第64話 プロジェクト・スカイウォーカー
サージョ・ホールディングスの全権を理事会に譲渡し、表舞台から姿を消したサトシ。
世間は「大陸を近代化した英雄もついに悠々自適な隠居生活に入ったか」と噂し、彼の名は徐々に歴史の教科書の中へと移りつつあった。
だが、真実は違った。
第一線を退いたサトシが、その余生の全てと莫大な個人資産を投じて開始したのは、誰もが「ボケたのではないか」「ついにとち狂ったか」と疑うような、途方もない挑戦だったのだ。
彼の視線の先にあるのは大地ではない。異世界の夜空に静謐に浮かぶこの世界における月――「蒼き巨星」であった。
「間違いない。あの月のスペクトル反応は、新大陸の地下深くにある魔力溜まりと同じ……いや、それ以上の純度を示している」
サトシが出資し、あらゆる分野の研究を加速させている学術ギルド。そこで用いられた最新の観測機器とサトシが育てた天文観測チームは、驚くべきデータを弾き出していた。
あの静かな光を放つ天体の地表には、この世界においてエネルギー革命を起こしうる膨大な量の超高純度魔力資源が手つかずのままで眠っている。
サトシはそれを単なる天体として眺めるだけで済ませるつもりはなかった。彼は本気で、あの月へ手を伸ばそうとしていたのだ。
◇
王都から遠く離れた荒野の一角。
かつては草木も生えぬ不毛の大地だった場所に、巨大な実験施設が出現していた。
仮称「第零区」。
そこに集められたのは、大陸中から選抜された、次世代を担う若き数学者、物理学者、錬金術師、そして空への憧れを捨てきれない変わり者の技術者たちだった。
「いいか、よく聞いてほしい。これまでの君たちは、測量技術や建築学を通じて『地面』の測り方は知っている。だが、これからは『空』の測り方を覚えていかなければならない」
白板の前に立ったサトシは、目を輝かせる若者たちに熱弁を振るっていた。彼が手にしているのは現代地球から持ち込んだ物理学、天文学、航空力学、そして宇宙科学の知識をこの世界の言語に翻訳したテキストだ。
「空を飛ぶ、というと君たちは飛行魔法を思い浮かべるだろう。だが、それは選ばれた個人の才能に依存した奇跡に過ぎない。しかし、我々が求めるのは奇跡ではない。そして使うことができるのは知恵と計算だけだ」
サトシはチョークを走らせ、数式を書いた。ツィオルコフスキーの公式――ロケット方程式だ。
「質量、推力、空気抵抗、重力……これらを計算し、制御すれば、魔力を持たない人間でも、あの雲の向こう側へ到達できる。これは数式と力学によって導かれる、論理的なステップにすぎない」
若者たちは息を呑んだ。魔法使いだけが許された空の領域を、数式で征服する。それは、彼らにとって魔法以上に刺激的な「新しい魔法」だった。
サトシは彼らに、重力の井戸を抜け出すための脱出速度を教え、大気の層を一枚ずつ剥がすように解説していった。
◇
開発チームが挑んだのは、現代のロケット工学とこの世界の魔法技術を融合させた、前代未聞の新機軸推進装置だった。
実験場の中央には、開発中のエンジンの残骸が転がっている。
「酸化剤と燃料による化学ロケット、それだけでは推力が足りんし、重すぎる。どうする?」
サトシは、若きチーフエンジニアとともに図面を睨む。チーフエンジニアは事前に仲間たちと検討したアイディアをその場で図面に書き加えた。
「そこで、燃焼室に『爆裂魔法』の術式を多重展開する魔導具を設置することにしました。化学反応の爆発力を、魔法的な増幅で数十倍に跳ね上げる『ハイブリッド・マギ・ドライブ』です」
理論上は完璧なはずだ。だが、現実は厳しい。空を飛ぶには純粋な工学で重力をねじ伏せるしかないのだ。
「サトシ様、また燃焼室が融解しました! 通常の鉄鋼では爆裂魔法の熱量に耐えられません!」
研究員が、黒焦げになった金属片を持って走り寄ってくる。
「耐熱性を上げるには特殊合金の新造から始める必要がありそうですね。ですが……」
言葉を濁し、悔しそうに唇を噛んだ。
「……ですが、その計算上この熱に耐えられる金属の配合比率を実現するにはコストがかかり過ぎます。実験機一基で、城が一つ建つほどです。これでは、とても採算が……」
周囲の技術者たちも沈痛な面持ちで頷く。技術的な壁よりも先に、経済的な壁が立ちはだかっていた。
だが、サトシは即座に言い放った。
「コストは気にしなくていい!」
「え……?」
研究員たちが顔を上げる。
「今は採算などどうでもいい! 城が建つ? 結構だ、建ててやろうじゃないか。安く作るのは、技術が確立してからの話だ。まずは『飛べる』ことを証明するのが先決だ!」
そこには、かつての「合理的な経営者」の顔はない。未知のパズルに挑む、一人の少年の顔があった。
◇
「……旦那、本気かよ」
轟音と共に白煙を上げ、試験機がわずか数秒で爆発四散する様を見上げながら、カイルが呆れたように呟いた。彼はサトシの依頼で、この実験場の警備と将来的に建設される宇宙港の警備計画を練っていた。
