第3話 路地裏での出会い
次の瞬間、足の裏に確かな感触があった。
「――っ」
一瞬、呼吸が止まる。
さっきまで感じていた浮遊感は消えていて、代わりに地面を踏みしめる感覚がはっきりと伝わってくる。ほんの少し硬い石畳の感触。重心を移動させれば、ちゃんとそれに応じて身体が動く。
視界がゆっくりと開けていく。
白い光が薄れていき、その奥から現れたのは――
「……街?」
そこは、見渡す限りの石造りの街だった。
重厚な建物。黒に近い灰色の壁。どこかゴシック調というか、少しだけ不気味で、それでいて統一感のある景観。空は薄暗く、完全な夜ではないのに昼とも言い切れない曖昧な明るさをしている。
そして――
「人、多いな……」
視界のあちこちに、プレイヤーらしき人影が見える。
いや、らしきじゃない。完全にプレイヤーだ。
種族も見た目もバラバラで、角や翼が生えていたり、肌の色が人間じゃなかったり、明らかに現実ではありえない姿の人たちが、当たり前のように街の中を歩いている。
それが自然で、現実感がある。
「……え、ちょっと待って」
私は自分の手を、ゆっくりと持ち上げた。
細くしっかりした男の指、少しだけ色の濃い肌。関節の動きも指先の感覚も、全部がリアルに再現されている。
握る。開く。
問題なく動く。
次に、軽くその場で一歩踏み出してみる。
当たり前のように、身体がついてくる。
「いや、これ……すごくない?」
ただのVRってレベルじゃない。視覚だけじゃなく、触覚もバランス感覚も全部ちゃんとある。……なるほどね。これが、あそこまで話題になる理由か。
「そりゃあ、みんなハマるよね」
小さく笑いながら、私は周囲をもう一度見渡す。
街の中央らしき広場。人の流れ。どこかへ向かうプレイヤーたち。立ち止まって何かを確認している人。NPCらしき人物と話している人もいる。
……うん、完全にゲームの中だ。でも同時に、現実みたいなゲームでもある。
この感覚はちょっと面白いかもしれない。
[どう?]
突然、視界の端にウィンドウがポップアップする。
三毛猫からのメッセージだ。
[今ログインした]
[お、早いじゃん。どうよ]
私は少しだけ考えてから、正直に打ち込む。
[普通にやばい]
[だろ?]
[これもうゲームっていうか、ほぼ現実なんだけど]
[それな、しかも慣れるとマジで戻れなくなるぜ]
「それはちょっと怖いな……」
思わず苦笑する。でも、言いたいことはわかる。
この没入感は、確かに危ない。
[で、今どこ?]
[たぶん初期スポーンの街。名前はまだ見てない]
そう言いながら、私は視界の端に表示されているミニマップに目を向ける。
そこには――
[ヘル?っていうところみたい]
[あ、ヘルか。魔族の初期都市の一つだな]
[名前が物騒すぎない?ヘルって地獄じゃん]
[魔族だし]
[納得したくない納得感あるね]
軽くメッセージでやり取りしながら、私はその場でくるりと一回転してみる。
動きは滑らか。遅延も違和感もない。
うん、いいね。かなりいい。
[とりあえずチュートリアル受けとけよ。ギルド登録な]
そのメッセージを見て、私は動きを止めた。
「……んー」
少しだけ考える。
チュートリアルとしてギルド登録。つまりそれって、普通の流れ。
でも――
私はゆっくりと、周囲に視線を巡らせた。
広場の外、路地裏、人の少ない方向、NPCらしき存在。
ゲームは始まったばかりで、そしてこれはどうやるかで差が出るゲームらしい。
「……いきなりレールに乗るのも、ちょっとつまんないよね」
小さく呟いて、私はそのまま歩き出した。
向かうのは、人があまりいない方。
チュートリアルはあとでいい。
「ちょっと、自由に見て回ろうかな」
そう言って私は初めての街、ヘルの中へと足を踏み出した。
――――――――――――――――――――
広場から少し離れるだけで、街の雰囲気は一気に変わった。
「……急に静か」
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、人の気配が減る。
石畳はそのままだけど、道幅は少し狭くなって、建物同士の距離も近い。壁の色もどことなく暗く、窓も少ないせいか、全体的に閉塞感がある。
いかにも路地裏って感じ。
「こういうところって絶対なんかあるよね」
完全に偏見だけど。
でも、こういうゲームって大体そういうものだ。人が多いところは表、人が少ないところに何かがある。
だからこそ、私はあえてこっちに来た。だけど――
「……うーん、何もないな?」
数分歩いた結果がこれである。
いや、正確には何もないわけではない。建物はあるし、NPCらしき人影もちらほらいる。でも、イベントらしいイベントはまだ見つかっていない。
「さすがに序盤からそんな都合よく当たりは引けないか」
そう呟きつつ、壁にもたれかかる。
……いやでも、ふと違和感があった。
「……あれ?」
視線の端に、何かが映った気がした。
私は顔を上げて、その方向に目を向ける。
路地のさらに奥、人通りのほとんどない細い道。その端の方に――
「……人?」
誰かが倒れている。地面に横たわるようにして、動かない影。
距離はそれほど遠くない。数歩も歩けば届くくらい。
――あからさますぎない?
