第57話 世界を操る指先と、泥だらけの小さな手
かつてのオルドリンドは古い王政と地方領主の利権が複雑に絡み合う、停滞した中世国家であった。 血統だけを誇る貴族たちが不毛な領土争いに明け暮れ、その足元で領民たちが泥水を啜る国であり、どこにでもある腐った封建社会であった。
しかし今、王都を見下ろす丘から広がる景色に、その面影はない。
そこにあるのは、サトシという一人の異邦人を「最高経営責任者」として戴き、徹底した合理性と効率によって駆動する一つの巨大な精密機械としての国家の姿だった。
大陸横断鉄道の先鋒がついに隣国の国境線へと達したその日、サトシはグループ本社最上階の執務室で、巨大なデスクに広がる膨大なデータと向き合っていた。
彼の傍らにある通信魔導具が赤く輝き、絶え間なく明滅を繰り返している。 そこから伝えられるのは、中央通信指令室でまとめられた秒単位で更新される各都市の穀物相場、魔石の価格変動、鉄道の運行ダイヤと積載率、そしてサージョ・バンコを通じた莫大な資金の決済記録だ。
大陸のどの王侯貴族も持ち得なかった世界の真実が、冷徹な数字の羅列となってサトシの手元に集結していた。 それはまさに、金融市場のチャートを睨み、世界の血流を俯瞰するような絶対的な視座であった。
かつては領地同士の水利権や鉱山を巡る些細な小競り合いが起きることもあった。 しかし、それも今や完全に過去の話だ。
国内の治安維持において、紛争の兆しがあればサトシは騎士団を派遣するような真似はしない。 従来の常識である武力による制圧は過去のものとなったのだ。
ただ、対象となる領地の物流ルートと銀行機能を一時的に停止させる、と紙一枚の通達を出すだけだ。
しかし、その効果は絶大だった。 サージョのシステムから弾き出されれば、翌日には市場から食料が消え、夜を照らす照明は機能を停止し、兵士に払う給与の決済すら凍結される。
食糧も、光も、金も、すべてはサトシの構築したインフラを経由しなければ手に入らないのだ。彼に逆らうことは、自らの領民を物理的にも経済的にも「中世の暗闇」へと突き落とすことを意味していた。
誰もがその恐怖を前に、血が流れるよりも早く剣を捨てる。
こうしてオルドリンドは、もはや周辺のどの歴史ある強国よりも強大で、かつ洗練された統治能力を持つに至った。
この絶対的な経済力と技術的優位性を背景に、サトシは自らが引き起こした産業革命の波を国境を越えて、大陸全土へと波及させる次なる一手へと踏み出してゆく。
それは武力による侵略ではなく、利便性という抗いがたい毒を用いた、経済による大陸制覇の始まりだった。
だが――そんな冷酷な「大陸の黒幕」としての顔も、休日の午後の陽光の下では静かに影を潜める。
◇
リビングの窓辺で安楽椅子に深く腰を沈めた彼は、愛用のシガリロを咥え、使い慣れたマッチを擦る。 シュッという小さな音と共に揺れる炎と立ち上る紫煙の向こう側にあるのは、激務を忘れてくつろぐ、ただの一人の男の素顔だった。
眼下に広がる港湾都市からは、絶え間なく行き交う蒸気船の汽笛と活気ある喧騒が微かに風に乗って届く。 だが、小高い丘の上に建つサトシの私邸のテラスには下界の忙しなさとは無縁の、微睡むように平和な午後の時間が流れていた。
陽光をたっぷりと吸い込んだ青々とした芝生の上では、サトシとエレナの間に授かった第一子エリックと、警備部門統括官であるカイル夫妻の第一子が、つたない言葉で会話を交わしながら無邪気に追いかけっこをしている。
第二子であるカレンはエレナの横に置かれたクーファンの中でゆらゆら揺られ、幸せそうに眠っている。
カイル本人は大陸横断鉄道の要所警備で出払っていたが、近所に居を構える彼の妻は毎日のように子供を連れてこの家へと遊びに来ていた。 子供たちはまるで本当の兄弟であるかのように、太陽の下で草にまみれて転げ回っていた。
「ふふ、あの子たち、今日も本当に仲が良いですわね。カイルの豪快なところをすっかり受け継いでいるみたい」
白磁のティーカップを優雅に傾けながら、エレナはカイルの妻と並んで微笑んでいた。 冷徹に職務をこなす執行責任者としての顔はそこにはなく、どこにでもいる我が子の成長を慈しむ、ひとりの柔らかな眼差しの母親に過ぎなかった。
カイルの妻もまた、この私邸を実家のように慕いリラックスした様子で語らっている。
そんな穏やかな光景から少し離れた窓辺で、サトシは手持ち無沙汰に経済新聞を広げていた。 活字を追ってはいるものの、その視線はチラチラと芝生の上を走り回る子どもたちへと向けられている。
大陸の相場を秒単位で操り、数百万人の運命や国家の興亡すら一筆で左右する男も「自分の子供とどう遊べばいいのか」という極めて日常的な問いには、明確な解を持っていなかった。
(……国家の予算を組み替えるより、子どもの予測不能な動きに対応する方がよほど勝手がわからん。計算する余地もなければリスク管理のしようもない)
サトシが内心でそんな言い訳を並べて苦笑し、新聞を畳もうとしたその時だった。
「サトシ様」
いつの間にか傍らに立っていたエレナが、いたずらっぽく目を細めてこちらを見下ろしていた。彼女は夫が抱く、支配者らしからぬ不器用な戸惑いをすべて見抜いている。
「休日のテラスにまで、しかめっ面を持ち込まないでくださいな。眉間に皺が寄っていますよ」
「……いや、相場の変動要因を分析していただけで、しかめっ面をしたつもりはないんだが」
サトシの苦しい弁明に、エレナはクスクスと肩を揺らした。
「言い訳も立派なビジネス仕様ですこと。お仕事の顔はもうおしまいです。さあ、パパとして、あの子たちの『予測不能な投資案件』に混ぜてもらってはいかがですか?」
「いや、それは、…………わかった、善処しよう」
エレナの愛情こもったからかいに降参し、サトシは重い腰を上げた。
彼が芝生へ足を踏み入れた途端、勢い余って転んだ我が子がわあっと泣き声を上げる。 サトシは慌てて駆け寄り、その小さな体を抱き起こした。
泥だらけになった小さな手が、サトシのシャツをギュッと掴む。 そのずっしりとした重みと柔らかな温もりは、サージョ・バンコの帳簿に並ぶ天文学的な数字よりも遥かに確かな実感を伴ってサトシの胸の奥を強く打ち据えた。
大陸最大の商会を率い、世界を近代化へと突き動かす男。 だがこの陽だまりの庭において、彼はただの一人の夫であり不器用な父親に過ぎなかった。
穏やかな海風が吹き抜け、泣き止んだ子供たちの笑い声が再びテラスに響き渡る。 サトシは泥のついた我が子の頬を拭いながらベンチのエレナと微笑み合い、自分が作り上げたこの平和な日常を、何としても守り抜くと、静かに、そして強烈に誓ったのだった。
【第五章 産業革命編 完結】
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