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■第3話:価値の温度

「お前の部屋、ホテルのスイートルームみたいだな……」


 男が、ゆっくりと部屋を見渡す。


 高級な調度品。整えられた家具。壁にかけられた絵画。


 その視線は、ただの感想じゃない。


 ――値踏みでもない。


 “確認している”。


「……そう?」


 私は適当に返す。


 言われ慣れている言葉だった。


 でも、その言い方は少し違った。


 私は改めて男を見る。


 同い年くらい。


 整った顔立ち。


 でも、どこか削れている。


 ――生活の跡、みたいなものがある。


「……なに」


 視線に気づいたのか、男が言う。


「別に」


 その瞬間だった。


 ぐらり、と。


 男の体が崩れた。


「ちょっ……!」


 支える間もなく、床に倒れる。


 額に触れる。


「……っ、熱……」


 異常なほどに熱い。


「ほんと、最悪……」


 私は冷蔵庫を開ける。


 ゼリー、薬、飲み物。


 全部揃っている。


 ――最初から、“困らないように”。


 一瞬、手が止まる。


 どれを使えばいいのか分からない。


 普段なら、誰かがやってくれるから。


「……これでいいか」


 私はゼリーと風邪薬を取り出す。


 グラスに水を注ぎ、氷を入れる。


 冷蔵庫の中のレモンを手に取る。


 包丁の扱いは慣れていない。


 少しだけ手元が危うい。


「……なんで私が」


 小さく呟きながら、それでも切る。


 レモンを落とす。


 氷が、からんと鳴る。


 私は男のそばに戻る。


「飲める?」


 ゼリーの口を、唇の近くに持っていく。


 わずかに動く。


 少しだけ流し込まれる。


 ごく、と音がした。


 飲み込んでいる。


「薬も」


 錠剤とグラスを差し出す。


 男はゆっくり受け取り、飲み下す。


 氷が小さく揺れる。


 レモンの香りが、かすかに広がる。


「……全部、あるんだな」


 ぼんやりとした声。


「は?」


「薬も、飲み物も」


 天井を見たまま言う。


「何も困らねぇ部屋だ」


「……そういう家だから」


「違うだろ」


 男は目を細める。


「“困らないようにされてる”だけだ」


「……」


 言葉が出ない。


 否定できない。


 男はそれ以上追わない。


 ただ、視線を横にずらす。


 壁の絵へ。


 そして――止まった。


「……これ」


 空気が変わる。


 男はゆっくりと立ち上がる。


 ふらつきながらも、絵に近づく。


 何度も、何度も見返す。


 まるで、信じられないものを見るみたいに。


「……なんで」


 小さく呟く。


 自分に向けた声だった。


「……なに」


 私は少しだけ警戒して聞く。


 男は一度視線を外す。


 でも、すぐに戻る。


 逃げきれないみたいに。


「……お前」


 間を置いて、言う。


「この絵、どうしてここにある」


 その聞き方。


 知っている前提。


「え?」


 私は首を傾げる。


「あなた、詳しいの?」


 男は答えない。


 ただ、見ている。


 私は少しだけ嬉しくなる。


 初めてだ。


 この絵に反応した人。


「この作家、知ってるんだ」


 自然と声が柔らかくなる。


「展覧会で話題になった人。天才って言われてたの」


 男の肩が、わずかに揺れる。


「でも、もう亡くなってる」


 沈黙。


「私はこの人の絵が好きなの」


 言葉が、するりと出る。


「だから集めてる」


 そう言ったあとで、気づく。


 男の表情がおかしい。


 驚きじゃない。


 怒りでもない。


 ――どこか、噛み締めている。


「……変な絵だろ」


 ぽつりと、男が言う。


「え?」


「優しそうに見せてるだけだ」


 目を細める。


「ちゃんと終わらせてない」


「……違う」


 反射的に言い返す。


「この絵は――」


 言葉が続かない。


 いつもなら説明できるのに。


 男は少し笑う。


「ほらな」


 その笑い方は、苦い。


「逃げてるんだよ、この絵」


「……逃げてない」


 私は強く言う。


 初めて、自分でも驚くくらい。


「これは、そういう終わり方なだけ」


「終わってねぇよ」


 男は即答する。


「途中でやめてるだけだ」


「……っ」


 言葉が詰まる。


 でも、目は逸らせない。


 男は、静かに絵を見続けている。


 その目は――


 他の誰とも違った。


 評価でも、値段でもない。


 もっと個人的で、もっと鋭い。


 痛みみたいなものを含んでいた。


「……」


 私は何も言えなかった。


 ただ、思う。


 この人は。


 この絵を、“知っている”。


 そして――


 初めてだった。


 この絵を、自分と同じ温度で見ている人に出会ったのは。

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