エピローグ 100年後の貸借対照表(フロンティア)
あれから百年の歳月が流れた。
この世界はその後も進歩をとめることなく、人類は勢力を拡大し続けていた。
かつて一人の社畜が降り立ち、鉄と蒸気で革命を起こした「異世界」は、いまや一つの惑星という枠組みすら越え、星の海へとその勢力圏を広げていたのだ。
かつてサトシが世界初の有人ロケットを見上げた場所は、現在、世界最大の宇宙への玄関口「サージョ記念宇宙港」として君臨している。雲を突き抜けるかの如き巨大な磁気加速器が複数設置され、絶え間なく物資と人を宇宙へと射出するその光景は、既に人々の日常となって久しい。
その出発ロビーは、先日完成したばかりの宇宙コロニー移民第一弾に参加する若者たちの熱気で溢れかえっていた。
「リゲル、準備はいい? サージョの誇りを忘れないでね」
出発ゲートの前で、一人の少年と両親が会話を交わしている。コロニー移民として渡航する少年への見送りである。
その少年はリゲル・サージョ・カエサル、17歳。黒髪に知的な瞳。彼はサトシから数えて六代目、つまり孫の孫の孫にあたる末裔の一人である。
その面立ちは、教科書に載っている「大陸統合の父」サトシと、「法の母」エレナの面影を濃く残している。だが、彼が纏っているのはスーツではない。その身を包むのは機能的なコロニー用活動服だ。
「ああ。父さん、母さん、行ってくるよ!」
リゲルは力強く頷いた。
「レイル兄さんも警備局の先遣隊として向こうで待っているんだろう? 心強いよ」
レイルはカイルから数えて5代目の子孫で、リゲルとは縁戚関係にある警備のプロフェッショナルだ。
リゲルは両親の心配そうな、しかし誇らしげな視線を正面から受け止めて告げる。
「父さんたちが作ったレールを、もっと遠くへ伸ばしてくるよ」
リゲルは手を振り、軽やかな足取りでシャトルへの搭乗ブリッジを渡った。
今日、彼が乗り込むのは、化学燃料を燃やす旧式のロケットではない。マスドライバーによって初速を得て、成層圏離脱後は高効率魔力スラスターで航行する最新鋭の連絡船だ。
船内に入ると、そこには彼と同じ「第一世代」となる若者たちの姿があった。未来への希望に満ちた瞳、少しの不安、そして抑えきれない興奮。
指定の座席を見つけ、荷物を収納して座ると、隣の席には同年代と思われる少女が座っていた。
「……こんにちは。君も、大学へ?」
リゲルが声をかけると、少女は亜麻色の髪を揺らして微笑んだ。
「ええ。農学部よ。宇宙プラントでの食料生産を学びに行くの。あなたは?」
「僕は工学部。コロニー開発や維持管理システムの勉強さ」
「ふふ、じゃあ私の作った野菜を、あなたが守ってくれるわけね」
彼女の名前はリアといった。
話をしていると、周囲の乗客たちの様子も目に入ってくる。通路を挟んで反対側には、これから始まる新生活への期待を語り合う男女3名のグループ。後方には、タブレット端末を操作している中年の学者風グループ。そして、胸元にサージョ・グループの社章――「盾」を模したバッジ――をつけた職員らしき人々が十名ほど。
彼らは皆、かつてサトシが夢見た「フロンティア」の住人たちだ。
『本船はまもなく、射出シークエンスに移行します。シートベルトをお締めください。Gプロテクション、最大展開』
アナウンスと共に、座席のベルトが淡い光を放ち、体を固定する。船体が微かに振動し、電磁カタパルトが唸りを上げ始めた。
『……3、2、1。射出!』
ドォォォォォンッ!
