【IFストーリー3】無菌室のディストピア――あるいは究極のホワイト企業 (断章終了時点から分岐三十年後)
※注意
IFストーリーシリーズは本編とは時間軸が異なったパラレルワールドです。
時系列や登場人物の生年、キャラクターの能力や設定が異なったりします。
サージョ・グループによる大陸統一は、一滴の血も流れることなく完了した。
王都ネオ・サージョの朝は、完璧な静寂と秩序の中に始まる。空は魔導気象制御によって常に最適な快晴が保たれ、道端には一片のゴミも落ちていない。
街を行き交う数百万の市民たちは、誰もが清潔で温度調節機能のついた統一規格の衣服を身に纏い、理想的な栄養バランスの朝食を腹に収め、血色良く、極めて健康的な足取りで職場へと向かっていた。
この大陸にはもはや、飢える者も、凍える者も、路地裏で貧困に苦しむ者も存在しない。サージョがもたらした圧倒的なインフラと富の再分配システムは、すべての人民に「平等の豊かさ」と「絶対的な健康」を約束した。
だが、その街並みを注意深く観察すれば、誰しもがある異様な事実に気がつくはずだ。市民たちの顔には、ただの一つの「笑顔」もないという事実に。
その顔には怒りも、悲しみも、喜びも浮かぶことはない。彼らの瞳は一様にガラス玉のように澄み切り、そして完全に死に絶えていた。彼らは人間ではなく、巨大な時計仕掛けに組み込まれた、精巧な血肉の歯車に過ぎなかった。
街を歩く彼らの首筋には、誰一人例外なく淡く青い光を放つ魔法陣が刻まれている。『絶対的労働および生活保障に関する魔法契約』の証だ。
一部の特権階級たるサージョ理事会を除く、全市民が例外なく結ばされているこの契約こそが、この狂ったユートピアの正体であった。
◇
午前八時五十九分五十九秒。
巨大なオフィスビルのフロアに、数千人のデスクワーカーたちが微動だにせず着席している。
彼らの視線は目の前の魔導端末に固定され、指はキーボードのホームポジションに置かれたまま、ピクリとも動かない。私語は一切なく、咳払い一つ聞こえない。
そして、午前九時零分零秒。
始業のチャイムが鳴ったその瞬間――数千人の指が、一糸乱れぬ動きで一斉にタイピングを開始した。
フロアに響き渡るのは、恐ろしいほどの速度で叩かれるキーボードの打鍵音だけだ。
サトシの抱える最大のトラウマ。それはブラック企業における「長時間労働」と「非効率な業務による過労」であった。そのトラウマが暴走した結果、彼はこの世界に「究極のホワイト企業」を作り上げた。
市民の労働時間は、週五日、毎日きっちり八時間。それ以上の労働は「健康を害する重罪」として法律で固く禁じられている。しかし、その裏返しとしてサトシが市民に要求したのは、「八時間における一ミリの無駄も許さない、絶対的な効率の追求」であった。
業務時間中、労働者の網膜の動き、心拍数、脳波のすべては魔導契約を通じて中央システムに常時モニタリングされている。
例えば、ある市民が書類作成中に、ふと窓の外の雲の形に気を取られ、タイピングの手を一瞬止めたとしよう。その瞬間、首筋の魔導契約からチリッと痛みを伴う電気信号が発せられる。
網膜に投影されたディスプレイには、赤字で警告が表示されるのだ。
『集中力の低下を検知。作業効率が低下しています。速やかに業務に復帰してください』
雑談、あくび、背伸び、トイレのための離席。業務効率を落とすあらゆる「人間らしい行動」は徹底的に排除され、許されることはない。
彼らは文字通り機械として己の脳髄と肉体を一二〇パーセント酷使し、極限の集中力でシステムに利益を捧げ続けなければならないのであった。
◇
極限の集中力による労働は、当然ながら人体に甚大なストレスと疲労をもたらす。
現代であれば、過労で倒れたり、風邪を引いたりして「欠勤する」という逃げ道があった。しかし、この狂ったホワイト企業において、病欠は「事業計画の遅れを生む最大のノイズ」とみなされる。
そこで転用されたのが、かつて神殿で奇跡を起こしていた聖女リリィの治癒魔法であった。
ある時、フロアの片隅で一人の男性社員が突然胸を押さえて痙攣し始めた。極度の肉体・精神的負荷による急性心筋梗塞である。
