シガーバーでの一服
サトシが拠点としているワンルームマンションのある「とかいなか」には、シガーバーなんて洒落た場所は存在しない。
時折、すべての物事から心身を切り離しリフレッシュしたくなることがある。そうなるとサトシは電車を乗り継ぎ、埼玉にある馴染みの店まで足を伸ばすのだ。
薄暗い照明と重厚な革張りのソファ。そこは時間が現実の倍はゆっくりと流れているかのような錯覚を抱かせる、緩やかで落ち着いた空間だった。
カウンターの隅に腰を下ろしたサトシは、いつもの銘柄とは違うシガリロに火を点けた。紫煙がゆったりと立ち上る。
「……ふぅ。こいつは初めてだが、悪くないな」
添えられた深いコクのコーヒーを啜り、ビターチョコレートの欠片をかみ砕く。 ほんの少しの甘みと深い苦み、そして煙がもたらすチェリーの香りが重なり合い、凝り固まっていた脳の疲れが解けていく。
「おや、久しぶりに見る顔ですね。最近あまり見かけませんがどうしました?」
後ろから声をかけてきたのは、同年代の男性だった。本名も職業も知らない。ただ、この店でたまに顔を合わせるだけの「同好の士」だ。
「いや、最近は少し忙しくてね。あまり地元にも帰れてないんだ」
「なるほど、お忙しいのでしょうな。そういえばどうです、例の『パルタガス』の新作は試しましたか?」
彼は幾つかの高名な銘柄を挙げ、熱心に感想を求めてきた。
「いや、それはまだ試していません。……そうだ。これ、一本吸ってみませんか?」
サトシは懐から、正体を明かさぬまま「異世界産のシガリロ」を取り出し、彼に勧めた。 サージョ・コメルツォが現地の最高級葉を使い、サトシの調合とエレナの香料の知識を組み合わせて試作させた逸品だった。
男性は興味深げに受け取り外観を確認し、香りを嗅ぐと、丁寧に火を点けた。数秒後、彼は驚いたように目を見開いた。
「……ほう! これは、初めての味だ。土の香りが力強いのに、後味に花の蜜のような甘みがある。どこの国のものです? キューバでもドミニカでもない……」
男性は再びその香りを深く吸い込んだ。 当然ながら長年多くの銘柄を嗜んできた彼にとっても、そのフレーバーは既存の知識では判断することのできない未知のものだった。
「……面白い。私の知るどの銘柄とも違う、野性味のある香りだ。熟成の若さは感じますが、この葉が持つ本来の力強さは、ドミニカの高級品にも引けを取りませんよ。九条さん、これはなかなかの掘り出し物だ」
専門家らしい客観的な評価に、サトシは内心で深く頷いた。
現代の洗練されたトップブランドには及ばずとも、十分に戦える品質だと認められたのだ。その確信が得られただけで十分だった。
サトシは少しだけ誇らしげに口角を上げた。
「でしょう。ただ、偶然旅先で手に入れたものでしてね。どこの産かまでは私も知らないのです。でも、気に入っていただけたなら良かった」
自分の育てた世界の産物が、この「煙の目利き」に認められたことが、純粋に嬉しかった。
その後、二人はその話題には深入りせず、ただ煙の薫りと静かな会話を共有して旧交を温めた。現代社会のしがらみも、異世界の重責も、ここでは紫煙と共に消えていく。
店を出ると、夜の冷たい空気が心地よく感じられた。 研修センターでは、今もエレナとカイルが、新しい世界を飲み込もうと必死に机に向かっているはずだ。
「……あいつらが頑張ってるのに、俺も遊んでばかりはいられないな」
サトシは独りごちて、自分を律するようにネクタイを締め直した。
頑張っている部下たちへのせめてもの労いにと、デパートの地下で一般のスーパーには並ばないような高級食材を買い込み、サトシは都会の夜を後にした。
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