断章 第5話 沈黙の征服、そして黄金の平和
皇帝ヴァルド三世は、玉座に深く沈み込んでいた。
響き渡るイニーチェの怒号は、日に日に大きくなっていた。
エアコンの止まった室内は蒸し風呂のように暑く、皇帝の豪奢な衣装は汗で肌に張り付いていた。
「金庫は空で、帳簿は読めず、車は鉄屑か……」
ヴァルドは乾いた笑い声を漏らした。
帝国の誇る武力も、権威も、サージョが作り上げたシステムの前では赤子同然だった。
彼らは戦ってすらいない。ただ、道具を引き上げ、店を閉めただけだ。
それだけで、大陸最強の軍事国家は機能不全に陥り、自壊しようとしている。
「……陛下。もはや、限界です」
近衛隊長が、血の気の引いた顔で告げた。
「兵たちの士気は崩壊し、一部では城門を開けてイニーチェを招き入れようとする動きさえあります。彼らは陛下の首を、サージョへの手土産にするつもりです。『この首と引き換えに、パンをくれ』と」
ヴァルド三世は、震える手で顔を覆った。そこにいるのは、死に怯える一人の老人の姿しかなかった。生き残るためならば、泥水を啜ることさえ厭わない。そこまで追い詰められていた。
「……ロムよ」
皇帝は、傍らに控える宰相ロム・ガルドに縋るような視線を向けた。
「行ってくれ。オルドリンドへ。……そして伝えてくれ。余が間違っていた。何でもしよう。靴を舐めろと言うなら舐める。だから、鉄道を、銀行を戻してくれと」
ロムは深く頭を垂れた。
それは事実上の降伏使節としての屈辱的な旅立ちだった。
◇
西方オルドリンド、港湾都市シーリン。
サージョ・グループ本部の最上階にある執務室。
床一面に敷き詰められた柔らかな絨毯、空調によって快適に保たれた室温、および窓の外に広がる豊かで平和な街並み。
地獄のような帝都からやってきたロムにとって、そこは別世界だった。
ロムは憔悴しきった様子で、サトシの前に立っていた。
目の前の男は、書類の山に目を落としたまま、ペンを走らせている。大国の宰相が来訪したというのに、顔を上げようともしない。だが、ロムにはその不敬を咎める気力など残っていなかった。
「……サトシ殿。皇帝陛下より、全権を委任されて参りました」
ロムは渇いた喉を鳴らし、必死に言葉を紡いだ。
「どうか、帝国内での営業を再開していただきたい。もし戻っていただけるなら、サージョにはあらゆる特権を認めます。そして……今回の混乱に関する責任は一切問いません。全ては帝国の不手際として処理します」
それは、国家が商人に提示できる最大限の譲歩だった。これ以上の条件などあり得ない。ロムは祈るような気持ちでサトシの反応を待った。
しかし、サトシの手は止まらなかった。
書類を一枚めくり、決裁のサインを書き入れながら、淡々と言い放つ。
「特権など、どうでもいい」
ロムが息を呑む。
サトシはようやくペンを置き、冷ややかな瞳でロムを見据えた。
「勘違いしないでいただきたい。私は戦争がしたいわけでもなければ、王族ごっこがしたいわけでもない。私が求めているのは『効率』だ」
「こ、効率……ですか?」
「そうだ。戦争という、一銭の得にもならない資源と人命の浪費。生産活動を阻害し、物流を停滞させる野蛮な行為。……それをやめるのであれば、すぐにでも営業を再開しよう」
ロムは言葉に詰まった。
戦争をやめろ。それは、帝国の国策を捨てろという意味だ。
「し、しかし……我が国は異教徒と国境を接しているのです。我々が剣を捨てれば、西方の神殿勢力が攻め込んでくるでしょう。領土と国民を守るためには、戦うしか……」
「条件が飲めないなら、結構だ」
サトシは再び書類に視線を落とした。
「お引き取りください。……もっとも、あなたが帰国する頃には、帝国という国は地図から消えているでしょうが」
それは交渉ではなく、事実の宣告だった。経済という生命維持装置を握っているのはサトシだ。彼が「ノー」と言えば、帝国は窒息死する。拒否権など、最初から存在しなかったのだ。
ロムの全身から冷や汗が噴き出した。
「お、お待ちください! ですが、現実問題として安全保障が……」
「貴国が戦争をやめるなら、西側諸国が帝国を攻めることも許さない。私が止める」
サトシは平然と言い放った。
「……は?」
ロムは耳を疑った。一介の商人が、国家間の戦争を止める? 西方の諸国が、商人の指図に従うというのか?