本来ならば、そのまま救急搬送され、数週間の入院が必要となる重篤な状態。しかし、彼が床に倒れ込むより早く、各部屋の天井に設置された「広域魔導医療ポッド」から、強烈な緑色の光線が彼に向かって照射された。
リリィの治癒魔法を自動化し、大陸全土のオフィスに張り巡らされた「即時回復システム」である。
「……あ、が……っ!?」
男性社員の詰まった血管が、魔法の力でわずか三秒で強制的に修復され、開通する。心筋のダメージは瞬時に復元され、蓄積された疲労物質すらも魔法によって完全に分解・消去された。
『社員番号4092番、バイタルサインの正常化を確認。健康状態は完全です。本日のKPI達成率が遅れています。直ちにタイピングを再開してください』
無機質なアナウンスが響く中、心臓発作を起こしたはずの男は、ロボットのように無表情ですぐに立ち上がり、何事もなかったかのようにデスクに向かって猛烈な勢いで仕事に復帰した。
周囲の社員たちも、一連の騒ぎに一切の関心を払わず画面を見つめ続けている。
彼らは「病気で休む権利」すら剥奪されているのだ。風邪を引けば即座にウイルスを魔法で焼却され、骨が折れれば五秒で接着され、過労で脳が悲鳴を上げても強制的にリフレッシュさせられる。絶対に壊れることのない、死ぬことすら許されない永遠の労働機械。
中央医療タワーの最深部では、大陸中の医療システムに己の莫大な魔力を供給するための「生体バッテリー」として繋がれたリリィが、光を失った虚ろな目で、ただ延々と治癒の術式を紡ぎ続けていた。
かつての彼女の優しさは、今や労働者を地獄に縛り付ける最強の呪いへと変貌していたのである。
◇
午後五時零分零秒。
終業のチャイムが鳴り響いた瞬間、数千人の労働者たちは一斉にタイピングを止め、機械人形のように揃って立ち上がる。
一秒のサービス残業も存在しない。彼らは整然と列を作り、それぞれの割り当てられた住居へと帰っていく。
週五日の完璧な労働を終えた彼らには、二日間の「休日」が与えられる。しかし、その休日すらも、システムにとっては月曜日からの労働効率を最大化するためのメンテナンス期間でしかなかったのだ。
自由な趣味や、怠惰に昼寝を貪ることは決して許されない。心身の健康を損なう恐れのある酒や嗜好品は法で禁止されている。彼らの休日は、すべて自立型魔導精神体(AI)によって「最も心身の健康に良いメニュー」としてスケジュールが指定されていた。
『土曜日、午前八時。有酸素運動を四十五分間実施してください。心拍数を一二〇に保つことが推奨されます』
『午後一時。指定された古典文学を百二十分間読書し、情操を養ってください』
『午後三時。指定された相手との健全なコミュニケーションを六十分間行ってください』
市民たちは、首筋の魔法契約から流れてくる指示に従い、一様に感情を削ぎ落とした顔でジョギングをし、本を読み、指定された相手と「今日は天気が良いですね」「そうですね」という中身のない会話を交わす。
彼らにとって休日のレジャーとは、楽しむものではなくこなさなければならないタスクの一つなのだ。
いま、この完璧なスケジュールに反発を覚え、「サボりたい」「こんな生活は嫌だ」という思想を脳裏に思い浮かべた市民がいる。すると学術ギルドのトップ、アリスが開発した『思考監視システム』がその微細な脳波の乱れを即座に検知し、対応部隊へと通知を送る。
休日の公園で、一人の青年がふと空を見上げ、「もう、なにもかも嫌だ……」と涙をこぼした。
その数秒後。音もなく青年の背後に現れたのは、サージョ法務部の制服を着た「思想執行官」たちだった。
「市民番号8834。セロトニン値の異常低下、および反社会的なストレス波形を検知しました。あなたは現在、深刻な『精神的疲労』に陥っています。ただちに保護し、隔離教育施設での治療を行います」
「ち、違うんだ、僕はただ、少し休みたいだけで……っ!」
「安心してください。サージョはあなたを見捨てません。心が健康になるまで、何度でも再教育して差し上げます」
青年は一切の暴力を振るわれることなく、極めて丁重に、しかし力強い腕で拘束され、窓のない白い馬車へと押し込まれた。
