■第5話:名前の距離
「……名前」
朝の光が差し込む部屋で、私は言った。
彼は少しだけ眉を寄せる。
「は?」
「聞いてなかった」
短いやり取り。
でも、昨日までとは少し違う空気。
私は先に口を開く。
「黒河凛」
名前を置くみたいに、静かに言う。
一瞬、間が空く。
理人は視線を逸らして、小さく息を吐いた。
「……高瀬理人」
それだけ。
それだけなのに、何かが少し変わる。
「理人」
「呼ぶな」
「じゃあ何て呼ぶの」
「好きにしろ」
「じゃあ理人」
「……勝手にしろ」
小さなやり取り。
でも、昨日より少しだけ距離が近い。
⸻
「……動ける?」
「まあな」
理人はゆっくりと体を起こす。
まだ本調子じゃない。
「病院、行く」
「は?」
「傷、ちゃんと診てもらう」
「……いいのかよ」
「うちの親戚のとこだから」
理人は一瞬だけ考えて、ため息をつく。
「……世話になるな」
⸻
車の中は静かだった。
窓の外の景色が流れていく。
「……怖くないのか」
ぽつりと理人が言う。
「なにが」
「俺」
私は少しだけ考える。
「……昨日よりは」
「ひでぇな」
「事実でしょ」
理人は小さく笑った。
病院は静かだった。
白い壁と、消毒液の匂い。
「凛」
診察室に入ると、叔父が顔を上げる。
「その子、どうした」
「怪我してるだけ」
「“だけ”で連れてくる顔じゃないだろ」
叔父の視線が理人に向く。
まっすぐで、冷静な目。
「……転んだだけです」
理人が言う。
曖昧な答え。
でも、崩れない。
「座れ」
短く言われ、処置が始まる。
包帯が外される。
「……深いな」
「縫うか」
「任せます」
理人は表情を変えない。
痛みを見せないのが、逆に不自然だった。
処置の間、沈黙が続く。
やがて叔父が口を開く。
「凛」
「なに」
「この子、信用してるのか」
一瞬、空気が張る。
「してない」
私は即答する。
叔父はそれ以上何も言わなかった。
外に出る。
空気が少し軽い。
「……さ」
私は歩きながら言う。
「もうやめなよ」
「なにを」
「そういうの」
理人は少しだけ笑う。
「簡単に言うな」
「簡単でしょ」
「……それで済むなら、最初からやってる」
言葉が止まる。
分かっているつもりで、分かっていなかった。
「……ごめん」
「別に」
屋敷に戻る。
同じ部屋。
同じ絵。
「……あんたさ」
理人が壁の絵を見る。
「ん?」
「……なんでこの絵に、そこまで執着してんだよ」
私は少しだけ考える。
「……分かんない」
「は?」
「でも、震えるから」
理人は少しだけ黙る。
「……変なやつ」
「あなたに言われたくない」
私は少しだけ笑う。
「でも」
続ける。
「あなたの見方、嫌いじゃない」
理人は視線を逸らす。
「……そうかよ」
窓の外は夕方に変わっていた。
光がやわらかい。
私はぼんやりと思う。
名前を知った。
それだけのはずなのに。
少しだけ、距離が変わった気がする。
この人は、危ない。
普通じゃない。
でも――
同じものを見ている。
それが、少しだけ心地よかった。




