九人の円卓と受け継がれる設計図
サトシが、巨大企業群サージョ・グループの最高経営責任者という第一線から退いた。それは、一人の異邦人による強烈なトップダウンから、強固なシステムとしての集団指導体制への歴史的な移行を意味していた。
サージョ本社ビル、最上階。
かつてサトシが秒刻みで決断を下していたその部屋は、今や重厚なマホガニーの円卓が置かれた会議室へと改装されていた。
議長席に座るのは、サトシの意志と合理性を誰よりも深く理解する妻、エレナ。流れるような美しい銀髪をきっちりとまとめ上げ、透徹した知性を宿した彼女の存在が、この巨大な組織が法と契約から逸脱しないための絶対の楔となっていた。
その右腕として控えるのは、グループ全体の武力と警備網を統括し、物流の安全を担保するカイル。白髪混じりながら、老いてなお衰えぬ歴戦の覇気が漂っている。
そして、経済の要を担う者たち。
かつてサトシの盟友であり、既に世を去った大商人グスタフ。その莫大な遺産と、商売への冷徹なまでの嗅覚を受け継いだ若き総帥、ハンス。
汗と泥にまみれた現場の保線作業員からトップへと叩き上げられた、不屈の鉄道部門統括、マルクス。
いまや大陸の心臓たるサージョ・ルピの供給を握る銀行部門統括、クロード。
海を越え、世界中の物資を運び続ける海運事業部門統括、レオン。
さらに、サトシが莫大な私財を投じて育て上げた学術ギルドの代表であり、魔法と科学の融合を推し進める天才研究者、アリス。
大陸の命運を左右するこの七人の怪物たちに交じり、円卓の末席には、いまだ二十歳にも満たない二人の若者の姿があった。サトシとエレナの間に生まれ、厳しくも愛情深く育てられた長男エリックと、長女カレンである。
エリックは父親譲りの黒髪と理知的な瞳を持ち、すでに経済学と法学の博士課程を修了した秀才だ。カレンは母親譲りの輝くような銀髪と凜とした美貌を持ち、直感的な人心掌握術と交渉事に長けている。
二人は間違いなく優秀であった。しかし、他の理事たちに比べれば、まだ「温室育ちの若輩」であることは否めない。それでも彼らがこの場にいるのは、将来のサージョを背負って立つ「代表候補」としての帝王学を叩き込むためであった。
そして――。
円卓から少し離れた、部屋の片隅。そこにポツンと置かれた革張りの椅子に深く腰掛け、腕を組んで会議の成り行きを静かに観覧している男がいた。前代表であるサトシである。
彼は一切口を挟むことなく、ただ目の前で稼働し始めた「新しいシステム」をオブザーバーとして見守っていた。
◇
「――以上が、今期の連結業績です。全会一致で承認といたします」
エレナの涼やかな声が、円卓に響いた。彼女の司会進行は無駄がなく、流れるように今後の事業拡大予定や予算配分が決定されていく。
エリックとカレンは、桁外れの数字が飛び交う会議のスピードに食らいつくため、必死に手元の資料とメモに目を走らせていた。
「順調な業績報告はここまでとしましょう。ここからは、現在グループが直面している『二つの課題』について協議します」
エレナは表情を引き締め、手元の資料を切り替えた。
「一つ目は、鉄道網の過剰拡張による弊害です。細かい地方路線が増えすぎた結果、ハブ駅での貨物の渋滞が慢性化、全体の運行効率と利益率が落ち始めています。二つ目は、神殿の社会福祉施設において、一部末端職員による支援物資の横領や、不適切な資金運用といった不祥事が発生している件です」
エレナはそこで言葉を区切り、円卓の末席に座る我が子たちを真っ直ぐに見据えた。
「さて、エリック、カレン。あなたたちなら、この課題にどう対処しますか? 意見を聞かせて」
突然の指名に、二人の肩がビクッと跳ねた。大陸最高の頭脳たちの視線が一斉に彼らに注がれる。その重圧は計り知れない。部屋の隅にいる父の存在も、その緊張感に拍車をかけていた。
エリックは小さく咳払いをして、慎重に口を開いた。
「……鉄道の件ですが、数字を見る限り、一部の地方路線は完全に赤字です。経済合理性に従い、不採算路線は廃線とし、全体の運行システムをスリム化すべきだと考えます」
続いて、カレンが背筋を伸ばして答えた。
「福祉施設の不祥事については、監査の頻度を増やし、監視の目を光らせるべきです。不正を働いた者には規則に則り、厳罰を下すことで見せしめとするのが最も効果的ではないでしょうか」
二人の回答は、大学のテストであれば、合格といえるだろう。教科書通りの当たり障りのない正論であった。
しかし、理事たちの顔には、満足のいく色は浮かんでいなかった。エレナは静かにため息をつき、他の理事たちに視線を向けた。
「……では、皆さんはどう考えますか?」
最初に口を開いたのは、鉄道部門統括のマルクスだった。彼は分厚い手を組み、エリックに向かって言った。
「数字だけ見て赤字路線を切り捨てるのは簡単だ。だが、その路線の先には、ウチの肥料を買い、麦を育てる農家がいる。路線を切れば彼らは死に、巡り巡って食糧価格にはね返ってくる。単純な廃線には反対だ。細い路線は馬車網に切り替えて集荷所にし、幹線鉄道の大きなハブに集約、『ハブ&スポーク方式』への転換を図る。物流のすべてを自前で抱え込むのはやめ、各地の馬車ギルドに下請けに出して共存する時期が来たってことさ」
