錨と剣の休息
商館『サージョ・コメルツォ』の夜は静かだ。 かつて奴隷市の泥の中にいたエレナにとって、この穏やかな生活は、いまだに夢のように感じられることがあった。
彼女は一人、リビングの長机で帳簿を閉じた。 ふと、隣の部屋のバルコニーに目をやると、赤い小さな光が揺れている。 サトシが吸うシガリロの火だ。
「……あの方は、また、私たちとは違う『別世界』を見ていらっしゃるのかしら」
エレナは独り言を漏らす。
主・サトシは、この街の誰とも違う。 彼は、貴族のように血筋を誇ることも、成金のように富をひけらかすこともしない。 ただ、この世界の常識からは大きく外れた、残酷なほど「合理的」なロジックで世界を切り取っていく。
「あの日、私を買い取った金貨一五〇枚。……サトシ様はそれを『投資』だと言ったけれど」
エレナは知っている。 サトシが抱える知識や思考は、この世界の人々にとって劇薬すぎるのだ。 彼の異質すぎる考えは、時として周囲の理解を置き去りにして暴走し、あるいは既存の保守層から凄まじい反発を招く。
(私は、あの方の計算をなぞるだけの『秤』で終わりたくない。……あの方の思考がこの世界から浮き上がってしまわぬよう地に繋ぎ止め、周囲の反発という激流に押し流されないための『錨』でありたい)
サトシが描く突飛な未来図を現実の商売として形にし、彼がこの世界の理に飲み込まれないよう支える重石。 それが、エレナが自分に見出した存在理由だった。
そんな彼女の背後に、足音もなく影が立った。カイルだ。 彼は磨き上げたばかりの長剣を腰に差し、バルコニーに立つ主を見つめていた。
「おい、エレナ。まだ起きてたのか」
「カイル。……あなたも、サトシ様を見守っていたの?」
カイルは鼻で笑い、壁に背を預けた。
「見守る? 冗談じゃねえ。俺はあの男の背中を預かってるんだ。……変な男だよな、サトシは。兵士でもねえのに、戦場の真ん中で誰よりも冷徹でいやがる」
カイルは、自分に与えられた最新鋭の革鎧の感触を確かめた。
「あの上官の不正を告発して奴隷に落とされた時、俺はもう誰も信じねえと決めてた。だが、サトシは言ったんだ。『お前の誠実さは欠陥だが、俺が欲している信用だ』ってな」
サトシは「正義」を振りかざす聖人ではない。 カイルにとっては誰よりも「契約」を重んじ、自分の背中を守る自身に、その使命にふさわしい環境を用意してくれる男だ。
「俺はあいつの『合理性』を信じてる。あいつが儲かれば、俺たちの居場所も守られる。……シンプルで、戦士には分かりやすい契約だ」
バルコニーの赤い光が消えた。サトシが部屋に戻ってくる気配がする。 二人は顔を見合わせ、わずかに微笑んだ。
この商館には、神殿のような祈りも、軍隊のような鉄の規律もない。 あるのは、サトシという男が引いた一本の「利害の一致」という線。 そして、その線が現実世界から千切れないよう繋ぎ止める「錨」であるエレナ、外敵を退けるカイルという「剣」。 その奇妙だが強固な信頼関係だけだった。
「さて、寝るか。明日はグスタフの爺さんが持ってきた『呪い』とやらを、あの男がどうやって買い叩くのか見届けなきゃならねえからな」
カイルが去り、エレナもまた、自分の部屋へと歩き出す。 目を向けたその先には、明日彼らが挑むことになる港湾都市が待っている。 けれど、もう二人には、あの泥の中のような絶望はなかった。
サトシという男の「投資」が続く限り、自分たちは世界の果てまで行ける。 「錨」としての決意を胸に、エレナは穏やかな眠りについた。
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