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春子と不思議な物語シリーズ  作者: 独蛇夏子
春子、四年生秋~五年生の春。そして中学生、高校生。
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29/29

28 春はすぐそこ

ブログ掲載日*二〇一四年三月二日(http://ameblo.jp/midorimushi-show-bow/entry-11785598347.html/http://ameblo.jp/midorimushi-show-bow/entry-11785598815.html)

テーマ*デート

 冷たい風に掃かれたアスファルトに微かなくぼみもあれば、足ももつれさせる。

 ブーツのヒールをとられて、もう、とイラついた。帰路につく学生たちは転びそうになった女子学生のことなど意に介さず、仲間と談笑しながら大学の門に向かっていく。

 何もないところで転びそうになるなんて、一人で恥ずかしい。

 舌打ちしたい気持ちを押さえて、帰る学生たちとは逆行してキャンパスを進む。

 気分が向かないのに、何で行かねばならないのだろう。



「・・・あ!きた!りるあ!」


 学生食堂の席を陣取った一員の中の一人が甲高い声を上げて、うんざりした気分になった。

 りるあ。平仮名で「りるあ」と書く。それが名前だから仕方ない。だが有名私立大学教育学部の二年生、大竹りるあは自分の名前があまり好きではなかった。

 木村カエラのヒット曲『リルラリルハ』より早く生まれているから、命名に曲は関係ない。だが、歌が流行った当時、りるあの名が悪目立ちしたのはどちらが早いかどうかなど関係なかった。「リルアリルハ~」だなんて、よく大声で呼ばれてからかわれたものだ。

 そもそも日本人の一般的な名前から逸脱している名。キラキラネームだか何だか知らないが、やたらに目立つ響き。大きな声で呼ばれるのは好きではない。それでも、「大竹と苗字で読んでください」とお願いしているのに、あえて下の名で呼びたがる人はいる。

 椅子を引きずってきて、既に三人集まっている丸テーブルの席に、黙って加わる。


「聞いてよ!今みんなに話してたところなの、超ショック!」

「なに、何かあったの」


 ああ、面倒臭い。

 そんな心持とは反対に、口調は自然と柔らかくなる。花のアップリケのついた山吹色の毛糸の帽子から、ふわふわの茶色い髪の毛が肩を覆う。アイメイクでぱっちりした目。ピンクの頬に、ニットの上着。嘆いている彼女は、こんなに可愛い子を誰が邪険にできるだろうか、というくらいの愛嬌のある女の子だ。

 だからこそ、急な呼び出しに、ゼミ生の友人一同は応じている。大橋美薗は茶色っぽい巻き毛にお姉さんぽい服装の子、面倒見がいい。齊藤太吉は茶髪で少しチャラい男子、集まりの参加率はピカイチだ。唯一不機嫌なのを隠そうとしない倉田まほろはシンプルなシャツにジーンズを履いているだけで様になる端正な美女だ。

 りるあのことを大声で呼んだ可愛らしい女の子は、横井くるみ。りるあとどっこいどっこいのキラキラネームを冠するくるみは、名前負けしているりるあと違って、ゼミのアイドルだ。呼ばれたらついつい足を向ける先を変えてしまうような、いつも周りに人が集まっている、そんな子だった。

 緊急事態、と人を呼び出したアイドルは、涙目になってりるあに訴えた。


「聞いて、りるあ!」


 まるで女優のように涙を浮かべて。


「みのる君に、恋人がいるみたいなの!」

「え」


 ぽかんとしたりるあに、くるみは止めどなく一部始終を話した。

 みのる、というのは、同じゼミ生の遠野実という男子学生だ。さらさらの黒髪に、くっきりした目、スポーツマンらしいすらりとした体躯の真面目な男子で、課題に取り組む姿勢から先生にも信用され、ゼミ生からも人望がある。