「鉄道を大陸に敷き詰めるだけじゃ飽き足らず、今度は空に『レール』を引くつもりか? そんな高いところに線路なんざ敷けねえぞ」
「ああ、カイル。だがな、見えないレールはあるんだよ。重力と軌道という名のな」
サトシは油汚れがついた顔で笑った。
「周囲の連中は言ってるぜ。『サトシ様はご乱心だ』『金が余って使い道がないから、空に捨ててる』ってな。……正直、俺も半分くらいはそう思ってる」
カイルは苦笑いしながらも、背後の警備隊員たちに指示を出し周囲の警戒を強めていた。彼がここに精鋭を回しているのは、サトシの夢を守るためだ。
「カイル。これは道楽じゃない。そして、支配のための投資でもない」
サトシは真剣な眼差しをカイルに向けた。
「この星の資源は有限だ。魔石もいつかは枯渇し奪い合いが始まる。……だが、外には無限がある。この大陸の人間が、自分たちの世界を外側から見て、新しい資源を手に入れる。これは人類が生き残るための、歴史的な『必要経費』だと俺は考えているよ」
「スケールがデカすぎて目眩がするぜ。ま、旦那が言うなら、その『外側』とやらも実在するんだろうな」
だが、理想だけでロケットは飛ばない。必要なのは、莫大な、天文学的な資金だ。
毎日のように繰り返される爆発実験。
吹き飛ぶのは機体だけではない。国家予算規模の資金が、煙となって消えていく。
「サトシ様。……開発費が、想定の五倍に達しています」
実験場のプレハブ小屋にやってきたエレナは、厳しい表情で帳簿を広げた。
「理事会からも強い懸念の声が上がっています。『確実なリターンの見込めない事業に出資は容認できない』と。……エリックなどは、『親父の夢は応援したいが、会社の数字は別だ』と胃を痛めていましたわ」
サージョは今や、サトシ一人の独裁企業ではない。合理的な経営判断を下す理事会にとって、成功率数パーセントの宇宙開発など、狂気の沙汰でしかなかった。
「市井では『引退して道楽に狂った』『不可能な事業に莫大な資産を浪費している』と噂になっています。サトシ様、計画の見直しを検討すべきでは?」
エレナの忠告は、妻として、そして法の番人としての理知的な判断だった。だが、サトシはかつての投資家の顔で、静かに、しかし力強く首を振った。
「好きに言わせておけばいい。それにエレナ、誰が資金を会社から出すなんて言ったんだ?」
サトシは懐から、一冊の通帳と権利書の束を取り出した。それは、彼がこの数十年で築き上げた個人資産のすべて――サージョ株の配当、特許権料、不動産――そのほぼ全額だった。
「これは俺個人の負債であり、俺個人の投資だ。理事会に文句を言われる筋合いはない」
「サトシ様、ですがそれでは貴方の個人資産が……」
「かまわん」
サトシは笑った。
「エレナ、俺たちには使いきれないほどの金がある。それを墓場まで持って行ってどうする? 死ぬまでの安泰なんて、あまりにも退屈すぎるじゃないか」
サトシは窓の外、実験場に立つ巨大な発射台を見つめた。
「いいか、エレナ。短期的な利益を追うのは、エリックたち理事会に任せればいい。あいつらは優秀だ、今のサージョを守ってくれるだろう。だが、誰かが『バカ』にならなきゃ、未来は拓けない」
合理性という名の鎖に縛られていた男の顔はそこにはない。今の彼の瞳に宿っているのは、採算や効率といった既存の物差しを焼き尽くすほどの、純粋で、凶暴なまでの好奇心だった。
「誰もが『不可能』と呼び、『無駄』だと切り捨てる未来を、具体的な『計画』に変える。それこそが、引退した俺に残された最後の役割だ」
エレナはしばらくサトシの顔を見つめていたが、やがて深くため息をつき、そして愛おしそうに微笑んだ。
「……貴方は、本当に強欲な投資家ですわね。大陸だけでは飽き足らず、月まで手に入れようとするなんて。分かりました、私の個人資産も好きに使ってくださいな。老後の心配など、私たちには無用ですもの」
「ああ。最高のリターンを狙うなら、ブルーオーシャンどころか、ブルー・スペースを目指さないとな」
◇
それから数年。「プロジェクト・スカイウォーカー」は、苦難の連続だった。
燃焼試験での爆発は数知れず。機体は空中で分解し、制御魔法は暴走し、テストパイロット代わりの人形は何度も木っ端微塵になった。
「まだだ! 計算をやり直せ! 失敗のデータこそが宝だ!」
サトシは諦めなかった。老いた体に鞭を打ち、現場に立ち続けた。あの空の向こう、この世界の未来を信じて。
今日もまた、荒野に爆発音が響く。だが、その煙の向こうで、サトシと若き技術者たちは、煤だらけの顔で笑い合っていた。
一歩ずつ、確実に。彼らは「空の測り方」を学び、重力の鎖を断ち切るための答えに近づいていた。
サトシの「投資」は、まだ回収されていない。だが、その瞳に映る蒼き月は、以前よりもずっと近く、そして鮮明に輝いていた。
人類がその足で月面を踏む日は、まだ遠い。しかし、そのための「はしご」は、確実に組み上がりつつあった。