サトシは傍らに控えるエレナに視線を向けた。
「エレナ。現状の西側諸国の統制状況は?」
エレナは表情一つ変えず、涼やかな声で答えた。
「はい、サトシ様。西側諸国、つまり神殿勢力圏の主要国家はすでにサージョ・エコノミーに完全に組み込まれています。各国の債権の過半数を我が社が保有し、物流とインフラも掌握済みです。我々の意に反して軍を動かせる国は、もはや一国たりとも存在しません」
ロムは愕然とした。
戦争ではなく、経済によって。血ではなく、金と利便性によって、大陸の西半分はサトシの手の中にあったのだ。オース帝国は、最後に残された「未開の地」に過ぎなかった。
「……お分かりいただけましたか?」
サトシは静かに告げた。
「私は、貴国の領土など欲しくはない。賠償金もいらない。ただ、大陸すべてが私のシステムの下で、効率的に平和を享受し、消費活動を行えばいい。貴国には、その最後のピースになってもらいたいだけです」
ロムは、その場に崩れ落ちるように跪いた。
完敗だった。
彼らが命懸けで守ってきた国境線や宗教的対立など、この男にとっては帳簿上のノイズでしかなかったのだ。
「……承知、いたしました。……オース帝国は、剣を捨てます。これからはサージョ様の秩序の下で繁栄を……」
ロムの承諾を確認すると、サトシはすぐに手元の通信機を起動した。
「こちらサトシ。交渉は成立した。……帝国業務、再開」
◇
指令は、電光石火の速さで国境付近に待機していたサージョの要員たちへと伝わる。
国境駅で待機していた退避車両が、今度は復旧部隊を乗せた救援列車となった。
彼らはすぐに国境を越え、帝都へと向かった。
二日もする頃には死に絶えていた帝都イストバルが息を吹き返す。
まずは、鉄道だった。
帝都駅に滑り込んだ工作車両から、技術者たちが飛び降りる。彼らは手際よく機関車の動力炉を開け、持ち込んだ新しい合成宝石をセットしていく。
死んでいた鉄の塊が、白い蒸気を噴き上げて咆哮した。それは、帝国の血管に血が巡り始めた証明だった。
同時に、銀行の重い扉が開かれた。
避難していた専門職員たちが戻り、カウンターに着く。
銀行の裏手にある通信室では、通信士たちが一斉に通信機に向かって叫び始めた。
「こちら帝都支店! オルドリンド『中央決済局』応答願います!」
「通信接続確認! これより未処理の決済データを読み上げます! イニーチェ第一連隊、給与台帳コード、ヨン、マル、二……」
オルドリンドにある巨大な建造物の中では、何百人もの計算手と簿記係が机を並べ、通信で送られてくる膨大なデータを人力と計算盤で処理し、巨大な元帳にペンを走らせていた。
この人力による中央集権的な情報処理システムこそが、サージョ・バンコの正体であり、帝国が逆立ちしても模倣できなかった頭脳であった。
銀行のロビーに、イニーチェの兵士たちが殺到する。
「金だ! 金は引き出せるのか!」
窓口の行員は、手元の台帳と通信室からのメモを照合し、冷静に答えた。
「はい、確認が取れました。給与は全額、保証されています。サージョ紙幣によるお支払いも、只今より再開いたします」
その言葉を聞いた瞬間、殺気立っていた兵士たちが、子供のように歓声を上げて抱き合った。
そして夜。
技術者たちが街灯のカートリッジを次々と交換していく。
パッ、パッ、と、メインストリートに光が戻った。
街灯が灯り、家のエアコンが唸りを上げて冷気を吐き出し始める。
列車が帝都駅に到着し、満載された小麦と肉が市場へと運び込まれた。
飢えと闇に怯えていた市民たちは、涙を流してその光景を見つめていた。
彼らを救ったのは、皇帝の威光でも、神の奇跡でもなかった。
ただの「物流」と「経済活動」の再開。
だが、それこそがいま存在する唯一の神であった。
◇
皇城のテラスで皇帝と宰相は、光を取り戻した帝都を見下ろしていた。
イニーチェたちは満腹になって大人しく兵舎へと戻り、市民たちは市場で買い物を楽しんでいる。暴動の気配など、微塵も残っていない。
国家が全権力を使い、暴力を用い、必死になっても解決できなかった地獄が、たった一人の商人の号令一つで、嘘のように消え去った。
「……勝てるわけが、なかったんだな」
ヴァルドが自嘲気味に呟いた。
サージョを敵に回すことの恐ろしさは、恐怖を超えて、ある種の諦観をもたらしていた。それは、天候や季節に逆らえないのと同じだ。
「……平和だな、ロム」
「はい、陛下。……悔しいですが、平和です」
こうして、大陸最後の軍事国家オース帝国は、その牙を抜かれた。
流された血は最小限。
剣が交えられることもなく、英雄が名乗りを上げることもなく。
ただ、オルドリンドの帳簿係がペンを走らせる音と共に、歴史は静かに、しかし決定的に動いた。
サトシという一人の商人によって、大陸は歴史上初めて統一されたのである。
それは、鋼鉄の剣ではなく、黄金の鎖と帳簿による、新たな平和の始まりだった。
【断章 大陸最後の帝国編 完 】
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