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1500万円で異世界を買い叩く 〜ブラック企業で貯めた金で【銀行】を作り、【産業革命】を起こして魔法世界を経済支配する〜  作者: 高山 虎
最終章 最期の貸借対照表編

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泥だらけの聖母と苦いコーヒー――福祉院長リリィの軌跡

 サージョ・神殿提携中央福祉院。


 かつて「神殿」と呼ばれ、荘厳な祈りの声が冷たい石壁に響いていたその巨大建築は、ここ数年で全く別の活気に満ち溢れた場所へと変貌を遂げていた。


「こらっ、トミー! 廊下を走らないの! お爺ちゃんたちとぶつかったらどうするの!」


「あははは! 捕まえてみなよ、リリィ先生!」


 泥だらけの靴で廊下を駆け抜けていく孤児たち。陽の当たる縁側で、日向ぼっこをしながら将棋のような盤上遊戯に興じ、茶をすする老人たち。


 ここはいまや、身寄りのない子供たちを育て、行き場のない老人たちを看取り、そして貧しい者たちを無料で診る総合社会福祉施設だ。


 その中庭で、エプロン姿で腰に手を当ててぷんぷん怒っている亜麻色の髪の女性――彼女こそが、この福祉院の院長であるリリィだった。


「もう……。洗濯したばっかりなのに、また泥だらけにして……」


 ため息をつくリリィの顔は、十五年前からあまり変わっていない、どこかぽやぽやとした愛らしいものだった。



 十五年前。

 リリィが神殿の門を叩き、聖職者になった理由は極めてシンプルかつ不純なものだった。


「たまたま、非常に希少で強力な治癒魔法の才能を持って生まれたから」である。


(魔法が使えるなら、神殿に入れば一生食いっぱぐれないし、肉体労働もしなくていいし、のんびり楽して生きていけるもんね)


 苦しむ人々を救いたいというような立派な志など微塵もなく、ただ安定と平穏を求めての選択だった。


 しかし、時代はサトシ・サージョという劇薬によって急激に変化し始めていた。神殿の役割は徐々に「魂の救済」から「公証役場」としての機能へとシフトしていった。魔法契約による公正な契約の番人。


 怪我人や病人は、サトシが設立した最新設備の整った病院へと流れていく。その結果、神殿の治療部門は閑古鳥が鳴くようになり、リリィは「ほとんど患者が来ない治療院の留守番」と「山のような事務書類の処理」という、二足のわらじを履かされる羽目になったのである。


(書類仕事なんて聞いてないんですけど!? でも、患者さんが来ないから一日中お茶飲んでられるし……まあ、いっか)


 そんなのらりくらりとした日々を、彼女はなんと十年以上も続けていた。


 もちろん、転機の誘いがなかったわけではない。いち早く還俗してサージョの近代病院へ移籍した同期の友人から、何度も誘いの声がかかっていたのだ。


『リリィも病院においでよ! 最新の医学と魔法を融合させて、命を救うの! 毎日目が回るほど忙しいけど、すっごくやりがいがあるわよ!』


 だが、その言葉を聞いた瞬間、リリィは心の中で全力の拒否反応を示し、首を横に振った。


(秒刻みのスケジュール!? 血まみれの手術室!? 絶対無理! 私は痛いのも怖いのも大嫌いだし、超激務なんてまっぴらごめんよ! 私はここで、一生ダラダラ生きていくの!)


 そう固く決意し、彼女は神殿の片隅に、貝のようによじ登り、しがみつき続けていた。


 しかし、運命はここ数年で思わぬ方向へ転がり始めた。徐々に権威を落としつつあった神殿が、サージョの莫大な資金援助のもと社会福祉施設へと改装・統合する計画を打ち出したのだ。


 孤児院と養老院の複合施設。

 そこで白羽の矢が立ったのが、十年間も神殿の治療部門に居座り続け、子供や老人の扱いに(無駄に)慣れていたリリィだったのである。


「……え? 私が院長? いやいやいや、無理です! 私、ただの治癒術師ですよ!?」


 抵抗虚しく、彼女は気付けば大勢の孤児と老人を抱える施設のトップに据えられていた。



 社会福祉施設としての新たな日々が始まると、そこは彼女が夢見ていたのんびりした生活とは程遠い戦場だった。


「院長ー! 給食のジャガイモが足りません!」


「トマスお爺ちゃんがまた腰を痛めました!」


「リリィ先生、おしっこ漏らしたー!」


 無限の体力を持つ孤児たちは朝から晩まで走り回り、喧嘩をし、泥だらけになり、風邪をひく。そのエネルギーに付き合うだけで、リリィの体力は毎日ゼロになる。


 それに加えて、施設の運営資金はすべてサージョからの補助金で賄われているため、定期的な監査と書類提出が必要だった。


 ただ、この補助金制度には、サトシならではの「清濁併せ呑む合理性」が隠されていた。


 かつて別世界でブラック企業の末端として働き、人間という生き物の醜さと弱さを知り尽くしていたサトシは、福祉のような「金にならないが社会に必要な事業」をガチガチの厳格なルールで縛り付ける愚を犯さなかった。