背中を巨人に蹴り飛ばされたような衝撃。
プロテクションのおかげか、思っていたよりずっと軽い、しかし確かなGがリゲルをシートに押し付ける。
だが、その重圧は苦痛ではなかった。これは重力という鎖を引きちぎり、未知の世界へと解き放たれる歓喜の重みだ。
窓の外、青い空が一瞬で群青に変わり、やがて漆黒の闇へと溶けていく。
「……すごい」
隣のリアが窓を覗き息を呑む。彼らは今、先祖たちが何世代もかけて見上げてきた星々の海に、魚のように飛び込んだのだ。
◇
「すごい迫力だったね……息が止まるかと思った」
重力から解放され、リアがほうと熱い息をつく。
「本当に。でも、あっという間だった」
軌道に乗った連絡船の客室は、魔導慣性制御の恩恵で驚くほど静かで快適だった。シートベルトの拘束が解かれると、地球から月と地球の重力均衡点であるラグランジュポイント1(L1)宇宙港での乗り換えまで三十六時間の航行となる。
その間、二人はとめどなく語り合った。
「私、コロニーの土壌改良プロジェクトに参加したくて。あそこの土は全部人工物でしょ? 魔力を帯びた水と無機質な土で、地上と同じ、ううん、それ以上の豊かな生態系を作りたいの」
身振り手振りを交えて熱っぽく語るリアに、リゲルも身を乗り出す。
「なるほど。じゃあ、その生態系を維持するための気候制御や人工重力を僕が維持しなくちゃいけないね。実はコロニーの基幹システムって、安定のために枯れた技術で作られてるって噂でさ。次期コロニー計画では完全に新しいシステムに刷新されるんだって、それに関われたらいいんだけどなぁ」
「ふふっ、もうしっかり進路を考えてるのね。そのときは私の農場も作ってもらおうかしら」
無重力対応の機内食を共にし、仮眠を取り、他愛のない冗談で笑い合う。地球を離れたという心細さは、彼女との心地よい会話が綺麗に塗り潰してくれた。
やがて船は、巨大な中継拠点――L1宇宙港へと滑り込んだ。
ここは月面基地や各軌道の衛星ステーションへ向かう人々の巨大なターミナルだ。人類初にして現在唯一の宇宙コロニーへ向かう客は、ここでL4宙域行きの長距離便に乗り換えることになる。
「それじゃあ、またコロニーのキャンパスでね」
「うん。一緒したいところだけど、私の予約は次の便だから……先に行って待ってて」
コンコースで手を振るリア。遠ざかる亜麻色の髪を見送ると、リゲルの胸にほんの少しだけ、ポッカリとした寂しさがよぎった。
感傷に浸る間もなく、リゲルはL4行きの便へと搭乗した。ここから目的地まではさらに四十時間の旅となる。
指定された座席に身を落ち着け、出航の微細な振動を感じた直後だった。打ち上げからL1までの三十六時間、自分でも気づかないうちにひどく気を張っていたのだろう。リアと別れて一人になったことで一気に疲労が押し寄せたのか、リゲルは泥のような深い眠りに引きずり込まれていた。
ふと目を覚ますと、船内は就寝時間の仄暗い照明に切り替わり、静まり返っていた。周囲の乗客たちは皆、静かな寝息を立てている。
リゲルは音を立てないように立ち上がると、一人で共有スペースの観測窓へと向かった。
ガラスの向こうには、息を呑むような絶景が広がっていた。
地球からは決して見ることのできない、月の裏側の無骨で巨大なクレーター群が、圧倒的な質量を伴ってすぐ傍らを無音で流れていく。その白灰色の地表の向こうには、冷たく瞬く無限の星屑が広がっていた。
リゲルは誰の邪魔も入らない静寂の中、ただひたすらに、その広大で冷徹な宇宙空間と巨大な月を見つめて数時間を過ごした。
四十時間の快適な宇宙航行の後。
リゲルの目の前に、その巨大な人工物が姿を現した。
漆黒の宇宙空間に浮かぶ、巨大な円筒。
全長十四キロメートル、直径三キロメートル。さらにその巨大なシリンダーが二本、連結されて並列に並んでいる。
円筒の一方がリゲルの目的地である学術や商業を行う居住ブロック、そしてもう一方が工業や農場、そしてコロニー内循環機能などが詰まった生産プラントだ。外壁には太陽光パネルと魔力集光板が鱗のように並び、ゆっくりと回転しながら疑似重力を生み出している。
人類が初めて手にした、地球外の恒久的な大地。「サージョ・コロニー・ワン」。
「あれが……僕たちの新しい家か」
シャトルは回転軸にある港へと滑らかにドッキングした。エアロックを抜け、コロニーへの搭乗手続きを済ませると、そこはもう「地上」だった。
遠心力によって作られた1Gの環境。頭上には「空」があり、人工太陽が輝き、緑豊かな公園と計算されつくした未来的な都市が広がっている。
◇
リゲルは居住区の中心部に位置する、「コロニー第一大学」の講堂にいた。
記念すべき第一期生としての入学式だ。
「よう。君、さっきのシャトルに乗ってただろ?」
隣に座った小柄な男子学生が、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「僕はアラン。サージョ技術専科学校からの飛び級。実はここのメインコンピュータにハッキングを仕掛けたことがあるんだけどさ、全く歯が立たなかったよ。防衛機構がガッチガチでさ、それで直接見るためにここまで来たってわけ」