 そして、ゼミの中での公然の秘密。今、堂々と嘆いているが、くるみの思い人だ。


 それはついさっきの出来事だったという。

 くるみと美薗が共にキャンパスを出ようとしたとき、図書館から出てくる実を発見し、くるみは美薗と一緒に実に話しかけに行った。帰りの時間が滅多に合わないので、そのときはチャンスだと思った。

 何やら足早にキャンパスの正門に向かう実は、呼びかけられてやや迷惑そうだった。


「なに」

「実君、帰り?よかったら、これからどこか行かない?」

「ちょっとこれから用があって」

「用って何?差支えなかったら一緒にどうかな」


 チャンスとばかりにくるみはアプローチした。しかし、浮かない顔をして一向に実は靡かない。

 結局正門の近くまで一緒に歩いてくるみは食い下がったのだが、実は意に介さず、正門を通り抜けた。そして、くるみがその存在に気付くか気付かないかのうちに、身を翻して「じゃ」と横断歩道に向かっていった。


「ごめん、遅れた」


 そう言った実はなんと、正門前に佇んでいた、私立高校の制服の女の子の肩を抱き寄せたのだ。

 点滅する青信号の横断歩道を二人が歩く姿は、入る隙のないくらい親しそうで、くるみは美薗と二人を見送って立ち尽くした。



「あれってやっぱカノジョってことー?!高校生て!女子高生て!年下好みだと思わなかった!!」


 一通り悔しがってから、テーブルに突っ伏したくるみの頭を美薗と太吉が「よしよし」と撫でる。力ない声でくるみは「ありがとう・・・」と言った。


「実君の用事がデートだったなんて信じられない・・・」


 りるあはぼんやりとその話を聞いていた。

 そうか。遠野君には彼女がいるのか。


「くっだらない」


 溜め息をついて、まほろが立ち上がった。


「緊急事態、っていって一斉送信のメールが届いたから、何かと思ったら個人的な色恋沙汰じゃない。そんな個人的なことにゼミのメーリングリスト使わないでくれない?」

「ごめん・・・気が動転していて」

「まほろ、ごめんね」


 くるみと美薗に謝られて、まほろは首を竦めて去っていった。

 りるあはまほろの颯爽とした後姿を見送り、潔くていいな、と思った。ああやってはっきり、鬱陶しいと言えたらどんなにいいか。りるあは残念ながら、そんな勇気はない。

 それに。りるあの関心自体が、りるあをその場に留めている。


「ねえ、その女の子って、どんな子だったの?」

「えーっとね」


 不満げに、くるみはひとつひとつ思い出して「実君の彼女」像を挙げていった。

 臙脂色のコート、その下から覗くプリーツスカートは沿線の有名私立女子高のものだった。黒い長い髪をしていた。顔はよく確認できなかったけれど、実君が肩をさらった瞬間に「む?!」と驚いたような声を上げていた、など。


「清楚系お嬢様が好きだなんて知らなかった!」


 くるみがまた嘆いた。

 ひとつひとつ聞きながら、そうかあ、とりるあは肩を落とした。

 公然の秘密よりも、その下に隠された、更に見えにくい、存在しないに等しい、秘密ともいえない秘密。

 りるあも実が好きだった。



 もしかしたらゼミの中で、くるみが実君と付き合うかもしれない。そう思っていた。

 そうなったら、流石に辛いかもしれない。ひた隠しにしていた思いも、僻みに変ってしまうかもしれない。りるあはこの思いを告げるつもりもないし、隣に立つ勇気すらないのに。

 実は眩しかった。小学校の子供たちを、ひとりひとりよく見るという方針をどうすれば実現できるか。その考えを軸にして、いつもゼミの課題をこなし、発表では率先して発言する。そんな姿に、りるあは憧れを抱いた。

 りるあはいつも、エースを好きになってしまう。小学校のときはサッカー部の人気者だった。中学校のときは、地区大会で優勝した柔道部の主将。高校のときは軽音楽部で一番人気のあった先輩だった。

