連絡員の暗躍――飢餓のボーダーラインと為政者の業
帝都イストバルからサージョ・グループがその機能を引き上げ、街から消え去ってから二日が経過していた。
かつて大陸最強を誇った軍事国家の首都は、商店の棚から瞬く間に食料が消え去り、金を積んでもパン一つ買えない異常事態に陥っている。そのような状況の中、市民の顔には明確な飢えへの恐怖が浮かび始めていた。
帝都の下町、その入り組んだ裏路地の一角。
窓を分厚い布で覆った薄暗い部屋の中で、サージョの連絡員である男は通信機を起動した。赤い結晶が明滅し、遥か西方にいるサトシと回線が繋がる。
「――こちらイストバル潜伏班。街中の混乱は頂点に達しつつあります。市場の流通は完全に停止。そろそろ、街から完全に食料がなくなります」
『ご苦労』
ノイズ越しに響くサトシの声は、静かだった。
『計画通りに進めろ』
「了解しました」
通信を切った連絡員は、すぐさま行動を開始した。
深夜。連絡員と数名の部下たちは、帝都に点在する何の変哲もない、目立たない貸倉庫や、放棄されたように見える民家へと密かに足を踏み入れ、鍵を開け、ランプの火を灯す。
そこには、サージョが撤退する数週間前から少しずつ運び込み、隠匿していた物資の山があった。麻袋にぎっしりと詰められた小麦が天井まで届くほど満載されていたのである。
◇
翌朝。
連絡員たちはサージョの店舗や物流拠点、銀行で働いていた現地要員たちを密かに招集した。そしてスラム街や裏通りで困窮者や体の弱い老人、子供たちを中心とした極秘の炊き出しを開始したのだ。
「ほら、熱いから気をつけてな。ゆっくり食べるんだぞ」
普段着にさりげなくサージョのバッチをつけた現地要員が、木の器にたっぷりのスープを注ぎ、震える手でそれを受け取る困窮者たちに手渡していく。
「あ、ありがてえ……。ああ、神様……」
涙を流してすがる老婆に対し、現地要員は周囲を警戒するように声を潜めて言った。
「しっ、声が大きい。これは秘密の炊き出しなんだ。バレると全部お上が持って行っちまう」
そして、スープをすする者たちの耳元で、彼らは申し訳なさそうに、しかし確実に「ある言葉」を囁いた。
「本当ならもっと肉や野菜も入れてやりたいんだが……。サージョ様を皇帝陛下が強引に追い出しちまったからな。隠れてこんなことしかできなくて、本当に済まない」
「……皇帝が、サージョ様を?」
「ああ。俺たち庶民の暮らしなんて、上の連中はどうでもいいのさ」
飢えた腹を満たす温かいスープとその言葉。 それは帝国の権威に対する猛烈な不満と、サージョへの強烈な帰属意識を、市民の心の底に植え付ける最強の劇薬であった。
さらに数日が経過した。
街は限界だった。暴動の火種は至る所で燻り、悲鳴と怒号が絶えない。
連絡員は再び、通信機を通じてサトシと連絡を取っていた。
「サトシ様。炊き出しの規模を維持していますが、市民の飢餓状態は深刻です。このままでは……」
『……分かっている』
サトシの声には、いつもの冷徹な経営者としての響きの中に微かな、しかし確かな苦渋の色が混じっていた。
『この作戦は、徹底的に飢えさせることに意味がある。腹が減らなければ、民衆は立ち上がらない。怒りの矛先を皇城へ向かわせるための着火剤だ』
サトシは深くため息をついた。
かつて、日本のブラック企業で社畜として、理不尽な上司の命令にすり潰され、踏みにじられてきたサトシである。
権力者の都合で最も苦しむのはいつだって名もなき弱者だということを、彼は誰よりも知っていた。だからこそ、何の罪もない市民を自らの計算で飢えさせているという現実に、猛烈な吐き気と申し訳なさを感じていた。
『……だがな。もしここで帝国が我々の条件を飲まず、戦争という愚行を選び続ければどうなる? 傷つくのは最前線に駆り出される下っ端の兵士たちと、国境周辺で畑を耕している罪のない住民たちだ。奴らが剣を交えれば、この計画で帝都が味わう苦痛の何十倍もの血と涙が流れることになる』
通信の向こうで、サトシが強く拳を握りしめる気配がした。