隔離教育施設に送られた者は、魔導技術によって脳内の化学物質を直接操作され、「働くことが世界で一番の幸福である」という思想を完全に上書きされるまで、白い無菌室から出ることはできない。
暴力による弾圧ではない。「あなたの心の健康のため」という大義名分のもとに行われる、完璧な魂の去勢である。こうして、社会から不満というノイズは完全に排除されていくのだ。
◇
サージョ本社ビル、最上階の最高執務室。
無音で広大なその部屋の中央で、サトシは巨大なホログラム・ディスプレイを見つめていた。
『大陸総人口の健康状態:一〇〇パーセント』
『月間平均残業時間:〇・〇時間』
『有給休暇(指定休養日)消化率:一〇〇パーセント』
『労働効率(KPI)達成率:九九・九八パーセント』
その完璧な数字の羅列を見て、サトシは深く、満足げに頷く。
「……素晴らしい。今月も、過労死はゼロ。自殺者もゼロだ。全市民が健康に、八時間の労働と十分な睡眠、そして休日を享受している」
サトシは、手元の熱いコーヒーを啜りながら、眼下に広がる白一色の街並みを見下ろした。彼の脳裏には、かつて前世で彼が生き抜いてきた「ブラック企業」の記憶が、今も鮮明に焼き付いている。
終電を逃し、オフィスの床でダンボールを被って眠る同僚。上司のパワハラで精神を病み、焦点の合わない目で宙を見つめていた後輩。そしてある朝、通勤電車のホームから、吸い込まれるようにレールへと身を投げた友人の背中。
あの理不尽。あの絶望。人間を使い捨ての雑巾のように絞り上げ、命をすり減らすことでしか回らない資本主義の狂気。
「俺は、誓ったんだ」
サトシは、誰に言うともなく静かに呟いた。
「二度と、あんな思いは誰にもさせない。労働によって命を落とすような世界は、俺がすべて作り変えてやると」
そう。彼の中には「悪意」など一ミリも存在しなかったのだ。
彼は純粋に、人々を過酷な労働と不条理から救いたかった。残業をなくし、健康を保り、誰もが平等に豊かな生活を送れる「究極のホワイト企業」を作りたかっただけなのだ。
だが、前世のトラウマに囚われた彼は、非効率や人間の弱さというものを極度に恐れすぎた。
人間が人間らしくあるための「感情」や「怠惰」や「無駄」こそが、ブラック企業的な搾取の温床になると思い込んだ彼は、それらをシステムから完全に切除するという最悪の最適化を行ってしまった。
情を捨て、心を殺し、ただ「心身の健康」と「効率」だけを追求した結果。彼は、かつて自分が憎んだブラック企業の経営者たちよりも、はるかに残酷で、はるかに冷徹な『究極の魔王』へと成り果てていた。
「サトシ様」
背後から、一切の感情を排した、機械のように平坦な声がかけられた。振り返るとそこには、サージョ法務部を統括する妻、エレナの姿があった。
彼女の美しい銀髪は一本の乱れもなく結い上げられ、その瞳にはかつての知性や愛情の光はなく、ただ法とシステムを執行するためのプログラムとしての無機質な光だけが宿っていた。
サトシは、自分の妻すらも「最高の効率を誇る法務執行モジュール」へと作り変えていたのだ。
「明日の全市民向け『指定休養メニュー』の承認決済をお願いします。また、北区にて発生した精神的錯乱者三名の隔離教育の手続きが完了しました」
「ご苦労、エレナ。君の徹底したコンプライアンス管理のおかげで、我がサージョの労働環境は今日も世界一ホワイトだ」
サトシは微笑みながら書類にサインを行う。エレナは深く一礼し、「すべては、労働者の健やかなる明日のために」と、パスワードを打ち込むような声で復唱した。
執務室の巨大なガラス窓の向こうで、人工的に制御された完璧な夕日が、ネオ・サージョの白い街並みを赤く染め上げていく。
誰も死なない。誰も飢えない。誰も過労で倒れない。ただ、すべての人間から「生きる意味」だけが綺麗に抜き取られた、巨大な無菌室。
「あぁ……なんて美しく、平和な世界なんだ」
狂気に満ちた水晶の玉座で、サトシ・サージョは一人、幸福そうに笑い声を上げた。
その笑い声は、誰の心にも届くことなく、ただ完璧に計算された温度と湿度の部屋の中で、虚しく吸い込まれて消えていった。
これが、一つのトラウマが生み出した、最も効率的で、最も絶望的な資本主義の終着点であった。
【完】




