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■第4話:断片の夜

 夜は、思っていたより静かだった。


 警報も、足音も、すべて消えている。


 屋敷はいつも通りの顔に戻っているのに、

 この部屋だけが、少し違っていた。


「……」


 私はグラスの氷を指で軽く揺らす。


 からん、と小さな音が鳴る。


 男はベッドにもたれたまま、目を閉じていた。


 熱は少し下がったみたいだけど、顔色はまだ悪い。


「……起きてる?」


「……寝てるように見えるか」


「見えない」


 短いやりとり。


 それでも、昨日よりは少しだけ空気が軽い。


「……あんたさ」


 男がぽつりと言う。


「なんで通報しなかった」


 その質問は、まっすぐだった。


「……なんでだと思う?」


 私は逆に聞き返す。


 少しだけ間が空く。


「……気まぐれ」


「ひどい言い方」


「当たってるだろ」


「半分くらいね」


 私はグラスをテーブルに置いた。


「……もう半分は?」


「言わない」


 男はそれ以上追ってこなかった。


 ただ、小さく息を吐く。


 その沈黙が、少しだけ心地いい。


「……あんた、何してんの」


 私はふと思って聞く。


「バイトだよ」


「普通の?」


「だったらここにいねぇだろ」


 即答だった。


 私は少しだけ言葉に詰まる。


「……危ないやつ?」


「さあな」


 男は目を開けないまま答える。


 でも、その言い方で分かる。


 ――普通じゃない。


 少しの沈黙。


 氷が溶ける音だけがする。


「……金、いるんだよ」


 ぽつり、と落ちる声。


「……なんで」


「大学、やめたくねぇから」


 それ以上は言わない。


 でも、それで十分だった。


 軽く言ってるみたいで、軽くない。


 私は、何も返せなかった。


 自分が今まで、どれだけ“困らない側”にいたのか、

 急に輪郭を持った気がした。


「……あんたは?」


 男が言う。


「何してんの」


「大学」


「それは見りゃ分かる」


「……美術」


 少しだけ間を置いて答える。


 男の目が、初めてちゃんと開いた。


「……は?」


「美術学部」


 男はじっと私を見る。


 何かを測るみたいに。


「……どこ」


 私は大学名を言う。


 一瞬の沈黙。


「……あそこか」


「知ってるの?」


「……通ってる」


「え」


 思わず声が出る。


「同じ大学?」


「……多分な」


 あまり興味なさそうに言う。


 でも、さっきより空気が少しだけ変わった。


 私は少しだけ笑う。


「変なの」


「何が」


「泥棒と同じ大学って」


「こっちのセリフだ」


 男は目を細める。


 でも、否定しない。


 そのまま、視線が壁の絵に向かう。


 私はつられて、同じ方向を見る。


「……これ」


 私は言う。


「好きなんでしょ」


「……まあな」


「どこが?」


 少しだけ試すように聞く。


 男はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと口を開く。


「静かに見せてるけど」


 目を細める。


「奥、濁ってる」


「……」


 言葉が止まる。


 私も、そこを見ていた。


 でも、それを言ったことはなかった。


「普通、綺麗って言うよね」


「浅いからな」


「ひどい言い方」


「事実だろ」


 男は絵から目を離さない。


「この絵、ちゃんと見てるやつ、ほとんどいねぇよ」


「……」


 胸の奥が、少しだけ熱くなる。


 分かる。


 この人は、“同じところ”を見ている。


「……変なやつ」


 私は小さく言う。


「どっちが」


「あなた」


「光栄だな」


 少しだけ笑う。


 そのやりとりが、妙に自然だった。


「……ねえ」


 私はふと口を開く。


「体調戻ったらさ」


「ん?」


「……うち、人手足りてないの」


 視線を逸らす。


「だから、別に」


 言葉を探す。


「手伝えば」


 男は一瞬だけ黙る。


 それから、小さく笑った。


「……なんだそれ」


「嫌ならいい」


「いや」


 少しだけ間を置いて。


「悪くねぇな」


 軽い返事。


 でも、完全に冗談でもない。


 私はそれ以上何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。


 でも、不思議と居心地は悪くない。


 窓の外には、夜が広がっている。


 静かで、何も変わらないはずの景色。


 なのに。


 この部屋の中だけ、少しだけ違う。


「……」


 私はぼんやりと思う。


 この人は、私の知らない世界で生きている。


 でも――


 同じものを見ている。


 それが、少しだけ不思議で。


 少しだけ、嬉しかった。


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