空を切り裂く魔女と、スピンオフ
サトシが人生の最終局面において、己の莫大な個人資産を全額ベットして挑む最後の投資先。
それは、いまだ人類が誰も到達したことのない絶対の未踏領域であり、どの王侯貴族も所有権を主張できない究極のフロンティア――「宇宙」であった。
サトシの私財から惜しみなく投じられる天文学的な開発予算により、彼の私設研究施設では、日々「技術的特異点」と呼ぶべき凄まじいブレイクスルーが連発されていた。
重力という絶対的な鎖を引きちぎるための「極限の軽量化技術」。複数の金属を分子レベルで融合させ、羽のように軽く鋼のように硬い新合金が生み出された。
自重を上回る推進力を生み出すための「推力重量比の追求」と「内燃機関の開発」。魔法と化学燃料を掛け合わせ、マイクロ秒単位で爆発を制御する技術も確立されつつあった。
そして、大気圏突破時の空気抵抗を極限まで減らす「流体力学による安定性の向上」と、想像を絶する燃焼温度や圧力に耐えうる「高温高圧対応型の魔導冷却技術」。
サトシの目的はただ一つ、月へ至るための「ロケット」を作ることだ。
だが、技術というものは、開発者の意図を超えて無限の可能性へと派生していく、実に業の深い生き物である。そこに目をつけた「技術狂」が一人、サージョ学術ギルドの奥深くに潜んでいた。
◇
「……ふふっ。あははははっ! なるほど、なるほどね! サトシ様は上しか見てないみたいだけど、これ、横に向けたらとんでもないことになるじゃないの!」
学術ギルドの最奥、レポートが散らばり足の踏み場もないほど散らかった研究室で、ギルド代表のアリスは血走った目で歓喜の声を上げていた。彼女のボサボサの髪には煤と機械油がこびりつき、白衣のポケットにはスパナや計算尺が詰め込まれている。
彼女はサトシの「宇宙開発プロジェクト」の直接のメンバーではなかった。しかし、サトシの私設研究所から次々と特許庁(サージョ法務部管轄)に提出される特許申請書や、分厚い技術仕様書を、学術ギルド代表の特権を利用して舐め回すように読み解いていたのだ。
「超軽量の新合金で骨組みを作り、流体力学に基づいた流線型のボディで覆う。そこに、この『ハイブリッド・マギ・ドライブ』を横向きに搭載して、主翼で揚力を生み出せば……飛ぶ! 鳥や気球なんかじゃない、数百トンの鉄の塊が、空を飛べるわ!!」
アリスの脳内には、すでに明確な青写真が引かれていた。
それは、サトシが以前語っていた「プロペラを回して飛ぶ機械」のような、牧歌的なシロモノではない。ロケットの凄まじい推進技術をそのまま大気圏内に転用した、化け物のような速度で空を突き抜ける「ジェット機」の設計図であった。
(プロペラ機なんて、すぐに音速の壁にぶち当たって限界が来るわ。なら、最初からこのロケットエンジンを積んでしまえばいい!)
