第61話 神殿勢力の再定義――聖なる領域と必要経費
かつて、「奇跡」とは神殿がもたらすものだった。
病や怪我をすれば高額な寄進をして神官の治癒魔法を受ける。それが唯一の生存手段であり、この世界における神殿の権威は、民の命を握ることで保たれていたといっていい。
だが、サトシが持ち込んだ「公衆衛生」と「予防医学」、そして「魔導具による医療革命」が、その前提を根底から覆してしまったのだ。
「……また一人、有望な若手が辞めていきました」
古びた大聖堂の奥深く。枢機卿たちの会議は、葬式のような空気に包まれていた。
「行き先は『サージョ医科大学』および『中央市民病院』だそうです。……神に仕える身でありながら、商人の作った施設に魂を売るとは!」
老司教が机を叩いて嘆くが、誰も反論できない。
現実は残酷だった。
サトシが普及させた上下水道の整備とワクチンの開発により、疫病の発生率は激減。さらに聖職者の独占状態であった治癒魔法の一部は、サージョ製の「簡易治癒魔導具」によって代替可能となった。
その結果、治療はいまだ高額といえる価格ではあるものの、街の診療所で以前に比べればはるかに安価に受けられるサービスへと変化していた。
若く優秀な治癒魔法の使い手たちは、古いしきたりと派閥争い、そして「地位と寄付額で命を選別する」神殿に見切りをつけ、最新の医学知識と適切な給与体系が用意されたサージョの施設へと流出し続けていた。
「ここでは、一日に三人の貴族を治すだけですが、医科大学では二十人の市民を救えるのです」
そう言い残して去った若き聖職者の背中が、時代の流れを象徴していた。
◇
「サトシ様、神殿の枢機卿団から連名で抗議文が届いています」
サージョ・グループ本社執務室。
エレナは一枚の書面をサトシのデスクに置いた。そこには、仰々しい封蝋と共に、悲痛な訴えが記されていた。
『貴殿の行いは神の領域を侵す暴挙である。医療とは神の奇跡であり、商売の道具ではない。直ちに病院を閉鎖し、信徒の心を惑わす行為をやめよ』
「……とのことですわ。どうなさいますか? 無視しても構わないレベルの言いがかりですが」
エレナの問いに、サトシは書類に目を通すこともなく、窓の外を見つめたまま答えた。
「彼らが守りたいのは神の教えじゃない。自分たちの『既得権益』だ。奇跡の価値が暴落して、贅沢な暮らしができなくなることに焦っているだけだろう」
「では、経済力で彼らを完全に干上がらせますか?」
「いや」
サトシは首を振った。
「神殿を敵に回して潰すのは『非効率』だ。腐っても宗教だ、信徒の数は馬鹿にならない。それに彼らを追い詰めすぎれば、最終的に地下に潜ってテロ組織になりかねない。……適度に飼いならす方が、最終的なコストは安上がりだ」
サトシは振り返り、ニヤリと笑った。
「潰す必要はない。彼らには新しい『役割』と、そこそこの『甘い汁』を用意してやればいい」
◇
数日後。サトシは枢機卿団を本社ビルに招いた。
豪華な会議室に通された高位聖職者たちは、当初、敵意と警戒心を露わにしていた。だが、サトシが提示した提案書の中身を見た瞬間、その表情は驚愕へと変わった。
「こ、これは……我々に『福祉』を担当しろと?」
「ええ、そうです」
サトシは穏やかに、しかし相手の逃げ道を塞ぐように語りかけた。
「みなさん。率直に申し上げますが、医療という分野において、神殿はもう我々の病院には勝てません。確かに神殿所属の一部の術者は非常に優秀な方もいますが、いかんせん数が足りません。我々に対抗するには泥沼の価格競争しかありません。そうなれば我々も神殿も不幸な結果になるだけです」
枢機卿の一人が顔を赤くして反論しようとしたが、サトシはそれを手で制し、さらに踏み込んだ。
「ですが、我々商人や医者にも、どうしても手の届かない場所があります」
サトシは枢機卿たちの目を順に見据えた。
「病気は薬で治せますが、貧困による絶望や、孤独、死への恐怖……心の闇。救済を求める魂に寄り添い、導くこと。……そこそが、神殿の旧来からの本質的役割、神の領域ではないでしょうか?」
その言葉は、プライドを傷つけられた彼らの自尊心を、絶妙にくすぐるものだった。
「神の領域……」
「確かに、心の救済こそ我らの本分……」
空気が変わったのを見計らい、サトシは畳み掛けた。
「医療行為は我々が担います。その代わりに、神殿には孤児院の運営や貧困層への炊き出し、高齢者の介護、そして初等教育を委託したい」
