖精はしばらくルーザを見つめたあと、今度は私へ視線を戻した。
「こっちは面白そう」
「私は普通の参加者ですよ」
「嘘じゃないけど嘘っぽい」
「難しい評価ですね」
「だって、招待状がきらきらしてる。あと顔が良い。あと立ち方が王子みたい。あと中身がわくわくしてる」
「最後」
見抜かれている。
私は口元を押さえた。いけない。妖精相手に内心が漏れやすい可能性がある。
いや、私が顔に出しているだけかもしれない。ルーザがこちらを見ている。言いたいことはわかる。「だから言ったでしょう」ですね。はい。
「受付を続けていただけますか」
ルーザが話を戻す。
「はーい。招待状確認。同行者確認。面白印確認。黒いお姉さん確認」
「最後は必要ですか」
「必要。黒いお姉さんはかたい。記録した」
「記録しないでください」
「した」
「……」
ルーザが珍しく黙った。妖精は少し勝ち誇った顔をしている。
ルーザと妖精、相性が悪いのか良いのかわからない。少なくとも見ている分にはかなり面白い。
妖精は空中でくるりと回ると、指を鳴らした。
すると私たちの目の前に、花びらでできた小さな案内板が現れた。そこには、イベントの基本ルールが可愛らしい文字で書かれている。だが、可愛らしさに反して内容が妙だった。
《【妖精の国で集められるコイン】
金貨コイン:普通に歩くとたまに見つかる
花コイン:妖精を喜ばせるともらえる
月コイン:夜にだけこっそり出てくる
嘘コイン:嘘を見破るともらえる
迷子コイン:迷子になるともらえる
びっくりコイン:びっくりするとたまにもらえる
ごきげんコイン:誰かの機嫌が良いともらえるかもしれない
ひみつコイン:ひみつ! 》
私はしばらく黙ってそれを読んだ。
ルーザも黙っていた。
数秒後、私は口を開いた。
「ルーザ、迷子になることが推奨されていますよ」
「斬新ですね」
「ルーザが斬新って言った」
「斬新で済ませるべきではないと判断しています」
「ですよね」
びっくりコイン、ごきげんコイン、ひみつコインあたりもだいぶ怪しい。
特にひみつコイン。説明が「ひみつ」って何?説明を放棄するな。でも気になる。とても気になる。
ひみつコイン、絶対に何かある。名前からして隠し要素の匂いがする。
いや、そう思わせる罠かもしれない。だが、それでも気になる。妖精の国、こちらの好奇心を刺すのが上手すぎる。
妖精は胸を張った。
「いっぱい集めると、交換できるよ」
「何と交換できますか?」
「いろいろ!」
「具体的には」
「きれいなもの、へんなもの、つよいもの、よくわかんないもの、あと食べ物」
「食べ物は警戒対象ですね」
「おいしいよ?」
「それが問題だと聞いています」
「ちぇー」
妖精が頬を膨らませる。可愛いけれど、信用してはいけない。
おいしいよ、の裏に何があるかわからない。笑いが止まらなくなるかもしれないし、三日眠れなくなるかもしれないし、帰ってから普通の食事が物足りなくなるかもしれない。
怖い。美味しいものが怖いというのはなかなか新鮮だ。
「最初の目的地は?」
ルーザが聞く。
「笑う木の市場」
「市場」
「うん。交換所。案内所。迷子所。拾い物所。落とし物所。たまに喧嘩所」
「最後」
「妖精だからね!」
「便利な言葉ですね」
ルーザが淡々と言う。妖精は嬉しそうに頷いた。たぶん褒められたと思っているんだろう。違うと思う。
妖精が指を振ると遠くの景色が少しだけ開けた。
草原の先に、巨大な木が見える。
その木の幹はくねくねと曲がっていて、枝には色とりどりの布や看板やランタンのようなものが吊るされている。
遠目にも、そこがただの木ではないことがわかった。
たぶん笑う木の市場というやつだろう。木のくせに市場。もう突っ込むのはやめよう。妖精の国では、木は説教もするし市場にもなる。そういうものだ。
ただし、そこへ向かう道が問題だった。
私たちの前には、いつの間にか三本の道が伸びていた。
左は花畑の中を通る道。中央はまっすぐに見える白い小道。右は小川沿いに曲がっていく道。
どれもそれなりに綺麗で、それなりに怪しい。というか、全部怪しい。
妖精がにこにこしながら言う。
「道は三本あるよ」
「はい」
「正しい道は一つ」
「はい」
「楽しい道は全部だよ!」
「なるほど」
私は頷いた。
ルーザが即座に言う。
「全部危険という意味では?」
「たぶん、全部面白いという意味です」
「同じことです」
否定できない。
妖精はけらけら笑っている。私たちが悩むのを楽しみにしている顔だ。
これはもう完全に遊ばれている。だが、嫌な感じはしない。むしろ、始まったな、という気持ちが強かった。
私は三本の道を見比べる。
正しい道は一つ。
楽しい道は全部。
ならば、どれを選ぶべきか?
普通なら正しい道を探す。
効率を考えるなら最短で市場へ向かう。
だがここは妖精の国で、イベントの目的はコイン集めで、しかも迷子コインなどという不穏な存在まである。
正しい道だけが正解とは限らない。
むしろ、正しい道を選ばないことで得られるものもあるかもしれない。そう考えた瞬間、私は自分の口元が少しだけ緩むのを感じた。
「ラウラリア様」
ルーザの声が飛んでくる。
「はい」
「今、面白そうな道を選ぼうとしましたね」
「まだ何も言っていませんよ」
「顔に出ています」
「そんなにですか」
「そんなにです」
私は咳払いした。
妖精が嬉しそうにこちらを見ている。
「面白い子、どれ選ぶ?」
「そうですね」
私は三本の道をもう一度見た。
左の花畑は、いかにも妖精らしい。何か歌う花とか、香りの罠とか、花コインがありそうだ。
中央の白い小道は一見普通だが、こういう場合一番怪しい。
右の小川沿いは、水に何かがいる可能性が高い。空に魚がいるのだから、水の中に鳥がいても驚かない。
迷うな~。かなり迷う。
そして楽しい。
「ルーザ」
「はい」
「まずは正しい道を探しましょうか」
「賢明です」
「ただし」
「ただし?」
「正しい道を確認した上で、面白そうな道へ行くかどうか考えます」
「結局そこですか…」
ルーザが深く息を吐いた。妖精が拍手した。
「やっぱり面白い!」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「黒いお姉さん、大変そうだね!」
「理解しているなら協力してください」
「やだ。見てる」
「……」
ルーザが無言になった。
私は笑いを堪えながら、改めて三本の道へ視線を向ける。
妖精の国に入って、まだ最初の選択肢。
それなのに、もうすでに十分すぎるほど楽しい。この先がどうなるのか、私はまったくわからなかった。




