断章 第3話 沈黙する鉄の馬と、色褪せぬ紙幣
皇城の戦略会議室には、重苦しい沈黙ではなく、悲壮な決意と、ある種の熱狂が渦巻いていた。
皇帝ヴァルド三世は、目の下に濃い隈を作りながらも、瞳には異様な光を宿していた。昨夜、突きつけられた「死刑宣告」に一度は崩れ落ちた彼であったが、武人としての誇りと大国の主としての矜持が、恐怖を怒りへと転化させていたのだ。
「……商人に国家の首根っこを掴まれたまま、唯々諾々と従えと? 否、断じて否だ!」
ヴァルドは円卓を拳で叩きつけた。
「サージョは『事業を停止する』と言った。ならば、その前に我らが全てを奪えばよい! 鉄道も、銀行も、魔導具も、帝国内にある設備はすべて我が国の領土にあるのだ。接収し、国営化すれば、奴らの脅しなど無意味となる!」
宰相ロム・ガルドは、主君のあまりに楽観的で、かつ破滅的な賭けに顔面を蒼白にしていた。
「陛下、それはあまりに危険です! 技術のブラックボックスが……」
「黙れ! 技師などいくらでもいる。夜明けとともにすべてを押さえろ! これは戦争だ。剣なき侵略者に対する、正当なる防衛戦である!」
皇帝の号令一下、近衛兵団と帝都守備隊が一斉に動き出した。彼らはサージョ商会の排除ではなく、捕縛と接収を目的として、市内の主要拠点へと雪崩れ込んだ。
◇
皇帝が軍を動かす数時間前。
まだ闇の深い帝都中央駅、その最深部にある機関整備庫。
ゲイルは、整備中の巨大な蒸気機関車の前に立っていた。その手には、武骨なハンマーが握られている。周囲には、すでに撤収準備を整えた技師たちが、息を潜めて彼を見守っていた。
「陛下が強硬策に出ることは予想されていた……」
潜伏している連絡員からの報告を受け、ゲイルは短く溜息をついた。
サトシの想定通りだ。武力を持つ者は、窮地に陥った時ほど力による解決に固執する。
だからこそ、事前に撤収の準備は完了していたのだ。
残すは蒸気機関車だけである。
「やるぞ。心臓を止める」
ゲイルは機関車の動力炉を開放した。そこには魔法回路の中枢として、赤い合成宝石が埋め込まれている。
ゲイルは躊躇なく、その精密な結晶にハンマーを振り下ろした。
硬質な破砕音が響き渡る。赤い輝きが飛散し、欠片となって零れ落ちる。
巨大な鉄の獣が、ただの鉄屑へと変わった瞬間だった。
「次だ。全ての車両の核を砕け。退避車両だけは残しておけよ」
技師たちは無言で作業を進めた。破壊工作ではない。これは契約終了に伴う設備の無力化という事務手続きに過ぎない。
作業を終えた彼らは、国境へ向かう最後の臨時列車――唯一動力を残した退避車両――に乗り込み、朝霧の中へと消えていった。
◇
数時間後、完全武装した帝国軍が駅を制圧した時、そこには誰もいなかった。
残されていたのは、傷一つない外見のままピクリとも動かなくなった大量の機関車。
「確保! 直ちに運行を再開させろ!」
将軍が叫ぶが、徴用された帝国の魔導技師たちは、動力炉を覗き込み、絶望に首を振るばかりだった。
「……無理です。魔法回路の核が物理的に破壊されています。代替品がありません」
同時刻、帝都のサージョ・バンコ帝国支店にも軍靴が響いた。
「帝国軍だ! この銀行は国家の管理下に置く!」
兵士たちが扉を破り、大理石のロビーへと突入する。
そこはもぬけの殻だった。
「金庫はどこだ! 帳簿と金貨を押収しろ!」
地下金庫の扉がこじ開けられる。兵士たちは、そこにあるはずの莫大な富を期待して中を覗き込んだ。
しかし、そこは空洞だった。あるのは書類の束と、空の棚だけ。
「ば、馬鹿な……あれほどの経済を回していたのだぞ! 金貨はどこへ消えた!」
将軍は、出勤停止を命じられ自宅待機していた現地の窓口係を呼び出し詰問した。
「き、金貨は昨晩のうちにすべて回収されました。なんでも預金者の資産保全処置だとかで……。それに、もともと全額の金貨がここにあったわけではありません。私たちは預かった金貨の一部だけを手元に残し、あとは運用に回していましたから……」
軍による「銀行制圧」の報は、瞬く間に市民に広がった。
