第32話 俺たちが本物であることを教えてやる
サージョ・バンコの資産現金化が一段落したころのことだった。 さわやかな海風の吹くなかで、シーリンの港を一望できるテラスからサトシは双眼鏡を覗いていた。
その視線の先には帰航したばかりとみられる一隻の貿易船が停泊していた。
「……エレナ、あの船を見ろ。新大陸から戻ったばかりのバンコ・カピタル系列の商船だ。違和感を感じないか?」
双眼鏡を受け取ったエレナが怪訝そうに目を凝らす。
「特におかしな点はありませんわ。帆も立派ですし、乗組員も活気に溢れています」
エレナは双眼鏡を覗きながら目の前に映る「新大陸帰りの大型帆船」を賞賛した。しかし、サトシの視線は、色鮮やかな旗や着飾った船員ではなく、もっと別の「真実」を捉えていた。
「新大陸から帰ってきたにしては船体がきれいすぎるとは思わないか?それに喫水線を見てみろ。荷を積んでいるはずなのに、船が浮きすぎている。……あれは空樽だ。航海の実績を偽装し、次の融資を引き出すための偽装工作だな。偽装融資はバブルの末期にはよくある光景だ。中身のない数字を回すために、船まで空で走らせ始めたということだろう」
その事実に驚きエレナは両手で口を覆った。
「まさか、事業もせずに融資を引き出して何の意味があるというのですか?」
「事業なんて、もう誰も興味がないのさ。金を引き出し、それで別の証書を買い、価格を吊り上げてから誰か別の馬鹿に売りつける。必要なのは『順調に利益が出ている』という見せかけのポーズだけだ」
サトシはシガリロの灰を海風に散らした。
「引き出した融資で、借金の利息を払う。……自転車操業という地獄の追いかけっこだ。止まれば死ぬから、奴らは空船を走らせてでも『成功』を演じ続けなきゃならないんだ」
◇
サトシがそう指摘した数日後、ついに「針」がバブルを突いた。 新大陸からの主力貨物船『アルテミス号』が、暴風雨を避けるために最短でも一週間入港を遅らせるという報せが入ったのだ。
「始まったな……。エレナ、全行員に通達を出せ。これからしばらくの間、預金の引き出しが殺到するだろう。だが絶対に渋るな。余裕を持って、笑顔で応対し続けろとな」
「……たった一週間の遅れではないですか。それが、連中の命取りになりますの?」
エレナの問いに、サトシは窓の外、荷揚げが止まった静かな桟橋を見つめながら答えた。
「ああ。あいつらは、まだ見ぬ荷を担保に次々と新しい借金をして、古い借金の返済に充てている。港に船が着き、荷が動いている間はいい。だが、一週間でもその『回転』が止まればどうなる? 今日払うべき金貨が用意できず、たった一人の商人への支払いを断った瞬間……その噂が街中の貸し手を震え上がらせるんだ」
エレナは息を呑み、港の方角を見つめた。 そこには、空の樽を積み、虚飾の栄光を纏って浮かぶ「偽りの商船」がある。
今のシーリンの繁栄は、激しく回転し続けるコマのようなものだ。 回り続けている間は美しく立って見えるが、たった一つの躓き――「一週間の遅延」という障害物が入り込むだけで、その均衡は無残に崩れ去る。
サトシは考え込み沈黙したエレナの横顔を見つめ、一段と声のトーンを下げた。
「準備率を削り、自転車操業で空手形を回し続けていた連中には、一週間の『支払いの空白』を埋めるキャッシュがない。……大嵐が来るぞ」
エレナはサトシから渡された緊急対応マニュアルを握りしめ、青ざめた顔で窓の外を凝視していた。
◇
二日後の朝、シーリンの街に悲鳴が響き渡った。 それはサージョ・バンコが営業を開始するほんの少し前のことだった。
開店直後のバンコ・カピタルの窓口を訪れた商人が預金の引き出しを拒否されたのだ。 その噂は一瞬で街を駆け巡り、激昂した群衆が銀行へなだれ込んだ。
「金を出せ! 俺たちの金を返せ!」 「開けろ! 逃げる気か!」 「本当に金はあるのか! この詐欺師どもが!」
数百人に上る群衆に取り囲まれた追い詰められた王都系の銀行たちは、慌てて重い木製の防壁を閉じ、頑丈な鉄格子を下ろすしかなかった。 だがその「拒絶」の構えこそが、預金者たちに『銀行は金を持っていない』と確信させる致命的な一手となるのだった。
暴動寸前のシーリン。だが、サージョ・バンコだけは違った。 サトシは、本店の重厚な二重扉を全開にするよう命じた。
