042.くゆり
「それで? 今日はどうしたの?」
ディランがこの家に来るのは、幼い頃の肝試し以来だ。大人たちに相当雷を落とされたものだから、余程の理由がなければ、この雪の中を何時間もかけて来る筈がない。
若き政務官は何度か言葉を探すように口を開閉させていたが、意を決したように背筋を正すと、行儀のよさを感じさせる所作で頭を下げた。
「先日は、大変申し訳なかった」
「そう。それで?」
「……え?」
「え? まさか、それだけのためにこの雪の中を歩いて来て、しかも何時間も待っていたの?」
クレールにとっては素直な疑問に対し、青年の肩が強張る。上げられた顔は、この上なく居心地が悪そうにしていた。
「それだけって……言葉も過ぎたし、怪我までさせてしまった……ゼファー兄にも、あんなに叱られたのは幼年学校でうっかり教室の扉を外した時以来だ……」
従兄でもある政務官に相当絞られたのだろう、言いながらディランの肩が小さくなっていく。
その姿に既視感を覚えて記憶を手繰れば、街で見かける犬が脱走して飼い主に怒られ、この世の終わり一歩手前と言った雰囲気を醸し出していた時とよく似ている。視線の彷徨わせ方なんてそっくりだ。
呑気に茶を一口啜り、クレールは未だに萎んでいる青年を眺める。
「あまり気にすることないわ。怪我は……まあ、私も吃驚したけれど。所詮、たかが怪我だし。もう完全に治っているし」
クレールは右手を顔の高さで広げる。柔らかな肉が瑞々しく白い皮膚が張られたその手は、まだ二日だというのに傷痕どころか染みひとつない。
「それに貴方のあれは、どちらかというと警告だったでしょう?」
ディランは暫く口を噤んでいたが、波紋ひとつなく澄んだ灰青の双眸に耐えかねたように、小さく頷いた。
ミラレーヌ王家が直接治める王都がシルヴェ・ティティアと比べて遥かに身分社会だということは、クレールも伝え聞いている。そしてディランはその場所で、去年まで暮らしていた。
かつての辺境伯家の傍系で幼い頃から政務官になることが決まっていたとはいえ、貴族位を持たないディランは王都の人間から見ればただの平民だ。
それが上位貴族と並んでも遜色ない容姿と振る舞いを持ち、隣領のミルザムを始めとした貴族の友人と共に学園に通い、華々しい成績で卒業した。領にいる彼を知らない人間からしてみれば、ぽっと出の妬ましい存在でしかなかったのだろう。
晒された悪意なんて、数えるのが飽きるくらいにはあったに違いない。少なくとも、王都に馴染み切れずに在学中に戻って来てしまった歴代の政務官見習いはひとり、ふたりではなかった。
「貴方と違って、私はそういうことに耐性のない街娘だもの。一時の戯れならまだしも、長く付き合うには私と彼は身分が違い過ぎる。やり方はどうかと思ったけれど、貴方は私に大貴族の誘いを断る口実を作ろうとしてくれたのでしょう?」
だからディランは、怪我をしたクレールに謝ろうとした。度が過ぎてしまったと。
だが怪我の状況を重く見たエドガーが、それを許さなかった。
「あそこまで貴女に執着していると思わなかった。王都での閣下が特定の女性と懇意にしたという話は聞かなかったから、余計に。でも街の者たちに聞いたら、皆口を揃えて貴女の許に通っていると言うんだ」
湯気が小さくなり始めた林檎茶を見つめながら、若き政務官はぽつぽつと語る。
その向かいで耳を傾けながら、クレールは小さく息を吐いた。
「魔術師様のあれは、珍しい毛色の私を面白がって一時の戯れで構っているだけでしょうよ。きっと冬が終わる頃には、飽きてしまわれるわ」
「そんなことは……閣下は誠実な方だ。王都で見た他の貴族とは比べようもない。先日の雪祭りだって、民の安全が第一だと仰って雪像の周りに囲いを作られていた。まさか本当に雪像が崩れるだなんて思わなかったが、景観を気にする貴族なら煩わしい囲いなんて作ったりしない」
クレールは小首を傾げた。卓を小さく叩き、言い募る青年の意識を向けさせる。
「貴方、自分の発言の矛盾に気付いている?」
「え?」
「あの日の貴方は彼から私を引き離そうとしたのではなく、私から彼を遠ざけようとしていたのよ?」
濃青の双眸が瞠られる。何か言い募ろうと腰を浮かしかけ……すぐには適した言葉が見つからなかったのだろう、ディランは静かに椅子に座り直した。
「そもそも私、彼に気に入られるような態度を取った覚えがないの」
「一目惚れ……とかじゃないのか? だって貴女も、『メガミに近しい容姿』じゃないか」
特定の容姿を揶揄する言葉に、クレールは灰青の双眸を細める。
「貴方もよく知っているでしょう? 私、いつも襤褸を着て、顔を隠して街を歩いているのよ」
「……あ」
クレールが粗末な格好で街を歩くのは裕福でないのもあるが、一番の理由は変な輩に目を付けられないためだ。
シルヴェ・ティティアの住民、特に旧シリウス辺境伯家に近しい者は、淡い色素に整った目鼻立ちをしている者が多い。その特徴はメガミの娘であるミラ・ブランシェの初代女王と似通っていることから『メガミに近しい容姿』とも呼ばれ、他の街で似た容姿をしているのは王族や貴族階級の者が主だ。
クレールの焦がし砂糖色に見える金髪と灰青の瞳、そして整って愛らしい顔立ちは、旧シリウス辺境伯家の系統とは少し異なっているが、その特徴に引っかかっている。見た目だけなら高く売れるのだ。
「この街の人は、蛇女と私を厭うたり軽んじたりしても私を売ったりなんかはしない。これでも私も掟と法で守られたシルヴェ・ティティアの住民だから……でしょう?」
「あ、ああ……」
「でも新参者や観光客、流れの者は違う。私はただの商品に成り得る。だから独り身の私が街に出る時は、必ずフードか帽子で髪と顔を隠すようにしている」
観光客が多く歩いている表通りには極力近寄らない。平日のできるだけ明るい時間に出歩き、馴染みの店だけに寄り、掟である夜の鐘が鳴るよりも早く家に帰るようにしている。
「それでどうやって、一目惚れができるというの?」
西の図書館では顔を隠していないが、それはあの場所の利用者のほとんどが街の住民だからだ。つい先日利用するまで、彼が領記を読破しているほど利用しているだなんて思ってもみなかった。
「仮に一目惚れされたとしましょう。けれど私は、出会ってからの彼に気に入られるような態度を取った覚えはない。憐れまれるような姿を見せたことは何度もあったけれど……それが恋慕に変わるなんてこと、あり得るのかしら?」
高く澄んだ声に混ざる冷たさに、ディランは言葉を失う。あまり付き合いがないとはいえ、この少女が誰かに対して冷めた表情をするのを、彼は見たことがなかった。




