第30話 数字は人を騙すが、現実は嘘をつかない
サージョ・バンコの設立から半年。 順調に預金は積み上がり、決済事業に加え既存の事業も好調に推移していた。
かつて金貨の袋を積んだ馬車の隊列が泥濘に足を取られていた街道では、今やサトシが発行する「証書」を懐に入れた商人たちの早馬が行き交っていた。
「……サトシ様、見てください。今月の王都港湾都市間の決済総額が先月の二倍に跳ね上がっていますわ!」
執務室でエレナが抱えていた帳簿には、驚異的な数字が並んでいた。 重量のある物理的な金貨の輸送という「摩擦」が消えたことで、商品の売買サイクルが劇的に短縮されたのだ。
「今までは王都と港湾都市の間では金貨を運ぶのに馬車を使い警備他の随行させ十四日かかっていた。だが証書による取引なら早馬で四日で終わる。同じ一ヶ月でも、これまでは二回しかできなかった商売が八回できるようになった。それに伸びしろはまだまだある」
サトシはシガリロを燻らしながら、別の「帳簿」を広げた。 それは単なる収支報告ではなく、サージョ・バンコを通じて行われたすべての商会が残す「取引記録」の集積だった。
「経済の回転速度が上がれば、富の総量は増える。だが、それ以上に重要なのは……誰が、どこで、何を、いくらで買っているかだ。いまその『情報の血流』がすべてこの部屋に集まるようになっている」
これまでは商人の勘や数週間遅れの風聞に頼っていた情報が、今や「決済」という確実な事実として、リアルタイムで彼の元へ届けられている。 それは、他者が立ち入ることのできない、サトシだけが知ることのできるこの世界の縮図だった。
彼は目を細め、一見関連性のない複数の記録を繋ぎ合わせるように言葉を紡ぐ。 サトシは羽ペンの先端で帳簿の特定の箇所を指し示した。
「ここを見てみろ。王都で小麦相場が上がっているみたいだな、西方の穀倉地帯で何か問題が起きている可能性がある。そしてこちらは宝石加工が北方で拡大しているという情報だ。国境からの盗賊の流入が激化したのか、あそこを治めている侯爵家が軍備の増強をしている兆候だろう」
エレナはハッとしたようにサトシの手元を見た。 サトシは決済手数料を得るだけではなく、この世界のあらゆる「情報」をも掌握し始めていたのだ。
◇
「サトシ様、預金総額が金貨10万枚を超えました! これだけの資金があれば、王都中の商館を買い叩くことだってできますわ。……まるで世界が、私たちの手の平の上にあるようです」
銀行の地下に備えられた大金庫に積み上がる金貨と、自らのペン一つで動く巨額の数字。 まだ年若いエレナは、その万能感に頬を上気させ、少しばかり酔いしれていた。
「……浮かれるな、エレナ。それは『俺たちの金』じゃない。預かっているだけの火薬なんだ」
サトシは冷徹に言い放ち、新たな通達を書き上げた。 羽根ペンが羊皮紙を削るカリカリという乾いた音だけが、静まり返った執務室に響く。
「預金が増えたからといって無軌道に貸し付けることは絶対に許可するな。実体のない商売には一銭も出すなと審査官に伝えるんだ。審査規定に違反した融資を行ったものは適正に処分しろ」
このときサトシの脳裏にはブラック企業時代の記憶が蘇っていた。 それは、過度な売上ノルマによって疲弊した現場が崩壊し、失敗を糊塗するために粉飾に手を染めて自滅していった取引先企業の光景であった。 あの時はサトシの勤務先も不渡りをつかまされてその処理に奔走することとなった。
「いいか、エレナ。数字は人を騙す、だが現実は嘘をつかない。帳簿に書かれた数字はただの文字に過ぎない、しかし店先に並ぶ商品は本物でなくてはならないんだ。この熱狂はいつか周囲を巻き込んで崩壊する毒となるぞ」
◇
その後もサトシの懸念をよそに、市場はさらなる高揚感を求め続けていた。
サージョ・バンコから融資を受けた新大陸航路の若手商人たちが、まだ見ぬ交易品を担保に「利益を約束する証書」を作成しては転売をし始め、街には熱狂の香りが漂い始めていた。
いまだ出航すらしていない船の荷に価値が付き、実体のない「期待」が価格を押し上げ、その価格がさらに借金を正当化する。 港の酒場では、一度も海へ出たことのない若者が、昨日手に入れた証書を倍の値で売って得た金貨を景気良くばら撒いていた。
街全体が、覚めることのない熱病に侵されたような高揚感に包まれている。 街の様子を一望できる執務室のバルコニーから活気にあふれる街を見下ろし、エレナはほおを紅潮させ高揚を隠せない様子でサトシに詰め寄った。
「最近の港湾都市は空前の好景気ですわ、サトシ様! 街を歩けば、昨日まで日雇いだった若者が新大陸の証書一枚で金持ちになり、酒場で金貨を投げ合っています」
エレナは興奮を抑えきれない様子で、窓の外に広がる喧騒を指し示した。 彼女はデスクに置かれた最新の収支報告書をサトシの前に差し出すと身を乗り出した。
「これはサージョ・バンコがさらに飛躍する、またとない絶好のチャンスではありませんか? 我々も、もっと預金準備率を下げて、金庫の金を融資に回せば、利益はさらに今の倍……いいえ、それ以上に膨らむはずですわ!」
エレナの瞳には、積み上がっていく数字の魔力が宿っていた。 今の都市ではどれだけ貸し出してもすべてが倍の金貨に変わる。 誰もがそう信じて疑っていない。
しかし、サトシは一向に表情を崩さなかった。 サトシは静かにシガリロを置き、熱を帯びた街の狂騒を遮るように口を開いた。
「いいや。むしろ逆だ、エレナ。嵐の予兆が見える」
サトシは窓の外、日が沈みゆく港を見つめていた。 彼の脳裏には、歴史に名を刻んだチューリップの球根や、実体のない南海のバブルが想起されていた。
だが、この世界の人々は誰もまだその大嵐を経験したことがないのだ。 人々が「紙」を金だと思い込み、実体のない価値に踊り始めたとき、かつての現代社会で起きた「悲劇」がこの異世界でも繰り返されようとしていた。
【第30話 収支内訳】
預金受け入れ総額: 金貨 120,000枚(サージョ・コメルツォ自己資金含む。預金準備率50%)
収入項目:
既存事業: +金貨 11,000枚
預金利息: +金貨 330枚
融資利息: +金貨 7,230枚
為替決済手数料: +金貨 1,800枚
支出項目:
サージョ・バンコ経費: ▲金貨 1,800枚
預金金利支払い積立: ▲金貨 1,446枚
代理店(各地両替商)への配当: ▲金貨 800枚
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