 現場を過度な清廉潔白さで締め付ければ、必ずどこかで無理が生じ、隠蔽が起こり、最終的に組織が崩壊する。だからこそサトシの構築した補助金システムは、末端の経営が円滑に回るよう、そして神殿の上層部が潤滑油として少しばかりポッケナイナイしても施設が十分に回るように、あらかじめ絶妙な余裕を持たせて額が設定されていたのだ。


 もちろん、それは無条件の甘やかしではない。「子供を飢えさせる」「老人を虐待する」といった最低限のラインを下回れば、即座にサージョの法務部が動き、容赦なく首が飛ぶ。


 甘くはないが、息が詰まるほど厳格でもない。その適度な遊びがあるおかげで、施設は常に潤沢な資金と食料に恵まれ、リリィも(事務書類の多さに文句を言いつつも)比較的自由に現場を切り盛りできていた。



 午後のおやつの時間が終わり、施設に穏やかな時間が流れる。リリィは書類の山を放り出し、中庭のベンチに座る老人の元へ向かった。


「トマスお爺ちゃん。今日は腰の調子、どうですか?」


「おお、リリィ先生。いやあ、今日は朝から少し、関節が痛んでのう」


「冷えますからねぇ。じゃあ、少し温めましょうか」


 リリィは老人の腰に、そっと両手を当てた。淡い、本当に淡い光が、彼女の手のひらから老人の身体へと染み込んでいく。


 同期が働く近代病院の第一線で使われるような、骨を繋ぎ合わせたり、血管を再生させたりするような、派手で強力な急性期用の治癒魔法ではない。それは、痛みを優しく和らげ、こわばった筋肉をほぐし、血流を促す「緩和ケア」に特化した、リリィ独自の魔法だった。


「おお……おお……。痛みが、すーっと消えていく……。先生の手は、まるで日向の陽だまりのようじゃ。ありがとう、本当にありがとう……」


 老人は気持ちよさそうに目を細め、リリィの手をシワだらけの手で拝むように握りしめた。


 またある日の夜。

 新しく施設に引き取られてきた、両親を事故で亡くしたばかりの幼い少女が、夜泣きをして眠れずにいた。


 リリィは少女をベッドで抱きしめ、背中をゆっくりとトントンと叩きながら、極めて微弱な治癒魔法を流し込んだ。過敏になった神経を落ち着かせ、トラウマという心の深い傷をゆっくりと包み込むための「精神的ケア」の魔法。


「大丈夫、大丈夫よ。あなたはもう、一人じゃないからね」


 リリィの魔法と体温に包まれ、少女はやがて安心したように寝息を立て始めた。


 最前線で「死」と秒刻みで戦うのが病院の魔法なら、リリィの独自魔法は「生きていくことの苦痛」に寄り添うためのものだった。


 完治することのない老いの痛み。消えることのない心の傷。それらを魔法で完全に取り去ることはできなくても、共に背負い、和らげ、明日を笑顔で生きるための活力に変えてあげること。


 激務の病院から「楽をしたい」と逃げ続け、十年間もダラダラと暇を潰していたぽやぽやとした元聖職者は、いつしか大陸全土の福祉関係者から「福祉の母」と仰がれる、全く別の権威へと上り詰めていたのである。



 夕暮れ時。

 子供たちが夕食を終えて遊び疲れ、老人たちもそれぞれの部屋へ戻った後。


 リリィは静まり返った中庭のベンチに腰を下ろした。エプロンには泥のシミがつき、ふんわりとしていたはずの髪は少しボサボサになっている。


 彼女はエプロンのポケットから、最近サージョが販売を始めた「缶コーヒー」を取り出し、カシュッと蓋を開けた。


 酷く苦い、泥水のような飲み物。だが、一日中子供の相手をし、上層部と予算の駆け引きをしてヘトヘトになった体には、この強烈な苦味とカフェインがたまらなく染み渡るのだ。


「ぷはぁっ……。苦っ。ほんと、ちっとも甘くないんだから」


 リリィは缶を揺らしながら、長く深いため息をついた。


 十五年前、一生お茶を飲んで楽をして生きていきたいと夢見ていた自分。病院の激務から逃げ回っていたはずなのに、気がつけば毎日泥だらけになって子供を追いかけ、予算書類と格闘し、お年寄りの腰をさすって一日が終わっている。


「……思い描いてた『のんびりした生活』とは、ずいぶん違っちゃったわね」


 だが、今日もお昼休みに、孤児のトミーが不格好なシロツメクサの冠を作って「リリィママにあげる!」と頭に乗せてくれた。トマスお爺ちゃんは「先生がいれば、わしはあと十年は生きられる」と笑ってくれた。


「でも……」


 リリィはベンチに背中を預け、オレンジ色に染まる夕焼け空を見上げた。


「これはこれで……すっごく、いい人生よね」


 空っぽのコーヒー缶を横に置き、彼女はそっと自分の頭に乗ったままのシロツメクサの冠に触れた。


 明日もまた、無限の体力を持つ子供たちと、一筋縄ではいかない予算管理が待っている。


 泥だらけの聖母の戦いに、終わりはない。だが彼女の顔には、かつて神殿で退屈そうにあくびをしていた頃には決して見られない、慈愛に満ちた誇り高い微笑みが浮かんでいた。

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