エリックがハッと息を呑む。現場を知り尽くした男の経済圏全体を見る目に圧倒されたのだ。次に、銀行部門統括のクロードが神経質そうに眼鏡の位置を直し、カレンを見た。
「監査を厳しくし、罰則を強化する。……それは不正の手口がより巧妙になり、隠蔽体質が悪化するだけです。彼らも馬鹿ではない。締め付ければ締め付けるほど、組織は腐敗します」
「では、どうすれば……?」
「インセンティブの設計を変えるのです。優良な運営を行っている施設に対し『特別ボーナス』を支給する仕組みを作りましょう。不正をして小銭を掠め取るより、真面目にやった方が得だとなれば、彼らは自発的に襟を正します。人は道徳ではなく、損得で動くのですから」
さらに、商務を統括するハンスがニヤリと笑って付け加えた。
「それに加えて、各施設の『運営評価ランキング』を新聞で市民に大々的に公開してしまえばいい。評判が落ちれば、個別の寄付も集まらなくなる。我々がわざわざ監視しなくても、市場原理と市民の厳しい目が勝手に監査してくれますよ。これなら監査コストはゼロだ」
「な……るほど……」
エリックとカレンは、完全に言葉を失っていた。彼らが提示した「切る」「罰する」という短絡的な正論に対し、理事たちは「生かす」「誘導する」「システムで解決する」という、より高度で、よりサージョらしい解決策を瞬時に叩き出してみせたのだ。
自分たちの浅はかさと、経験不足を痛感し、二人は恥ずかしさで俯いた。
「エリック、カレン。顔を上げなさい」
エレナの凛とした声が、二人を打ち据えた。
「あなたたちの回答は、決して間違ってはいません。ですが、それはただの『優等生の模範解答』にすぎません。サージョに求められるのは、教科書の暗記ではなく、人間の泥臭い感情や、現場の血の通った現実を深く理解した上での、生きた決断なのです」
エレナは微笑み、円卓を囲む頼もしい仲間たちを見渡した。
「あなたたちはまだ若く、経験が足りない。それは当然のことです。だからこそ、間違えることを恐れて当たり障りのない回答でお茶を濁すのはやめなさい。これからは、自分の頭で必死に考えた泥臭い『生の声』をこの場にぶつければいい」
エレナの言葉に、マルクスやカイルたちが「そうだそうだ」「いつでも受けて立ってやるぜ」と笑いながら大きく頷く。
「あなたたちがどれほど未熟な意見をぶつけようと、ここにはそれを叩き直し、磨き上げ、現実のシステムに落とし込んでくれる、大陸最高の先達たちがいるのですから」
母親の、そして議長としての力強い言葉に、エリックとカレンは弾かれたように顔を上げた。
二人の目から、先ほどのプレッシャーや迷いは消え去っていた。そこにあるのは、偉大な両親と、この怪物のような理事たちから全てを吸収し、いつか超えてやろうという若々しい野心だ。
「……はい! 次の議題、海運の関税問題について、試案があります。突飛な意見かもしれませんが、聞いていただけますか!」
「私にも、法務と学術ギルドを連携させた監査システムのアイデアがあります!」
「ちょっと待って、カレン。学術ギルドを巻き込むなら、こっちの動議を先に出させてもらうわよ」
二人の声を遮るように、円卓の一角から声が上がった。それまで面白そうに眺めていた学術ギルド代表のアリスが、分厚い設計図の束をテーブルの中央にドサリと置いたのだ。
「新型魔導船の開発許可と初期予算の承認申請よ。レオンの海運部門と連携して、従来の初期型蒸気船の積載量を三倍にしつつ、巡航速度を二割引き上げる魔力流体エンジンの実用化に目処が立ったわ」
その言葉に、海運統括のレオンが身を乗り出した。
「ほう、ついに形になったか! それが完成すれば、南西の未開拓大陸との海運ルートを完全に独占できるぞ」
「ええ。ただし、莫大な予算が必要になる。でも、エリックの言う関税問題をクリアにしつつ、この新型船を投入できれば、利益率は爆発的に跳ね上がるわ。……さあ議長。そろそろ、本気の協議を始めましょうか?」
エレナがふっと口角を上げる。
「相変わらず容赦のない予算請求ね、アリス。……いいでしょう。エリックの関税試案と合わせて、総合的に審議します」
若者たちの熱気と、百戦錬磨の大人たちの野心が交錯し、理事室の空気はさらに一段と高い熱を帯びていった。
◇
会議の様子を、部屋の片隅の椅子から見つめている男――サトシ。
彼は、目を細め、静かに笑みをこぼした。
「……見事な手綱さばきだ、エレナ」
サトシは心の中で呟いた。自分がいなくても、組織は完璧に機能している。いや、一人の天才の脳細胞にすべてを依存していたかつての危うい時代よりも、複数の強靭な頭脳がぶつかり合い、最適解を導き出す今のシステムの方が、組織としては遥かに強固で健全だ。
そして何より、未来を託すべき子供たちが、この絶対的な安全網の中で、確かな熱量を持って育とうとしている。
「これなら……もう、俺が口を挟む必要はどこにもないな」
サトシは最後にもう一度、頼もしい家族と仲間たちの姿を目に焼き付けた。
彼が設計し、情熱を注いで作り上げた強固な「インフラ」は、すでに彼という一個人の手を完全に離れていた。それは彼らが生きる新しい世界そのものとして、力強く、そして永続的に脈打ち始めていたのである。




