井戸端、市井の本音
とある侯爵が治める領都の下町でのことだ。
凍てつくような冬の朝、共同井戸の周りには、白い息を吐きながら洗濯に勤しむ主婦たちの姿があった。
井戸から桶に水を汲む音、洗濯板を擦る音。
かじかむ指先を温めるために時折手を擦り合わせる彼女たちの口は、手と同じくらい忙しく動いていた。
「あら、ベルタさん。おはよう」
「おや、ハンナさんじゃないか。寒いねぇ」
恰幅の良い中年女性ハンナが、重そうな洗濯籠を抱えてやってきたベルタに声をかける。ベルタは少し得意げに桶を置くと、懐から掌ほどの大きさのいくつかの突起が付いた箱を取り出した。
「見ておくれよ。昨日、ついに買っちまったんだ。『サージョ式・簡易温水魔導具』さ」
ベルタが箱を水の入った桶に放り込むと、ポコポコと小さな泡が立ち、冷え切った井戸水が湯気を立て始めた。
「まぁ! この前ででたばかりの!」
ハンナが目を丸くする。
「いいわねぇ。でもサージョ様の店で売ってる『魔導具』ってやつは、アタシら貧乏人には手が出ない値段じゃなかったかい?」
「そうさ。あれは二十万ルピもする代物で、それなりのお金のあるところが買うもんさ。でもね、これは『簡易シリーズ』ってやつさ。あっちの十分の一もしないんだ。桶の水だけ温めてくれりゃ、あとは自分の手で洗えばいいんだから全自動なんていらないさね」
ベルタは温かいお湯に手を浸し、ほうっと息をついた。
「あかぎれだらけの手で凍っちまいそうな水に触らなくて済む。これだけで極楽だよ。ローンを組んだら月々の支払いもパン数個分さ」
「へぇ……。サージョ様は、金持ちだけじゃなくアタシら貧乏人のことも考えてくれてるんだねぇ」
そうして主婦たちの話題は、自然と最近の生活の変化へと移っていった。
最近は以前とは比べ物にならないほど、暮らし向きは良くなっていた。
「そういえば、昨日市場で胡椒を買ったんだけど、値段を見て驚いたよ。昔の半値以下じゃないの」
「海運と鉄道のおかげだって八百屋の親父が言ってたわ。大量に輸入して、港から汽車でドカンと運んでくるから安くて新鮮なんだって話だよ」
「それに、この前の通りに『街灯』がついたでしょ? あれもサージョ様が寄付したんだってね。おかげで娘の帰りが遅くなっても安心だよ」
ハンナがごしごしとシャツを洗いながら、ふと低い声で言った。
「……でも、なんでもかんでも、便利になることは全部サージョ様がやってくれるんだねぇ」
その言葉に一瞬の沈黙が落ちた後、堰を切ったように不満が噴出した。
「全くだよ! ここの領主様なんて何をしてくれる? 毎年毎年『税を納めろ』ってふんぞり返ってるだけで、道路の穴ひとつ埋めやしない!」
「王様だってそうさ。アタシら、王様の顔なんて金貨の横顔でしか見たことないよ。王城で贅沢な暮らしをしてるんだろうけど、アタシたちの水が冷たいかどうかなんて、考えたこともないだろうね」
ベルタが鼻を鳴らす。
「神殿だってそうさ。この前、子供が熱を出した時に教会へ行ったら、『お布施が足りない』だなんて言われて門前払い。庶民の味方をしてくれるのは、どこの誰だい?」
「そりゃあ、サージョ様しかいないね」
主婦たちは顔を見合わせて頷き合った。
彼女たちにとっての統治者は税を取るだけの領主ではなく、生活を豊かにしてくれる商会の主だった。
「そうそう、ちょっといい話があるのよ」
ベルタが声を弾ませた。
「うちの娘のアンナ、知ってるでしょ? あの子がね、このあいだ『サージョ・バンコ』の窓口係に採用されたのよ!」
「ええっ!?」
その場にいた全員が手を止めた。
「あそこって、今一番人気のある就職先じゃないか! 倍率が二十倍とかって話だよ!?」
「うふふ、そうなのよ」
ベルタは鼻高々だ。
「二十人に一人の難関だったけど、あの子は昔から計算が早かったからねぇ。お給料だって、そりゃあ騎士様ほどじゃないけど、街の職人さんよりずっといいし、何より安定してるからね。この温水魔導具だって本当はあの子が『全自動洗濯魔導具』を買ってくれるっていってたのを、こっちでいいってやめさせたんだよ」
「羨ましい話だねぇ! あそこは制服も可愛いし、アンナちゃん昔っから優秀だったもんねぇ」
称賛の嵐に、ベルタは満更でもない様子だ。
だが、その横でハンナだけが深いため息をついた。
「……いいわねぇ、ベルタさんのところは。それに引き換え、うちの馬鹿息子ときたら……」
「おや、ハンス君かい? どうしたんだい」
ハンナはがっくりと肩を落とした。
「あの子、皮革職人の親方のところに弟子入りしてたじゃない? それがさ、『臭いしキツイし、もう嫌だ』って逃げ帰ってきちゃったのよ。根性なしで困っちゃわ」
「あらまあ、それは大変……」
「今は家でゴロゴロしてるのよ。『俺に合う仕事がないだ』なんて偉そうに言ってさ。このままじゃ穀潰しだよ」
すると、ベルタが思い出したように手を叩いた。
「だったらハンナさん、駅に行かせてみなよ」
「え? 駅?」
「ああ、鉄道の駅さ。あそこで今、『駅員』と『保線員』を募集してるって張り紙があったわよ」
「でも、サージョ様のところなんて、うちの馬鹿息子じゃ無理だよ……」
ハンナが弱気に首を振ると、ベルタは身を乗り出した。
「それがね、鉄道の方は今、人手が足りなくて困ってるらしいのよ。銀行みたいに難しくないって噂さ。それに、あそこは配送馬車と違って下請けじゃなくて『サージョ直轄』の雇用なんだって!」
「直轄かい!?」
「ああ。力仕事もあるけど、福利厚生はしっかりしてるし、給料だって悪くない。何より、あの『鉄道』に関わる仕事だよ? これからもどんどん路線が伸びるんだから、食いっぱぐれることはないさ」
「そりゃあいい! 帰ったらすぐに尻を叩いて行かせるわ! サージョ様の直轄なら、親戚にも鼻が高いよ!」
ハンナの表情に、ぱっと光が差した。
「全くだねぇ。サージョ様は暮らしを楽にしてくれるだけじゃなく、仕事までくれるんだから」
「違いない。領主様よりよっぽど『お上』らしいよ」
桶の水音と、尽きることのないおしゃべり。
彼女たちの話題の中心には、常に「サージョ」がある。
領主が見放し、神殿が搾取した民衆の生活。その空白を埋めたのは、一人の商人が作り上げたシステムだった。
井戸端のささやかな会話こそが、この国が誰によって支えられているかを、何よりも雄弁に物語っていた。
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