第39話 サージョ・トレーディング育成研修センター
サトシは現代のワンルームマンションで、窓から覗く微かな街の灯を背にしていた。 壁一面の本棚に収納された大量の実用書に指を這わせ、背表紙を一つずつなぞっていく。
「会社法」「金融システム」「金融工学」「特許戦略」「施工管理技術」。
これらはエレナに最低限身に着けてもらわなければならない知識の一部だった。 さらにどの知識が必要かと考えているうちに、サトシはふと手を止めた。
これほど高度で専門的な領域に関する本を数冊渡して「読んでおけ」といったところで、実務に生かすことは困難を極める。 かといって、現代の技術者や法学者を異世界へ連れて行き、授業をさせるのではあまりにリスクが高すぎる。
彼らの失踪は現代社会で大きな騒ぎになり、異世界の存在が公になればサトシの立場も危うくなるだろう。異世界の存在が知られないとしても、誘拐犯であるなどと疑われてはたまったものではない。
(……ならば、逆だ。異世界からこちらへ連れてくるしかない、か)
サトシは、確保したばかりの十五億円をまず何に使うかを決めた。 エレナとカイルに教育を施すため、現代で身分を確定させ、最高の家庭教師を呼ぶのだ。
(エレナを異世界における『法の設計者』として完成させるには、生きた実務の経験と専門家による直接の指導が必要だ。引退した実務家や有能な専門家を個人的に招聘し、確保した拠点で集中講義を行う。)
カイルにはエレナのような座学だけでなく、組織としての「武」をアップデートさせる必要がある。 サトシは、国内大手綜合警備保障会社のOBや、海外のPMCから招いた教官をカイルの家庭教師としてオファーする計画を立てた。
彼を個人の武勇に頼る「戦士」から、より近代的な警備システムと兵站を理解する「最高警備責任者(CSO)」へと作り替えるためだ。
エレナには持ち前の驚異的な知性が、カイルには鍛え上げた身体能力がすでに備わっている。 彼女らに現代の専門家によるマンツーマンの指導を掛け合わせれば、数ヶ月で「近代的な実務家」と「軍事のプロ」へと仕上がるだけのポテンシャルがあると確信していた。
◇
サトシは本棚から指を離すと、手元のタブレットに目を落とした。 そこには、二つの世界を結ぶ「見えない力」が数字となって現れていた。
画面に表示された現在の為替レートは、1円=12.1ルピ。 以前、彼が異世界に訪れたばかりの頃は1円=12.5ルピであったはずだ。
「……円安ルピ高か。おそらく俺が介入することで異世界側の経済水準が上昇し、通貨価値が底上げされたのだと見ていいだろう」
サトシはそう独りごちた。
彼が異世界で成し遂げたこと。 高濃度酒精の製造に成功し自由都市の疾病率を減少させ、新大陸航路を切り開き新たな経済圏を生み出した。 そしてサージョ・バンコを通じて決済インフラを整え、物流を活性化させ、信用創造によって莫大な富の流れを生み出した。
これらすべての結果がかみ合った結果、異世界側の「信認」が高まったのだ。
サトシは躊躇することなく、手元の円をルピに変換する。 サージョ・トレーディングから確保した十五億円のうち、十億円を一度にルピへと流し込む。 今、十億円を対価として得られたルピは、金貨換算で約50万枚にも及んだ。
異世界から現代へ資産を持ち込む際、資金洗浄のために最初に投じた5万枚を差し引いたとしても、手元には45万枚ものクリーンな資産候補が残っている計算になる。
「これで、現代側の活動資金に困ることは当面ないな」
サトシは冷徹に数字を弾いた。異世界で生み出した価値を現代の円に変え、その円で現代の高度な知見や物資を買い再び異世界へと還元する。
この循環を維持するための燃料は、すでに十分すぎるほどに積み上がっていた。現代での教育費や拠点維持費、そしてこれから本格化する専門家への報酬などは、この45万枚の金貨を状況に合わせて徐々に円へと売却していくことで、一切の足跡を残さずに賄うことができるだろう。
