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1500万円で異世界を買い叩く 〜ブラック企業で貯めた金で【銀行】を作り、【産業革命】を起こして魔法世界を経済支配する〜  作者: 高山 虎
最終章 最期の貸借対照表編

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第67話 地球へのログアウト――紫煙の彼方に消えた亡霊

 有人ロケット「レヴィアス」が、雲海を突き抜け、蒼き月への軌道に乗ったことを見届けた数日後。サトシは自室にあるデスクの最も深い引き出しから、一台の端末を取り出した。


それは、彼をこの世界に誘った原因といえるタブレット端末だった。バッテリーは当初と変わらず謎のエネルギーによって維持されているが、その汚れからしばらく使用されていないことがうかがえる。

 

この端末は彼が地球と繋がることができる唯一の楔であり、次元の壁を越える唯一の鍵でもあった。


「さて、行くか」


 サトシは広い室内で一人、静かに呟いた。


 今の彼には、あのブラック企業時代を過ごした世界を、最後にもう一度だけ見届ける権利があるように思えた。いや、それは権利というよりも、自分の中で決着をつけるための儀式に近い感覚なのだろう。


 端末を起動、操作し、久しぶりに見るログアウトボタンをタップする。もはや慣れた、視界が歪み世界が裏返るような感覚。次の瞬間、彼は港湾都市に建つ自宅から、排気ガスと湿ったアスファルトの匂いがする場所へと転移していた。


 ◇


 目の前に広がるのは、変わり果てたかつての戦場。現代、日本。サトシが降り立ったのは、北関東の地方都市だった。


 季節は初夏。日本特有の湿度の高い空気が肌にまとわりつき、じわりと汗が滲み出る。異世界のカラッとした気候に慣れきった体には、このねっとりとした不快指数がかつての憂鬱な日々を強烈に思い出させる。


 サトシは記憶を頼りに足を進めた。目指すのは、かつて自分が住んでいた北関東のワンルームマンションだ。


「……あそこで俺は、毎晩天井のシミを数えていたんだったな」


 サトシの脳裏に、当時の記憶が蘇る。

 明日は会社に行きたくない。どうやってバックレようか。あのパワハラ上司をどうやって社会的に抹殺してやろうか……そんな陰湿で、救いのない計画を練りながら、深夜まで残業してボロボロになって帰ってきていた、ただ寝るだけのあの無機質な箱のような部屋。


 だが。サトシがその角を曲がった時、彼の足は止まった。


「……ない」


 そこにあるはずの煤けたマンションは、もうどこにもなかった。マンションの跡地は、美しく整備された広々とした公園へと姿を変えていたのだ。


「きゃははは! 待てよー!」


 真新しくカラフルな遊具の周りでは、子供たちが歓声を上げて走り回っている。かつてサトシを縛り付け、心を摩耗させていたあの狭いワンルームも、部屋に充満していた澱んだ殺意の記憶も、すべては都市開発の波に塗り潰され、浄化されていたのだ。


 サトシは駅前へと向かった。かつて彼が勤めていたブラック企業が入っていたビル。終電を逃し、デスクの下で仮眠を取り、朝が来ることが恐怖でしかなかった戦場。


 しかし、そこもまた、変わり果てていた。薄汚れたビルは取り壊され、洗練されたシティホテルが建っていた。エントランスからは観光客であろう外国人が笑顔で出入りしている。


 かつての怒号や罵声が響いていた空間は、安らぎと旅の喜びに満ちた場所へと上書きされていた。


 ◇


 そうしてサトシは、マンション跡地である公園に戻り、木漏れ日が揺れるベンチに腰を下ろした。背広を着たサラリーマンが目の前を通り過ぎていくが、彼らの目に、この老投資家の姿は映っていないようだった。