「マジか、それって僕に言っていい話?」
「足は付いてない。君が言ったところで誰も信じないさ」
「そうか、すごいんだな……。まあいい、僕はリゲルだ。よろしく」
天才肌のアランと握手をしていると、斜め前方の席に、見覚えのある亜麻色の髪が揺れた。シャトルで隣だったリアだ。彼女は別の女子学生と楽しそうに話していたが、リゲルの視線に気づくと、悪戯っぽく片目を瞑ってウインクをしてくれた。
リゲルも小さく手を振り返す。
(……ここには、新しい出会いがある)
やがて、厳かな演奏と共に式が始まった。壇上に上がったのは、白髪で痩身の男性だった。彼が総長だ。彼はマイクの前に立ち、新入生たちを見渡して力強く訓示を述べた。
「諸君。ようこそ、星の海へ」
その声は、コロニー全体に響き渡るようだった。
「君たちがいま立っているサージョ・コロニー・ワンは人類が初めて手にした宇宙における恒久的な大地である。そしてここが最後ではない。諸君は、これからの人類の未来をその肩に背負っているのだ。我々の先祖が鉄道を敷き、経済を回し、そして空を測ったのは……今日この場所に、君たちが立つためだ」
会場を埋め尽くす若きエリートたちの間に、心地よい緊張感が走る。かつて一人の男が、北関東の澱んだ空気の中で夢見た「合理性」が、いまや重力さえも制御したこの巨大なシリンダーの中で脈動していた。
総長は、窓の外に広がる無限の闇を指差した。
強化ガラスの向こうには、漆黒の宇宙を背景に、宝石のように青く輝く地球と、静謐な月の裏側が同時に鎮座している。
「かつて、世界は狭かった。目に映る大地だけが全てだった。だが、一人の先駆者が『空の測り方』を教えてくれたあの日から、我々の庭は無限に広がった」
その言葉とともに、ホログラム投影された巨大な年表が宙に浮かび上がる。泥にまみれた蒸気機関車、大陸を縦断した鉄路、そして月面から持ち帰られた蒼い魔力結晶。それらすべてが、今日という「決算日」に向かうための投資であったことを、総長の声は静かに肯定していた。
「これからの時代、人類はこの宇宙に播種していくことになるだろう。月へ、別の惑星へ、そしてさらに遠くの星系へ。……君たちはその第一世代として、後ろを歩む者が恥じない背中を見せなければならない」
総長は一度言葉を切り、壇上から若者たち一人ひとりの瞳を射抜くように見つめた。その眼差しには、冷徹なまでの理知と、未来への熱い信頼が宿っていた。
「学べ。そして挑め。君たちの前には、レールのない荒野が広がっている。だが、恐れることはない。君たちの血管には、挑戦者の血が流れているのだから」
割れんばかりの拍手が巻き起こる。
リゲルは胸が熱くなるのを感じた。自分は今、歴史の最前線に立っているのだと。
◇
式典を終え、真新しい寮へと向かう回廊。
リゲルはふと足を止めた。
すぐ横にあるガラスの向こうには、彼が生まれ育った「母星」が浮かんでいた。
青と白のマーブル模様。息を呑むほどに美しい、命の揺り籠。
その周囲には、ここ数十年で爆発的に増えた無数の人工衛星が真珠の首飾りのように輝き、月面基地との間を行き来する定期便の光が、蛍のように舞っている。
サージョが創業してから約百五十年。
たった一人の「投資家」が、ブラック企業の絶望の中から持ち込んだ「合理性」という種。そして、「明日も生きていける」というささやかな希望。
それが今、芽吹き、幹を太らせ、この広大な宇宙空間を人類の庭に変えようとしていた。
「……すごいな。ご先祖様は、僕たちがこんな景色を見ることを夢見ていたのかな」
リゲルは窓に手を当てた。
かつてサトシは、狭い喫煙所で吐き出すシガリロの煙だけが、誰にも奪われない自由だったと言い残している。
だが今、リゲルの目の前にあるのは、煙のような儚い自由ではない。
星々の瞬く、無限の闇。
どこまでも行ける。何にでもなれる。
誰にも奪われることのない「自由」と「可能性」が、そこには物理的に無限に広がっているのだ。
「……ご先祖様。あなたの投資は、まだ終わってないよ」
リゲルは呟いた。
「これから僕たち人類は、この広大な宇宙すべてをフロンティアにできるんだ」
少年の黒い瞳に、新世界の光が反射する。
それは、かつてサトシの瞳に宿っていた理知の光と同じでありながら、より強く、より遠くを見据える輝きだった。
リゲルは前を向いた。
回廊の先には、アランとリアが待っている。
新しい仲間。新しい課題。そして、新しい冒険。
サトシが始めた物語は、一人の成功譚として終わることはない。
それは「終わることのない開拓の歴史」として、次世代の手によって、遥かなる星の海へと漕ぎ出していったのである。
【完】
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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本編はここで終わりますが、明日からはもしサトシが違う選択を選んでいたら?
というIFストーリを七日間連載します!
もしよかったらそちらも見ていってください。




