静寂の領地と、走り去る時代の音
王都から北へと続く街道の要衝、グレイズ伯爵領。
古くから王国北の玄関口として栄えたこの地は、今、かつてないほどの静寂に包まれていた。
領主の館、その執務室で、当主であるグレイズ伯爵は窓の外を見下ろしていた。
広がるのは、先祖代々受け継がれてきた美しい牧草地と、静かに草を食む牛たちの姿。耳を澄ませば、風の音と鳥のさえずりしか聞こえない。
「……やはり、私の判断は正しかったのだ」
伯爵は満足げに髭を撫でた。
彼は「伝統派」と呼ばれる貴族の筆頭格であり、魔法とは神聖な儀式や高貴な戦いのためにあるもので、卑俗な金儲けや機械のために使われるべきではないという信念の持ち主だった。
五年前、あの新興商会の主がこの館を訪れた時のことを思い出す。
『伯爵、貴領は王都と北部を結ぶ最短ルート上にあります。ここに鉄道を通させていただければ、莫大な利益をお約束します』
若造が提示した設計図には、美しい大地を切り裂く鉄のレールと、白い煙を吐く怪物が描かれていた。
伯爵は激怒し、その場で提案書を暖炉に放り込んだ。
「神聖な大地に鉄の杭を打ち込み、魔法を動力にするなどと……言語道断だ! 我が領土に、そのような冒涜的な機械を通すことなど許さん!」
サトシは残念そうな顔をしたが、それ以上食い下がることはなく、静かに引き下がった。
結果、鉄道はグレイズ領を大きく迂回し、隣の貧しい子爵領を通ることになった。
「見ろ、この平穏を。鉄の騒音にも悩まされず、農地を汚されることもなかった。これこそが貴族のあるべき姿だ」
伯爵は、自らの信念が守られたことに酔いしれていた。
◇
だが、さらに季節が二つ巡った頃。
伯爵は、領地の静けさの質が変わりはじめていることに気づいた。
それは平和な静寂ではなく、活気という血が失われた死にゆく者のような静けさだった。
「……おい、どうなっている。今期の税収が前回の七割しかないだと?」
執務室に呼び出された家令は、青ざめた顔で帳簿を抱えていた。
「は、はい……。街道を行き来する商人の数が激減しておりまして……関税収入が目に見えて落ち込んでおります」
「商人が減った? なぜだ。北への街道はここが最短のはずだぞ」
「それが……大半の商人は、隣の領地にある『駅』を利用して、鉄道で移動しているようでして」
「鉄道だと? 平民からすれば乗車料もそれなりにすると聞くぞ。急ぎの旅人くらいしか使わんだろう?」
伯爵が疑問を投げかけると、家令は言いにくそうに口を開いた。
「それが……旅客だけではないのです。物流、特に食料品の流通が、根こそぎあちらへ流れております」
家令は一枚の報告書を差し出した。
そこには、グレイズ領の特産品である高級肉の売上が、王都市場で壊滅的な打撃を受けているという事実が記されていた。
「馬鹿な! 我が領の肉は王国内でも最高品質だぞ! 多少高くとも、貴族たちは我々の肉を求めていたはずだ!」
「……それが、競合が現れました。東部の辺境伯領です」
「東部? あそこの肉など、安かろう悪かろうだ。あんな遠地から運べば、王都に着く頃には腐り始めていて売り物にならん」
かつてはそうだった。
東部の肉は質は良く価格も安い。だが、いかんせん消費地までの距離が遠すぎた。保存魔法をかければコストが跳ね上がり、かけなければ腐る。
だからこそ、王都に近いグレイズ領の肉が、鮮度という絶対的なアドバンテージを持って市場を独占できていたのだ。
「鉄道です、旦那様」
家令の声が、死刑宣告のように響いた。
「サージョの貨物列車は、冷却機能を備えた貨車を連結しています。東部から王都まで、わずか半日。朝に屠殺された肉が、夕方には王都のレストランに並ぶのです。……価格は、我が領の半値で」
伯爵は言葉を失った。
いままでは距離という名の障壁が、彼の領地の特権を守っていた。
だが、サトシの鉄道は、その障壁を物理的に消滅させてしまったのだ。
どんなに伝統と格式を誇っても、「安くて早くて美味い」という現実の前に、商売の理屈は冷徹だった。
「加えて、迂回ルートとなった隣の領地ですが、特産のパースニップが飛ぶように売れているそうです。パースニップは馬車では運賃が高くつきましたが、鉄道なら大量輸送で採算が合うとかで……」
「あの貧乏子爵がか」
伯爵は窓の外を見た。
変わらぬ風景。美しい牧草地。
だが、その風景は今や、時代から取り残された孤島のように見えた。
街道には誰もいない。商人は皆、鉄の馬に乗ってこの領地を素通りしていく。
かつては北の玄関口と呼ばれたこの地は、いまやただの通過点ですらなく、地図上の空白地帯になり果てていた。
「……くっ」
伯爵は拳を握りしめ、机を叩いた。
(なぜだ……なぜあの時、私は断ってしまったのだ……!)
後悔の念が、胸の奥からどす黒く湧き上がってくる。
もしあの時、サトシの手を取っていれば。今頃この領地には駅ができ、東部の肉ではなく我が領の肉が、鉄道に乗って国中に運ばれていただろう。隣の貧乏貴族ではなく、私が巨万の富を得ていたはずなのだ。
「……いや、違う。私は間違っていない」
伯爵は自分に言い聞かせるように呟いた。
「伝統とは、耐え忍ぶことだ。流行り廃りに流されず、土地を守るのが貴族の務め。鉄道などという魔法への冒涜が、長く続くはずがない……!」
彼はプライドを捨てることができなかった。
今更サトシに頭を下げ、「やはり線路を通してください」などと言えるわけがない。それは、彼の生き方のすべてを否定することになるからだ。
「見ていろ……私は、私のやり方でこの領地を再興してみせる。鉄になど頼らん!」
伯爵はそう決心し、再び帳簿に向き直った。
その背中は以前よりも一回り小さく、痛ましいほどに頑なだった。
彼は知らない。
この十年後、家督を継いだ彼の息子が財政破綻寸前の領地を救うために、サトシの元へ恥を忍んで嘆願に訪れる未来を。
そして、その時にはもう、主要幹線からの支線を通すコストすら捻出できず、かつての名門グレイズ家がただの閑職貴族へと没落していく運命を。
時代は止まらない。
汽笛の音は立ち止まる者を置き去りにして、遥か彼方へと走り去っていったのだ。
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