断章 第2話 黄金の鎖と硝子の玉座
文化や宗教がどれほど異なろうとも、人間という種が抱く根源的な欲望は変わることがない。
「より豊かになりたい」「より便利に暮らしたい」「より楽をしたい」
その渇望は、いかなる戒律よりも強く、忠誠心よりも深く、人々の心に根を張るものだ。
サージョ商会がオース帝国に入り込んでから、わずか三年。
帝都イストバルの重厚な街並みは変わらない。だが、その中を行き交う人々の営みは、根本から書き換えられていたのである。
街の市場では、かつてのように重い金貨や硬貨をジャラジャラと音を立てることは激減した。代わりに人々の手を行き交うのは、サージョが発行する紙幣である。
今や、路地裏の屋台で串焼きを買う兵士さえも、懐からしわくちゃになったサージョ紙幣を取り出している。
兵舎も様変わりした。
灼熱の太陽が照りつける日中、重装歩兵たちは訓練を終えると、争うように宿舎へ戻る。そこにはエアコンが設置され、天国のような冷気が満ちているからだ。
夜になれば、煤の出る松明ではなく、照明の白い光の下でカード遊びに興じる。
かつては軟弱と唾棄された快適さは、今や必須の権利となり、それが失われることを想像するだけで暴動が起きかねない状況だった。
大理石のカウンターの奥で、イストバル支店長のゲイルはオース経済諮問機構の長ザハドと共に帳簿を確認していた。
「今期の徴税は九割が紙幣による納入か」
ゲイルが呟くと、ザハドが皺だらけの顔を歪めて笑った。
「ああ。地方の太守たちも、重い現物や純度の怪しい帝国金貨より、サージョの紙幣を好む。運搬コストがまるで違うからな」
「皮肉なものですね。皇帝陛下の肖像が刻まれたコインより、サトシ様のサインが印刷された紙の方が信用されている」
笑い話では済まない事態だった。
通貨発行権という国家の根幹が、事実上、一介の外国商社に握られているのだ。
さらに、物流も同様だった。
帝国の誇る重装歩兵団イニーチェの移動や補給は、今や完全に鉄道に依存していた。
徒歩で数週間かかった国境への移動は、鉄道を使えばわずか二日。
食料も弾薬も、鉄の馬が運んでくれる。
軍部は迅速な展開が可能になったと喜んだが、それは裏を返せば鉄道が止まれば、軍は一歩も動けず、干上がることを意味していた。
「ザハド殿。そろそろ、彼らも気づく頃合いでしょう」
「ああ。首輪のきつさにな」
ザハドは窓の外、皇城の方角を見やった。
◇
皇城、深奥の戦略会議室。
重苦しい空気が漂っていた。円卓を囲むのは、皇帝ヴァルド三世と、宰相ロム・ガルド、そして数名の将軍たちである。
皇帝ヴァルドは、獅子のような髭を蓄えた偉丈夫だったが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
「……ロムよ。余の耳に届く報告は、サージョによる経済効果の増大ばかりだ。だが、財務官の顔色は日に日に青ざめていく。これはどういうことだ」
ロムは苦渋の表情で立ち上がった。かつて、サージョを招き入れた張本人としての責任が、鉛のように肩にのしかかっていた。
「陛下……。確かに我が国の国力は増大しました。食料事情は改善し、兵の士気も高い。しかし……その全てが、サージョという『管』を通さねば成り立たぬのです」
ロムは地図上に置かれた駒を指した。
「鉄道網、魔導具の魔力供給、そして市場を回る紙幣。これら全てをサージョが握っております。我々は強くなりました、しかし土台はすべて彼らにあります」
ドンッ、と一人の将軍が机を叩いた。
「ならば、接収すればよい! ここは帝国だ。異教徒の店など、兵を差し向ければ一日で制圧できる!」
「愚か者!」
ロムが一喝した。
「制圧してどうする? 鉄道は誰が動かす? 魔導具のメンテナンスは? 何より、決済機能が飛べば国内の資産は一夜にして蒸発し、経済は死ぬのだぞ!」
将軍は言葉を失い、押し黙った。
武力で解決できない敵。剣も槍も通じない、経済という名の見えない鎖。
皇帝ヴァルドは呻くように言った。