 いつも手の届かない人ばかり。そんな人はいつも自分に見合う、素敵な女の子を選ぶ。りるあのように、隅っこで眺めて憧れているような女の子は、視界にすら入らない。

 だから、望んではいなかった。ただ、実は平等に人に話しかけ、意見を交わす人だったから、流石に同じゼミの女の子と付き合うようになったら悲しくなったと思う。

 でも、彼女、いるんだな。

 りるあはくるみや美薗と別れて、時折吹く風を蹴飛ばすようにして歩き、キャンパスを抜け、正門を通り過ぎ、横断歩道を渡った。ジグザグの住宅街の細い道を歩いて行く。

 失恋は、やっぱり悲しい。それでも、勝手ながら、ほっとしている自分もいる。これ以上、悲しい思いにならなくって、よかったと。くるみの思い人でもあるのに、卑怯な思いだ。

 自己嫌悪に陥って、イライラしながら緑の覆い繁る公園へと入っていく。売店でパンの耳のようなものがたくさん入ったビニール袋を買う。

 本当は、今日は、一直線でこの公園に来る予定だった。なのに、くるみに呼び出されて、悲しい気持ちになって、ちょっとほっとして、自己嫌悪に陥って。怒りとがっかりと嫌悪に心が乱降下して、疲れてしまった。

 公園の真ん中には大きな池がある。池の側の道を歩いて覗き込むと、緑っぽい池面下に、赤っぽい色や、黒っぽい色が泰然と揺らめいている。鯉がたくさん棲んでいるのだ。

 公園の一画に鯉に餌をやっていいところがある。りるあの密かな楽しみは、鯉に餌をやるという地味極まりないストレス発散だ。誰にも言ったことがないけれど、大学に入ってから何度も来ている。いっそのこと、鯉の方もりるあを覚えているのではないかというくらいだ。

 まあ、こういうのが自分にお似合いなのだ。

りるあはパンの耳が入った袋を握り締めて、自嘲的な微笑みを乗せる。素っ気ないダッフルコート、パーカー、Aラインのスカート。生き物が好きだし、些細な楽しみが生きがいだし、地味で無難なのが性に合っている。背伸びしたってキラキラ輝いた人間には見合わない。

 遠野君はどこにデートに行くんだろうな。

 思いを馳せながら歩いていて、視界に入った餌やりコーナーに、いつもと異なる風合いのものを見つけて立ち止まった。

 黒い長い髪を、地面につかないように首に回して、しゃがんでいる女の子。臙脂色のコートを着ている。どうやら、女子高生らしい。

 まるで、水面に向き合っているかのように、池を覗き込んでいる。

 ドキリとしたのは、佇む姿にどこか異様な雰囲気がしたからか、くるみの言っていた人物像にそっくりだったからか。

 打ち破ることのできないガラスの向こうの出来事みたいだった。

女の子はやがて体を起こして立ち上がると、りるあがいる反対方向へ去っていった。

 りるあはその背中姿を立ち尽くして見送った。




 翌日、ゼミに行くとブルーモードのくるみがいて、美薗や他のゼミ生が「大丈夫?」と声をかけていた。


「平気」


 と、あからさまな様子のくるみだったが、そんなくるみを見かけた実の反応はあっさりしたもので、「何があったか知らないけど、元気出せよ」と一言声をかけるだけだった。


「遠野の反応は最もだと思う。だって、そこまで関心のない相手に、親身になって話を聞くこともないもの」


 ばっさり切ったのはやはり倉田まほろである。

 まほろはコンビニの三角おにぎりの包装をちぎって、りるあは弁当箱の蓋を開けて、ゼミの終わった講義室を二人で陣取って昼食をとる。他のゼミ生は皆、学食やら外食やらで出て行った。

 さばさばした性格のまほろと、内気で口数の少ないりるあだが、あまり集団行動に頓着しないところは共通している。昼食をなるべく安く済ませるところも似ている。そのため、二年生になってから昼食時間を共に過ごすことが多くなり、案外打ち解けた仲だった。


「うーん、そうだけど、ゼミの子たちって、皆くるみちゃんのことを気に掛けるでしょ。遠野君がそうじゃないのって、何でかなって疑問に思うの。普段は分け隔てなく付き合うのに」

