仮面の隙間
ヴィクトールとの息詰まる交渉を終え、サトシは自身の執務室へと帰ってきた。
執務室の扉を閉め、鍵をかけた瞬間、彼は糸が切れた操り人形のように崩れ、ソファへと深く沈み込んだ。
「……はぁ、…………っ」
肺の底に溜まっていた熱い空気を、すべて吐き出す。 ふと見ると、膝の上に置いた自分の右手が、笑えるほどに小さく、しかし激しく震えていた。
「サトシ様? 紅茶をお持ちしました……あら」
扉をノックして入ってきたエレナが、彼の様子を見て目を丸くした。 サトシは慌てて震える手を隠そうとしたが、彼女はそれを許さず、静かに歩み寄ってカップを置いた。
「意外ですわ。ヴィクトール様をあんなに見事に屈服させたというのに。……そんなに、恐ろしかったのですか?」
そう聞かれたサトシは自嘲気味に笑い、隠すのを諦めていまだに震える指先を眺めた。
「怖ろしかったさ。……サージョとデカルト商会では地力に天と地ほどの差があったからな」
サトシは、脳裏に刻まれたあの緊張の瞬間を反芻した。
「あの場で、もしヴィクトールが利益よりも『プライド』を優先して、俺の提案を即座に撥ねつけていたら……。あるいは、交渉のテーブルに着く前に、力ずくで俺を排除しようとしていたら、その時点でサージョ・コメルツォは終わっていた」
サトシの脳裏には、ブラック企業時代の凄惨な記憶が焼き付いている。 追い詰められた人間は時に合理性を捨て、心中覚悟で相手を道連れにする。だからこそ塩梅というものが大切なのだ。
ヴィクトールという怪物は、一商会を物理的に叩き潰す力を持っていた。 もし彼が「生意気な商売敵を黙らせる」という一点に執着する男だったなら、サトシの持っていた利益というカードもただの紙屑に変わっていただろう。
「やつは横柄だった。……だが、実のところ、俺のような得体の知れない余所者を『対等な交渉相手』として認めてくれていた。利益という共通言語を解する大商人だったんだ。ヴィクトールが、ただのプライドだけの男ではなく、利益に聡い現実主義者で本当によかった……」
サトシは、エレナが淹れてくれた紅茶の温かさを両手に感じながら、ようやく震えが収まっていくのを実感した。
「冷徹な仮面を被っているつもりだったが、化け物の前では薄っぺらな皮一枚だったよ」
サトシの呟きに、エレナは慈しむような微笑みを向けた。
「それでも、その皮一枚を貫かせなかった。それが、サトシ様の勝利ですわ。……お疲れ様でした、サトシ様。今夜はゆっくりお休みください」
「……ああ。明日からは、大見得を切ったポートワインの企画書でも考えないとな」
サトシは冷めてきた紅茶を一口飲み、再び前を見据えた。 恐怖に震える夜を超えて、彼はまた一歩、この世界の「支配構造」へと深く食い込んでいく。
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