「……奴らは、最初からこれを狙っていたのか。我らを豊かにし、便利さに漬け込み、骨抜きにするために」
「恐らくは。……我々は、甘い蜜に誘われて、自ら檻に入ったのです」
その時、重い扉が軋みながら開かれた。
衛兵が慌てた様子で駆け込んでくる。
「へ、陛下! サージョのゲイル殿が謁見を求めております!」
「何だと? 允可もなしにか!」
「はっ、しかし『緊急かつ重大な通達がある』と……」
皇帝と宰相は顔を見合わせた。
向こうから来た。それも、このタイミングで。
「……通せ」
皇帝が短く命じた。
謁見の間。
数年前、へりくだって頭を下げていた商人の姿は、そこにはなかった。
ゲイルは皇帝の御前であっても、背筋を伸ばし、対等の外交官のように立っていた。その背後には、見えない巨大な力が――国家をも凌駕する経済の怪物が控えていることを、誰もが肌で感じていた。
「サージョの代行者よ。余に何の用だ。無礼があれば、その首が飛ぶぞ」
皇帝ヴァルドは威厳を込めて問うた。
だが、ゲイルは眉一つ動かさず、懐から一通の書状を取り出した。
「我が主、サトシからの親書をお持ちしました。皇帝陛下へ、直々の『メッセージ』にございます」
侍従が書状を受け取り、皇帝へと渡す。
ヴァルドが封蝋を割り、中身に目を通した瞬間、その顔が朱に染まった。
「……き、貴様ッ! これはどういうつもりだ!」
皇帝が書状を床に叩きつけた。
そこには、婉曲な外交辞令など一切ない、簡潔な通告が記されていた。
『現在、帝国が近隣諸国に対して行っている軍事侵攻を、即刻停止せよ』
宰相ロムが書状を拾い上げ、絶句した。
「……戦争をやめろ、だと? 一介の商人が、帝国の国策に口を出すというのか!」
ロムの叫びに、ゲイルは静かに、しかし冷ややかに答えた。
「誤解なきよう。我々は選択肢を提示しているにすぎません」
ゲイルは一歩前に出た。剣を持たぬその姿が、今はどんな暗殺者よりも恐ろしく見えた。
「戦争は、物流を阻害します。鉄道のダイヤが乱れ、商機が損なわれる。我が社は平和と安定こそが最大の利益を生むと考えております」
「黙れ! 余はオース帝国の皇帝だ! 異教徒の指図など受けん!」
「左様でございますか」
ゲイルは表情を変えずに告げた。
「ならば、残念ですが……帝国内におけるサージョの全事業を、本日ただいまをもって停止させていただきます」
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
事業の停止。
それは、ただ店を閉めるという意味ではない。
「鉄道の運行を止め、魔導具のカートリッジ交換は終了、銀行は全資産を凍結させていただきます」
しん、と広間が静まり返った。
事実上の「死刑宣告」であった。
鉄道が止まれば、前線の軍は孤立する。魔導具が止まれば、民衆の不満は爆発する。紙幣が使えなくなれば暴動が起き、国家は崩壊する。
サージョという心臓が止まれば、帝国という巨人もまた、死ぬのだ。
「……な、……馬鹿な……」
皇帝ヴァルドが玉座に崩れ落ちた。
剣を抜くことさえ許されない。戦う前に、勝負は決していたのだ。
彼らは便利な生活と引き換えに、国の生殺与奪の権を、遠く離れたオルドリンドにいる一人の男に握られてしまっていた。
踵を返し、退出していくゲイルの背中を、誰も止めることはできなかった。
◇
オルドリンド、サトシの執務室。
「伝えたか、ゲイル」
『はっ。顔面蒼白でございました。しかし良かったのですか?』
「かまわん」
サトシはシガリロを灰皿に置くと、窓の外の夜景を見下ろした。
武力による支配は歪みを生む。反発し、終わりのない復讐の連鎖を招くのだ。
だが、経済による支配は強固だ。人々は自ら望んでその鎖に繋がれ、鍵を相手に預けてしまう。
「戦争などという非効率な遊びは終わりだ。これからは、俺が作ったルールの下で、平和に金を稼げばいい」
サトシの瞳には、冷徹な支配者の色が宿っていた。
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