「サトシ様、本当に開けてよろしいのですか!? 群衆が詰めかけているのはバンコ・カピタルだけではないのですよ!? うちの表にだってもう数百人もの群衆が……」
「エレナ、これはむしろ好機だ。金庫にある金貨を窓口の後ろに山積みにして、彼らの目に見えるようにしろ。……俺たちが『本物』であることを教えてやる時間だ」
開店の鐘が鳴る直前、サトシは執務室のバルコニーにカイルを呼び出した。階下では、不安に駆られた群衆のざわめきが地鳴りのように響いている。
「カイル。外の様子はどうだ」
「……あまり良くないな。カピタルが門を閉ざしたせいで連中、恐怖が怒りに変わろうとしている。だが、うちの隊員たちは落ち着いてるぜ」
サトシは頷き、信頼を込めてカイルの肩を叩いた。
「頼むぞ、カイル。今日は一人も怪我人を出すな。怒鳴り散らしている連中も、うちの大切な預金者だ。力ではなく『秩序』で彼らを包み込んでやってくれ」
「『サージョの看板は、血で汚さない』。それが俺の仕事ってことだな」
カイルは隊員たちの前に立つと、通るがどこか温かみのある声で語りかけた。
「サトシ様の指示だ。剣は抜くな。盾も威圧的に構えるな。我々の仕事は群衆を叩き出すことではなく、彼らが安心して金貨を受け取れるよう、安全な『列』を作ってやることだ。……いいか、笑顔を忘れるな。俺たちが落ち着いていれば、客も落ち着くんだ」
「ハッ!」という隊員たちの短く、統制の取れた返唱が響く。
「よし、開門だ」
カイルが合図を送ると、重厚な扉がゆっくりと開放された。
◇
恐怖に駆られてなだれ込んできた預金者たちは、サージョ・バンコの光景に絶句した。
そこには、自分たちが一生かかっても見ることのない、都市を丸ごと買えるかのごとき金貨の山が輝き、行員たちはサトシの指示通り、穏やかな微笑みを浮かべて整然と払い出しの手続きを行っていたのだ。
「どうぞ。お手元の証書は、いつでもこの通り金貨と交換いたします。……お急ぎでなければ、新大陸産の温かい紅茶でもいかがですか?」
行員たちが銀のトレイで運ぶ紅茶と、背後に積み上げられた金貨の輝き。 その二つが、極限状態にある人々の心を鎮めていった。
「……サージョの旦那のところには、まだこんなに金があるのか」 「おい、引き出すのをやめよう。全財産を持って帰るつもりか? こんなもん持ってたら強盗に狙われるだけだぜ」
預金者たちの間に奇妙な沈黙が広がった。 つい先ほどまで「金を出せ」と怒鳴り散らしていた男たちも、いざ目の前に「いつでも返せる」という圧倒的な現実を突きつけられると、途端に現金を抱えて街を歩くリスクを思い出したのだ。
一人、また一人と手続きを中断し、ある者は受け取ったばかりの袋をそのまま窓口へ押し戻した。
サトシが命じた「余裕ある応対」と「物理的な富の提示」は、人々の恐怖を「ここなら預けておいても大丈夫だ」という安堵へと劇的に上書きしていった。
その光景をバルコニーから見下ろしていたエレナが、信じられないものを見るかのように声を上げた。
「……見てください、サトシ様。引き出しに来たはずの人々が、今度は他行から引き出してきた金をうちに預けようと押し寄せていますわ」
「当然だ。大嵐のとき目の前に頑丈な石造りの建物があれば、誰だってそこに逃げ込むしかないだろう」
サトシは一切の空売りを行わなかった。
バブル末期において、空売りはとてつもない利益を生む。だが同時に数えきれないほどの人間から恨みを買うことになる。 だからこそ、サトシはただ嵐の前に自分の屋根を補強しただけだ。
だが、それだけで十分だった。 王都系の銀行は、自らが膨らませた欲望の風船に、自ら圧殺されていったのだ。
【第32話 収支内訳】
預金受け入れ総額: 金貨 141,000枚(一時的なキャッシュアウトにより減少)
収入項目:
既存事業: +金貨 1,120枚
預金利息: +金貨 34枚
為替決済手数料: +金貨 400枚
支出項目:
行員・警備兵への特別手当: ▲金貨 300枚
代理店(各地両替商)への配当: ▲金貨 340枚
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