「小学生じゃあるまいし。近すぎず、遠すぎず付き合っているんじゃない」


 あっさり、まほろは言う。

 そうか、と、りるあは弁当箱に目を落した。ふりかけをかけたご飯と、冷凍のグラタンやブロッコリー、ミートボールなどを詰めた弁当だ。一人暮らしの節約に、買い溜めしたお米や冷凍食品を使っている。昼食は一日三百円に抑えている、というまほろはコンビニのおにぎり二つと、家から持ってきたという鳥と根菜の炒め煮だ。

 誰かの特別になるということが、どれほど人間関係の仲で貴重なことなのか、りるあは大学生になるまで思いもよらなかった。高校生まではただ憧れた、恋人との出会いに。

 しかし実際、少女漫画のようにトントン拍子に運命に導かれることはない。憧れを持つだけでは、誰かの隣になど立てない。

 りるあはくるみをすごいと思う。積極的に遠野実に話しかけて、近付いて、努力している。少女漫画なら、ヒロインになろうとしている。

 だからこそ、疑問なのだ。彼女がいるとしても、ゼミの皆が注目するような女の子に、あっさりした態度でいる遠野実。あんなに可愛い女の子に仲良くしようと近付かれて、なおも関心がないらしいのは、どういうことなのだろう。りるあが今まで見てきたキラキラしいカップルの方程式に当て嵌まらない。

 そこが、実のミステリアスな魅力でもあるのだけれど。


「大竹も人がいいよね」

「え?」


 びり、と包装紙を破ると共に、まほろは意味ありげな視線をりるあに向ける。


「大竹も遠野のこと気になっているんでしょ」

「げ」


 しまった、ばれていた。

 箸を止めて固まっているりるあに、まほろは言った。


「それなのに、いつでも横井の味方でいるでしょ。横井はゼミの皆にアピールして遠野の包囲網作っているから、どうにも動きにくいだろうけど。いい人じゃなくていいんだから、大竹、告白とかしてみなくていいの?彼女いるって分かっちゃったけど、伝えるのは自由だよ」

「いいの」

「遠慮しなくたっていいのに」

「そうじゃないの。本当はゼミでカップルになっちゃったらどうしよう、とか、そうなったら悲しくなるだろうな、とか思うよ。結構勝手なことを思っている。だけど、私は自分に自信がないし、誰かに好きになってもらう努力をしたこともない」


 例えば、まほろは性格が男前だけれど、女性として凛とした美しさを持っている。くるみは自分が可愛らしく見えるために、着るものや化粧に気を配っている。

 まほろのことは知らないが、くるみは明らかに他人の目を意識して自分を磨いている。その意識の高さは、やっぱり、りるあにはないものだった。

 憧れているだけではなくて、恋する人に見合う人間になるよう努力する。恋してもらうために自分を磨く。それをしていない、自分が誰かに恋してもらおうなんて、ムシがいいのだ。

 りるあがそんなことを話すと、まほろは「うーん」と首を捻った。


「まるで女性向けのファッション雑誌に書いてありそうな駄目出しだね」


 残念ながらりるあはその手の雑誌を見たことがない。


「私はそれだけじゃないと思うし、大竹にはいいところがたくさんあると思うんだけどな」

「そう言うまほろちゃんは?遠野君、格好良いとは思わないの?」

「見てくれはいいけど、好みじゃないし、いつも冷静なところがちょっと鼻につくんだよね。あ、好きな人の前で悪いけど」


 あっさり言うまほろの言葉に、りるあは思わず笑いを漏らした。

 女子から人気があり、人望のある異性にも、あっさりしているまほろも、実と同じで、自分のしっかりした芯を持っている。

 まほろを見ていると、時折「どうやったらこんな人になれるのかな」と羨望と嫉妬の混じった、でも前向きな思いを抱く。



 さて、事件はその日の午後に起きた。

 一般教養科目の授業が終わってさあ帰ろう、また鯉に会いに行こう、と講義室を出たりるあだったが、携帯電話の電源を入れた瞬間、即座にメールを受信したので足止めを食らった。送り手は美薗だ。