アリスは狂喜乱舞しながら三日三晩徹夜で設計図を書き上げると、そのまま開催中であったサージョ理事会へと殴り込みをかけることとなった。
◇
「――というわけで! この『航空機』の開発許可と、サトシ様のロケット特許の無償利用権、ならびに初期開発予算を要求するわ!」
サージョ理事会の円卓に、ドンッ! と分厚い設計図の束を叩きつけ、アリスは熱弁を振るっていた。目の下に真っ黒なクマを作り、狂気に満ちた目をギラギラと輝かせる彼女の姿に、エリックやカレンたち若手理事は完全に気圧されていた。
「あ、アリス。空を飛ぶだけなら、すでに魔導気球が……」
「馬鹿を言わないで、エリック! 気球なんて風任せのポンコツで浮遊してるに過ぎないわ! この図面に書かれているのは、王都からオース帝国の首都まで、数時間で到達する『空の輸送網』よ! 鉄道が平面の血管なら、これは空間の血管! 大陸の物流と軍事の常識が、根底からひっくり返るわ!」
「数時間……!? 馬車で数ヶ月、鉄道でも数日かかる距離をですか!?」
「ええ! なにせサトシ様のロケット技術を流用するんだもの。面倒なプロペラの開発なんか全部すっ飛ばして、最初から音速の壁をぶち破るジェットエンジンを積むわよ!」
唾を飛ばして熱弁するアリス。その突飛すぎる提案に、理事室は騒然となった。だが、部屋の隅でオブザーバーとして座っていたサトシだけは、腹を抱えて笑っていた。
「くっ、ははははっ! まさか、プロペラ機を飛ばして、いきなりジェット機をプレゼンしてくるとはな。……俺がロケットのために湯水のように使った開発費が、こうして別のインフラ技術として還元される。投資家として、これほど美味しいスピンオフはない」
ひとしきり笑った後。
サトシはスッと真顔になり、部屋の隅の椅子からアリスを真っ直ぐに射抜くような鋭い視線を向けた。
「……できるんだな?」
その短く冷徹な問いは、一切の妥協を許さない『最高経営責任者』としての、かつての声そのものだった。対するアリスも、先ほどまでの熱狂をスッと胸の奥に収め、不敵な、そして真剣な笑みを浮かべて言い放つ。
「ええ、この私が言ってるのよ? 当たり前でしょ」
その絶対的な自信に満ちた返答を聞き、サトシは満足げに深く頷いた。そして、エレナたち理事に向かって静かに告げる。
「アリスの言う通りだ。技術的な基礎はすでに俺の研究所でできている。オブザーバーとしての意見だが、彼女に予算を出してやってほしい。空の覇権を握るメリットは、計り知れないぞ」
サトシの強力な後押しもあり、アリスの「航空機開発プロジェクト」は、学術ギルドの総力を挙げた一大事業として正式に承認されたのだった。
◇
それから数年。
王都から遠く離れた荒野に建設された巨大な試験施設では、今や二つの狂気が隣り合わせで火花を散らしていた。
一方は、天に向かって垂直にそびえ立つ、サトシの宇宙開発プロジェクトの象徴――「大型ロケット実験機」。もう一方は、長く伸びた滑走路の端で、地を這う猛禽類のように低く構える、アリスの学術ギルドが誇る――「試作型ジェット航空機」。
「燃焼圧、規定値到達! 魔導タービン、異常なし! 推力安定しています!」
「よし! サトシ様のロケットチームより先に、こっちのエンジンを吹かせ! 向こうの鼓膜を破るくらいの爆音を鳴らしてやりなさい!」
管制塔でマイクを握りしめるアリスは、もはや完全にブレーキの壊れた技術狂の顔をしていた。
サトシの目的は「月面到達」であり、アリスの目的は「大陸間の空路開拓」である。目指す場所は「上」と「横」で全く違うはずなのだが、同じ敷地で、同じ基礎技術を使い、同じ莫大な予算を食い潰しながら開発を進めているうちに、二つのチームの間には強烈なライバル意識が芽生えていたのだ。
ズゴォォォォォンッ!!
アリスの号令と共に、試作ジェット機の後方から青白い魔力炎が噴き出し、周囲の空気を震わせる凄まじい爆音が荒野に響き渡った。
滑走路を猛スピードで滑走する機体を見つめながら、アリスはニヤリと好戦的な笑みを浮かべる。
「上等じゃない、サトシ様。あなたが私費を投じて切り拓いた技術だけど、それを誰よりも美しく、効率的に空へ適応させてみせるわ」
彼女の視線の先、猛烈なスピードに乗った試作ジェット機が、ふわりと前輪を浮かせ、大地から切り離される。
「ロケットが先か、航空機が先か。……人類初の『有人飛行』の栄誉は、絶対に私が頂くわよ!!」
アリスの絶叫が、ジェットエンジンの轟音と共に大空へと吸い込まれていく。
サトシが蒔いた「宇宙」という名の途方もない夢の種は、技術者たちの狂気と情熱を養分にして、大陸の空を切り裂く新たな翼へと見事にスピンオフを遂げていた。
この世界における近代化の波は、ついに大地を離れ、無限の蒼穹へとその領域を広げようとしていたのである。