◇
現代でエレナとカイルに教育を受けさせるためにまず着手したのは、二人を数ヶ月単位で滞在させるための「研修所」の確保だ。
自宅としているワンルームマンションは、三人に加えて複数の専門家を呼ぶにはあまりに手狭だった。 サトシが選んだのは、売りに出されていた比較的小規模の地元企業が所有していた元保養所だった。
都心から車で一時間半ほど離れ、サトシのワンルームマンションから車で30分の深い森に囲まれたその施設を「サージョ・トレーディング育成研修センター」として、法人名義で一括で購入したのだ。
サトシは研修センターの備品として、最新のノートパソコンを複数台、そして数か月生活するうえで過不足のない家電一式など、さまざまな物品を買い揃えた。
さらに彼は、かつてのブラック企業時代に培った書類作成能力を発揮し、長期滞在する二人のために「現代生活・完全マニュアル」を自作した。
多様な家電が担うそれぞれの役割、リモコンの各ボタンの機能と意味、そして「電気」という目に見えない魔力の取り扱い方。
「文明の利器に驚いている時間は最小限でいい。目的はあくまでも彼らを実務家として鍛え上げることにある」
静まり返った別荘の書斎で、サトシは二人の未来を設計するようにキーボードを叩き続けた。
◇
サトシはエレナたちへの定期的な報告をするため、再びタブレットのログインをタップし、異世界の執務室へと戻った。
執務室へと戻ったサトシは、テラスへと歩み寄る。 眼下に広がる港湾都市の光景は、数年前とは明らかに異なっていた。
かつての暗く沈んだ港町は、今や新大陸から物資が流れ込む巨大な経済のるつぼと化している。 そして、サージョ・バンコの前に並ぶ商人たちに、かつてのような重苦しい金貨袋を持っている者は一人もいない。
代わりにその懐に納まっているのは、サトシが発行しその価値を保証した「サージョの預かり証書」――すなわち、紙の通貨だ。
為替レートが示した1円=12ルピという数字は、単なる計算上の結果ではない。 この街に住む何万という人々が、明日も今日と同じようにサージョの紙切れでパンが買えると信じている「信仰」の総量だ。
自分が動かした歯車が、一国の通貨価値を押し上げるほどの巨大なうねりとなっている。
主人の帰還を察し、扉を叩く二人の足音を聞きながら、サトシは力強く頷いていた。 扉が開かれると、主の帰還を待っていたエレナとカイルの姿が見える。
「エレナ、カイル。朗報だ。ルピの価値が上がっているぞ」
サトシが告げると、二人は顔を見合わせた。 カイルは何のことやらと言った様子だ。 エレナは為替という概念を知識では理解しつつも、それが通貨価値の上下以外にどういった意味があるのか測りかねているようだった。
「それはつまり、この国の経済に対する『信頼』が上がっているということだ。人々が明日を信じ、サージョの証書を金貨と同等、あるいはそれ以上に価値があると認めている証拠だ」
「信頼が、数字になるのですか……」
エレナが感嘆の声を漏らす。 サトシはその様子を見て、やはり彼女たちに次なるステップを課す時が来たと確信した。
「ああ。そして、その信頼をさらに強固な『文明』へと変えるために――エレナ、カイル。お前たちを俺の世界へ招待しよう。この前のような短期間ではない。そこで、みっちりとこの世界を創り変えるための歴史と叡智を学んでもらう」
サトシの脳裏には、二つの世界を股にかける「最強のチーム」を育成するための、壮大なグランドデザインが描かれていた。
【第39話 概況】
為替レート変更: 1円=12ルピ(ルピ高推移)
資産の変化: 10億円 → ルピ変換(金貨50万枚相当)
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