「委託……それではサージョの下請けではないか!」
「いいえ。『パートナー』です」
サトシは分厚い予算案を提示した。そこに記された金額は、現在神殿が集める寄付金の総額を優に超えていた。
「サージョはこれらに莫大な予算を配分します。神殿を、国境や派閥に縛られない非政府組織として認定し、最大限の資金援助を惜しみません」
枢機卿の一人が、金の匂いを嗅ぎつけた顔で尋ねた。
「しかし、それだけの予算を預かるとなると、管理も大変でしょうな。厳格な監査が入るとなると、我々のような歴史ある組織は動きにくいのですが……」
彼は遠回しに「俺たちの取り分はあるのか」と聞いていた。サトシは内心で冷笑しつつも、表面上はビジネスライクな笑みを浮かべ答える。
「もちろんです。我々も商人ですので、帳簿上の体裁は整えていただかなければなりません。領収書のない支出は困りますからね」
サトシは声を潜めた。
「ですが、組織の運営には、表に出せない『調整費』や、高位の方々の『活動経費』が必要なことも重々承知しております」
「ほほう……」
「我々が求めるのは結果だけです。孤児たちが飢えておらず、読み書きができているか。施設が清潔に保たれているか。提示する基準さえ満たしていただければ、予算の細かな内訳や余剰金の使い道についてまで、無粋な口出しはいたしません。もちろん限度はありますがね」
つまり、やるべきことさえやっていれば、多少の着服は黙認するという提案だ。
「清貧」を説く彼らにとって、これほど都合の良い話はない。公式には「福祉活動」という名誉を得られ、裏では「運営費」という名目で贅沢を続けられるのだから。
枢機卿たちは顔を見合わせ、安堵と欲望が入り混じった笑みを浮かべた。
「……なるほど、サージョ殿は話が分かる」
「迷える子羊を救うことこそ我らの本分。その支援、謹んでお受けしましょう」
それは、宗教が「権力」から「機能」へと生まれ変わり、同時にサージョの掌の上で飼い殺されることが決まった瞬間だった。
◇
それから一年後。
王都のスラム街に近い区画には、清潔で明るい建物が立ち並んでいた。掲げられている看板は「サージョ・神殿提携孤児院」。
かつては薄暗く、最低限の設備しか備わっていなかった教会の施設は、サージョの資金によって改装され、子供たちの笑い声が響く大規模孤児院へと変貌を遂げていた。
「旦那、神様を味方に引き入れるとは恐れ入ったぜ」
視察に訪れたカイルが、校庭で子供たちに読み書きを教えている聖職者の姿を見て、感心したように口笛を吹いた。
「見ろよ、あいつら。昔はふんぞり返ってた連中が、今じゃ熱心に働いてやがる」
「神殿の上層部にとって、今の生活は悪くないからな」
サトシは冷めた目で答えた。
「運営に大きな影響が出ない範囲での『甘い汁』は認めている。いまの彼らにとって一番怖いのは、神の罰じゃなく、サージョからの予算打ち切りだ。だから必死になって、末端の聖職者たちに真面目な活動を強要している」
「へっ、毒を食らわば皿までってか。……でも、エレナ嬢は怒ってなかったか? 『不正は許しません』って」
「エレナには『必要経費』だと説明してある」
サトシは肩をすくめた。
「彼らを完全にクリーンにしようとして監視を強めれば、反発を招いてコストがかさむ。多少の横領には目をつぶっても、彼らが自発的に社会のセーフティネットとして機能してくれるなら、トータルでは安上がりなんだよ」
事実、神殿の影響下にあったスラム街の治安は劇的に改善していた。行き場のない子供たちは学校へ行き、老人は施設で保護される。
サトシは神殿が持つ人々の信頼という無形資産と広大なネットワークを、金の力で丸ごと買い取ったのだ。
「神も仏も、食べていけなければただの偶像だ」
子供たちに配給される温かい給食を見ながら呟いた。
「だが、役割と餌を与えれば、社会にとって強力な『安定装置』になる。……これで、大陸の精神的な不安要素も一つ片付いたな」
サトシは、神殿の尖塔を見上げた。
そこにあるのは、もはや人々を支配し搾取する権威の象徴ではない。巨大な社会システムの一部として、人々の心の穴を埋め、社会の澱を浄化する都合の良い「装置」としての十字架だった。
宗教を否定せず、暴走させず、そこそこの利益を与えて飼い慣らす。
この冷徹で合理的な「共同経営」によって、サトシの統治構造は、物理と精神の両面において、隙のない完成形へと近づいていた。