思わずそんな感想が浮かぶ。
こういうときは大体何かある。でも同時に、別の考えも頭をよぎる。
「……他の人はスルーしてる?」
周囲を見渡すと、完全に無人というわけじゃない。少し離れたところにはプレイヤーもいるし、NPCらしき人もいる。
でも、誰もその倒れている人物に近づこうとしていない。
見えていないわけじゃない。見えているはずなのに、関わらない。
「そういうタイプのやつかー?」
つまり、関わるかどうかをプレイヤーに委ねるタイプのイベント。
面倒ごとに見えるから無視する人もいるし、関われば何かが起きる可能性もある。
リスクとリターンの天秤。
「普通に考えれば……スルーが安定なんだけど」
そう呟いて、私は一歩、そちらに近づいた。
理由は、二つ。
一つは――
「ラウラくん的には、見捨てるのはナシでしょ」
私のロールプレイ。
甘い異国風王子様。人に優しく、困っている人を放っておけないタイプ。ラウラはそんな人柄なのに、ここで無視するのはさすがにキャラブレがすぎる。
そしてもう一つは――
「……どう見てもイベントだし」
これだ。
あまりにもそれっぽい。
わざわざ人の少ない場所に配置されて、しかも他のプレイヤーが関わっていない。
「初見ボーナス、あるでしょこれ!」
私は倒れている人物のそばまで歩み寄った。
近くで見ると、それは一人の老人だった。
長い白髪に、ややくたびれた衣服。けれど完全なボロではなく、どこか品のある仕立てをしている。顔立ちも、ただの一般人というよりは――
「……ん?」
そこでまた違和感。
「……普通じゃない気がする」
ただのNPCにしては、妙に作り込まれていると感じる。
……いや、気のせいかもしれないけど。
「……ま、いいか」
私はしゃがみ込んで、老人の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですか?」
できるだけ柔らかく、穏やかな甘い声で。
反応は……ない、ピクリとも動かない。
「え、これ死んでるとかないよね?」
一瞬だけ不安になる。いや、さすがにそれはないと思うけど。
私は少し考えてから、インベントリを開いた。
初期特典で入っていた初心者支援セット。その中に回復薬があったはず。
「えーと……あった」
小瓶を取り出す。
緑色の半透明な液体が入った、いかにもそれっぽいやつ。
「飲ませればいいのかな」
正直使い方はよくわからない。でもまあ、HP回復アイテムなら大体こういう使い方で合ってると思う。
私は慎重に老人の身体を少し起こして、その口元に瓶を近づける。
「はい、ゆっくりでいいですよ」
……って、これちゃんと飲むのかな。
そんなことを思った瞬間、老人の喉がかすかに動いた。
「お」
少しだけ液体が減る。ちゃんと飲んでいる。
そしてゆっくりと、老人の目が開いた。
濁っていた視線が、少しずつ焦点を結んでいく。
そして、その目が――まっすぐ、私を捉えた。
「……おぬしが、わしを助けたのか」
その言葉に、私は一瞬だけ目を細めた。
これ、当たり引いたかも。
そう思いながら、私はにっこりと微笑んだ。
「ええ。困っている方を見過ごすわけにはいきませんから」




