■第2話:隠すという選択
警報音が止んだのは、深夜を少し回った頃だった。
その代わりに、静けさがやけに重くなった。
「……」
私は息を殺したまま、ドアの外に意識を集中させる。
足音。
使用人のものだ。
規則正しく、無駄のない歩き方。
この屋敷の“正常”を体現する音。
――来る。
ノックが鳴った。
「お嬢様。失礼いたします」
いつもの声。
でも、今日は違う。
「……どうぞ」
喉が少しだけ乾いているのが分かった。
ドアが開く。
入ってきたのは、年配の女性――この屋敷で一番長く仕えている人だ。
「先ほど警報が作動しましたが、お怪我はございませんか」
「ええ、大丈夫」
私はできるだけ自然に答える。
その背中のすぐ向こう。
カーテンの裏に、男はいる。
動かないで。
音を立てないで。
そう祈るしかない。
「室内の確認をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「……必要?」
思わず、少しだけ強い口調になる。
自分でも分かるくらい、不自然だった。
使用人は一瞬だけ目を細める。
「念のためでございます。侵入者は複数の可能性がございますので」
正論だ。
逃げ場はない。
断れば怪しまれる。
通せば終わる。
「……どうぞ」
私は一歩、横にずれた。
使用人が部屋に入る。
視線が、床をなぞる。
割れたガラス。
わずかに残る血の跡。
――まずい。
呼吸が浅くなる。
使用人が窓に近づき、破片を確認する。
その数秒が、やけに長く感じた。
視線が床へと落ちる。
ガラス片のそば――
わずかに、拭いきれていない血の跡。
心臓が強く跳ねた。
――見られた。
そう思った瞬間。
「窓が……」
使用人の声は、割れたガラスへと向いていた。
血には、触れない。
いや――
気づいていないのか、
それとも、“優先順位を変えた”のか。
「さっき、自分で割ったの」
私はすぐに言葉を重ねる。
「びっくりして、閉めようとして……手が滑って」
使用人は窓枠に手を添え、破損の状態を確認する。
視線はガラスの断面へ。
床の一点には、もう戻らない。
「……お怪我は」
「ないわ」
即答する。
間を与えない。
数秒の沈黙のあと、使用人は小さく頷いた。
「そうでございますか」
そのまま視線は部屋の奥へ移る。
血の跡には、最後まで触れなかった。
しかし、完全には警戒を解いていない。
部屋の奥へ向かう。
一歩。
また一歩。
カーテンまで、あと数歩。
心臓の音がうるさい。
聞こえるんじゃないかと思うほど。
――やめて。
そのとき。
「もういいでしょ」
私は言った。
少しだけ、苛立ちを混ぜて。
「警備も入ったんだし、これ以上は大げさじゃない?」
沈黙。
使用人が、ゆっくりとこちらを見る。
試されている。
そう直感した。
「……承知いたしました」
やがて、静かに一礼する。
「ガラスの処理は明朝に。今夜はそのままでお休みください」
「ええ」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなったところで――
「……はぁ……」
力が抜けた。
膝が崩れそうになるのを、なんとかこらえる。
助かった。
いや、まだだ。
私はゆっくりとカーテンに近づく。
そっと開ける。
男は、そこにいた。
壁にもたれ、息を潜めている。
額には汗。
顔色はさらに悪い。
「……生きてる?」
「……なんとか」
かすれた声が返る。
「……お前」
男がこちらを見る。
「平気で嘘つくな」
「あなたを守るためなんだけど」
「……そういう問題かよ」
小さく笑う。
その余裕が、少しだけ腹立たしい。
「動かないでって言ったでしょ」
「動いてねぇよ」
「音も立てないで」
「……さっきの心臓の音、そっちだろ」
「うるさい」
思わず言い返す。
こんな状況なのに。
妙に、普通の会話だった。
私はため息をつきながら、床に座る。
「……とりあえず」
視線を逸らしたまま言う。
「今日は、ここにいなさい」
「は?」
「外に出たら終わりでしょ」
警備はまだ完全には引いていない。
今動けば、確実に捕まる。
男はしばらく黙っていたが、やがて視線を落とした。
「……世話になる理由、ないけどな」
「あるでしょ」
私は即答する。
「怪我してるし、熱もあるし」
「……」
「それとも、今すぐ出てく?」
わざと淡々と聞く。
男は小さく舌打ちした。
「……くそ」
それが答えだった。
「決まりね」
私は立ち上がる。
クローゼットから毛布を引っ張り出し、無造作に投げる。
「使って」
「雑だな」
「文句言える立場?」
「……言えねぇな」
男は苦笑する。
そのまま、ゆっくりと身体を横たえた。
私は少し離れた場所に座る。
距離を保ったまま。
でも、同じ空間にいる。
「……ねえ」
ふと、口を開く。
「なんで、逃げ遅れたの」
男はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと。
「……ミスっただけだよ」
短い答え。
でも、それ以上踏み込む空気ではなかった。
「そう」
私はそれ以上聞かなかった。
沈黙が落ちる。
屋敷はいつも通り静かだ。
何も起きていないみたいに。
でも。
「……」
私は横目で男を見る。
この部屋には、確かに“異常”がある。
それを、自分で選んだ。
守られてきた生活の中で、初めて。
誰にも決められていない選択をした。
「……変なの」
小さく呟く。
「なにが」
「全部」
答えながら、少しだけ笑った。
きっと。
もう、戻れない。
そんな気がしていた。