『それを防ぐためには帝都で為政者に地獄を味あわせるしかない。数万の命を救うための、これは避けられない痛みだ。……だが、餓死者を出してしまっては致命的な禍根が残る。復興後の都市の価値も下がる。なにより、俺は末端を使い捨てにするブラック企業の上司にはならない』
サトシは、絞り出すように命じた。
『要求は通す、絶対に誰も死なせない。そのギリギリの境目を見極めるのが、お前の仕事だ』
「……承知いたしました。必ず、やり遂げてみせます」
もはや帝都において、貧者たちが口にできるものは炊き出しのスープしかなくなっていた。
そんなある日、裏路地の炊き出しの列に、ガチャリと金属音を鳴らして一人の男が現れた。 重厚な鎧を着込んだ、帝国の誇るイニーチェの兵士だった。
「ひっ……! お上だ!」 「兵隊が来たぞ!」
炊き出しに並んでいた者たちがパニックになり、逃げ惑う。逃げ遅れた数人が、兵士の前に立ち塞がり、悲痛な声を上げた。
「 頼む、見逃してくれ! 俺たちにはこれ以外もう何もないんだ!」
だが、兵士は槍を構えるどころか、フラフラとした足取りで歩み寄り、その場にガクンと膝をついた。
見れば、その頬は痩せこけ、目の下には濃い隈ができている。兵站が崩壊した軍の末端は、炊き出しのあった市民以上の飢えに苦しんでいたのだ。
「……取り締まることは、ない……」
兵士は泥だらけの地面に手をついた。
「頼む……そのスープを、一口でいいから……分けてくれ……」
最強の軍事国家の象徴であった兵士が、無様な姿で乞い願う。 現地要員が無言で木の器を差し出すと、兵士はそれを両手で受け取り、むさぼるようにスープを胃に流し込んだ。
「う、ううっ……うわああぁぁぁ……っ!」
空きっ腹に染み渡る温かさに、兵士は地面に突っ伏し、ボロボロと大粒の涙を流して泣き崩れた。 サトシの危惧した通り、彼ら下級兵士もまた国家というブラック企業に搾取される哀れな「社畜」に過ぎなかったのだ。
そして、その日の午後。 連絡員の持つ通信機が明滅した。
『――こちらサトシ。宰相が降伏のためにこちらへ向かっている。そろそろ到着する頃だ』
その言葉に、連絡員は小さく息を吐き出した。
『そうなれば、この任務は完了となる。……餓死者はいないな?』
サトシの問いかけはそうであってくれと祈るかのような、小さなものだった。
「ええ、もちろんです。全員極限まで飢えてはいますが、誰も死んでいません。それに、今やこの街におけるサージョの評判は、皇帝陛下とは比べ物になりません」
『そうか……。よくやってくれた』
◇
国境で待機していたサージョの復旧要員たちを乗せた列車が、凄まじい白煙を上げて帝都駅へと滑り込んだ。機能不全に陥っていた帝都に、圧倒的な蒸気の咆哮が響き渡る。
「サージョだ! サージョの列車が帰ってきたぞ!!」
駅に殺到した民衆の前にゲイルが立って叫ぶ。
「みんな、よく耐えてくれた! 列車はこれより、周辺の穀倉地帯へ向けて食料を取りに出発する! 夜までには新鮮な小麦と肉が山のように届くぞ!!」
その宣言を聞いた瞬間、民衆から地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
「やったぁぁぁっ!」 「サージョ様が帰ってきたんだ!!」
彼らは、暗闇から救い出してくれた光の使者として、狂喜乱舞して列車を出迎えていた。
喧騒から離れた裏路地の屋根の上。 連絡員は、息を吹き返していく帝都の姿を見つめながら、魔導具に向かって最後の報告を行った。
「――こちら潜伏班。目標の達成を確認。インフラの復旧作業へと移行しています。任務完了しました」
『よくやった。これからは現地の情報収集任務を継続してくれ』
「了解しました」
通信を切り、男は夕暮れの空を見上げた。
冷徹な計算と、その裏にある為政者としての血の滲むような覚悟。その両輪によって、一つの巨大な戦争が未然に防がれ、新しい時代が完全に幕を開けたのである。
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