銀行の前には、貴族から庶民まで、黒山の人だかりができていた。彼らの手には、サージョ紙幣が握りしめられている。
「おい! 俺の預金はどうなるんだ! 引き出せないのか!」
「取引先への支払いがまだ残っているんだぞ!」
人々は泣き叫び、閉ざされた扉を叩いた。
軍の布告官が大声で叫ぶ。
「静まれ! サージョの資産は軍が没収した! 今後は帝国が管理する! そのような紙切れに価値はない、安心しろ!」
その言葉は火に油を注いだ。
「ふざけるな! 陛下が発行する混ぜ物だらけの金貨より、この紙幣の方がよほど信用できるんだ!」
「サージョがいないと、何も買えない! 決済機能を返せ!」
彼らは、紙幣が無価値になったとは思っていなかった。むしろ「最も価値あるもの」が、銀行機能の停止によって「凍結」されたことに絶望していたのだ。
使えるはずの金が、使えない。
信用はあるのに、交換する場所がない。
手の中にあるサージョ紙幣は、かつての豊かさの象徴であり、今はただの、どうしようもない呪いの札となって彼らの掌に張り付いていた。
◇
そして、夕闇が迫る頃。
帝都イストバルは、真の恐怖に直面した。
この大陸一の巨大都市は農地が存在せず、食料自給率がほぼゼロに等しい。日々の糧は、全て輸送に依存している消費型都市であった。
その輸送の中心である鉄道が止まったのだ。
市場からは、瞬く間に小麦粉、肉、野菜が消え失せた。
賢しい商人たちは売り惜しみを始め、価格は一時間ごとに倍になるようなハイパーインフレを引き起こした。
金はある。だが、買う物がない。
母親たちは空の棚の前で泣き叫び、父親たちは飢えた子のため目を血走らせて街を彷徨う。
そうして夜が来た。
立ち並ぶ街灯は、サージョが定期的に魔石カートリッジを交換・管理していた。
撤収の際、主要な備蓄カートリッジは全て持ち去られていた。残った街灯も、寿命が来ればそれまでだ。
パッ、パッ……と、一つまた一つ、街の明かりが消えていく。
帝都の夜景が、虫食いのように黒く塗りつぶされていく。
貴族街の豪邸でも、緩やかに絶望が広がっていた。
屋敷を冷やしていたエアコン、煌々と輝いていたシャンデリア。
それらはまだ動いていた。だが、カートリッジの供給は絶たれている。
貴族たちは、カートリッジの残量計を見つめながら震えていた。
「……あと三日。いや、二日か」
この冷気が止まれば、灼熱の地獄が戻ってくる。この光が消えれば、漆黒の闇に閉ざされる。
一度知ってしまった快適さを失う恐怖は、彼らの精神を蝕んでいった。
彼らは節約のためにエアコンを弱め、灯りを間引いたが、それは緩やかな処刑を待つ囚人のような心境だった。
サトシは何も奪わなかった。ただ供給を止めただけだ。
それだけで、栄華を誇った帝都は、一夜にして飢えと闇と恐怖の坩堝と化した。
帝都のスラム街。廃屋の屋根裏で、潜伏中の連絡員が通信機を開いた。
ノイズの向こうから、冷徹な声が響く。
『状況は』
「……地獄絵図です。軍は鉄道も銀行も動かせず、呆然としています。市民は紙幣を握りしめてパニック状態。市場からは食料が消えました」
連絡員は、窓の外、暗闇に沈んでいく帝都を見下ろしながら報告した。
『暴動は?』
「まだ起きていません。今はまだ、事態を飲み込めず、恐怖で動けないようです。ですが、明日の朝、空腹で目が覚めた時には……」
『だろうな』
サトシの声には、何の感慨もなかった。
『そのまま潜伏を続けろ。情報は随時報告するように』
「はっ。……あの、火は?」
『必要ない。自滅する敵に油を注ぐ趣味はない。余計な混乱を起こすな』
通信が切れる。
連絡員は通信機を懐にしまい、闇に包まれた皇城を見上げた。
あの中で、皇帝は今頃何を思っているのだろうか。
剣を抜いて戦う相手がいない戦争。
兵士の数も、城壁の堅牢さも何の意味も持たない、兵糧攻めよりも残酷な「経済封鎖」。
帝都イストバルの長い夜が、始まろうとしていた。
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