 サトシはこの世界の郊外に隠居用として一軒の邸宅を所有している。いまでは年に数回、極秘の代理人を通じて法人の資金管理をリモートで行うだけであった。諸経費はすべて莫大な資産から自動で引き落とされている。


 隣人と顔を合わせることもなく、公的な書類上では生存していても、実態としては誰もその正体を知らない。生きているが、社会的には死んでいる。


 そんなゴーストライクな生活基盤を、彼はあちらの世界での活動を支えるバックアップとして完璧に構築していた。


 彼はもはやこの世界にとって完全に「過去の亡霊」となっていた。


 サトシは、異世界でも己を支え続けてくれた愛用のシガリロをポケットから取り出した。そして、使い慣れたマッチの箱を取り出す。


 ブラック企業時代、時間も、労働力も、心も、すべてを会社に搾取されていた彼にとって、吸い込んだシガリロの煙だけが、誰にも奪われることのない唯一の自分の領域だった。


 マッチを擦り、炎を灯し、煙を燻らすその数分間。その結界の中だけは自分の世界、魂の核だけは決して渡さないというサトシの最後の矜持であり、孤独な防御策だったのだ。


 サトシはマッチを一本取り出し、箱の側面に当てた。だが、彼はそれを擦らなかった。


 子供たちの笑い声が聞こえる。風が木の葉を揺らす音が聞こえる。そして、自分を待つ、異世界の家族の顔を思い浮かべる。


「……これはもう、いらないな」


 奪われないように必死に守る必要など、もうないのだ。

 

 今の彼には、異世界という広大な大地がある。彼を必要とし、彼が愛する人々がいる。煙で結界を作らなくても、彼はもう、誰にも脅かされることはない。


 結局、火を点けることのなかったシガリロを、手つかずのマッチ箱と共にベンチのすぐ横にあるゴミ箱へ迷いなく捨てた。カラン、と乾いた音がして、彼の過去との因縁は完全に断ち切られた。


 ◇


 サトシは立ち上がり、再びタブレットを取り出した。画面には、シンプルな異世界へのログインボタンが表示されている。


 そして彼は、もう一台、異世界の魔導技術で作られた通信端末を取り出した。その画面には、あちらの世界で受け取ったまま未開封のメッセージが映し出されている。


『管制室:有人宇宙船レヴィアス、軌道修正完了。帰還予定に変更なし』

『カイル:旦那、来週の理事会には参加できそうか?』

『エレナ:今日の夕食は共にできそうです。なにがいいですか?』


 サトシの表情が、自然と緩んだ。こちらにあるのは、消え去った過去の残滓と、自分を知らない他人だけ。だが、あちらには自分を信じ、共にシステムを作り上げた仲間たちがいる。


 そして、自分が蒔いた「合理性」という種を育て、未来へと繋ごうとしている、数えきれないほどの人々がいる。


「やっぱり俺の居場所は、向こうの世界なんだろうな」


 サトシは晴れやかな顔で、タブレットをタップした。音もなく光が彼を包み込む。


 公園のベンチから、一人の老人が忽然と姿を消した。


 だが、それに気づく者は誰もいなかった。風が吹き抜け、ゴミ箱の中で一本のシガリロとマッチ箱が転がっただけだ。


「……ただいま」


 目を開けると、そこは港湾都市の自室だった。窓の外には、蒸気機関車の汽笛と、人々の活気ある声が響いている。


「おかえりなさいませ、サトシ様」


 扉が開き、エレナが入ってきた。


「少し、長い休憩でしたわね」


「ああ。ちょっと、忘れ物を整理してたんだ」


 サトシは微笑み、タブレットを机の引き出しにしまい込み、鍵をかけた。もう二度と、これを開くことはないだろう。


 サトシの物語は、ここで一つの円環を閉じる。過去を捨て、未来を選び取った彼は、愛する妻と共に、新しい歴史が刻まれる食卓へと向かった。


 窓の外では、一番星が、月へ向かう船を導くように輝いていた。

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