 件名は「お願い、助けて」、本文には「くるみが実君のカノジョを拉致した・・・気付いたら電話して」。

 何があった。そして何故それを私に。

 あまりのことに困惑したりるあだったが。

 メールが来ていた時間は授業終了五分前。

 結局のところ、気になって電話してしまった。


 困り切った声で電話に出た美薗がりるあを呼び出したのは、大学にほど近いところにある喫茶店だった。

 授業がなかった美薗とくるみは、他のゼミ生たちと皆で話しながら歩いていた。だが、正門を通ったとき、正門の前に昨日と同じ女の子が立っているのが目に入った。あろうことか、くるみは女の子に向かっていき、そして、皆が唖然とするのも構わず、女の子を引っ張って行って、喫茶店に連れて行ってしまったのだ。

 放っておけないので、美薗と、それから同じゼミ生の目黒という男子が付き添っている状態らしいが、くるみは喫茶店に引っ張っていったのはいいものの、黙りこんで、とにかく相手の女の子を睨みつけているらしい。


「とにかく、ごめん。助けて。この状況辛い」


 りるあは小走りになってキャンパスを通り抜け、正門を出た。

 助けられるかどうかは分からないが、人数もいれば意味不明な行動に走ったくるみも説得しやすいやもしれない。

 りるあは嫌がりそうだと思いつつもまほろにメールし、それから迷ったものの実にも事情を知らせるメールを送った。

 そして、心臓を落ち着けて、喫茶店に乗り込んだ。

 その喫茶店は、少し変わった店だった。木造りの内装の薄暗い雰囲気のフロアに、木のテーブル、椅子が配置され、観葉植物が仕切りとして並べられている。そして、棚やテーブルには、キリストの十字架やらガネーシャやらアラベスクのタイルやら仏像やら古今東西の宗教的な品物を飾られている。メニューは普通で、コーヒーや紅茶、お菓子を出すお店なのに、店主の内装の趣味は妙だった。

 奥の広いテーブルに、異様な雰囲気で五人が腰かけていた。

 美薗、目黒と、美薗が呼んだらしい太吉とくるみの大学生四人。思いつめた表情をして座っているくるみの向かいには、制服姿が座っている。

 りるあははっとした。黒く長い髪に、臙脂色のブレザーの少女は、昨日の鯉の池のそばにいた少女だった。

 大きな丸い瞳が向けられて、ぎょっとする。まるで全てを見透かしてしまいそうな黒い瞳が印象的な、清楚な雰囲気の女の子だった。

 これが遠野君の彼女。

 しかし、昨日見かけたときは一人だったが。遠野実とデートに行くようだった・・・とくるみたちは言っていたのに。


「ああっ、りるあ、来てくれたのありがとう!」


 美薗が両手を合わせて謝り、目黒はほっとしたような顔をして立ち上がった。


「ごめん、代わってくれ」

「あ、帰るの?」

「これからバイトなんだ」


 目黒と入れ替わりで、りるあがくるみの隣に座る。

 コーヒーが置かれて、ひとくち飲んでも、ちっとも落ち着かなかった。

 りるあは緊張して女の子と向き合った。わけの分からない状況に置かれているはずの女の子は、オレンジジュースを前に、案外落ち着いていた。不安そうな素振りもなければ、怪訝そうでもない。むしろ異様なほど無表情で、睨みつけるくるみを見返していた。

 女の子の隣に座っている太吉は、おもしろそうに二人を眺めている。

 りるあは小声で美薗に訊ねた。


「さっきからこの状態なの」


 おずおずと、美薗が説明する。


「進退なく、って感じなの。くるみも何も言わないしずっとこんな感じだし、彼女も何も言わないし、こっちから話しかけにくいし・・・。どうすればいいか分からなくって」

「俺は呼ばれて、さっき来たばかりなんだけどね」


 太吉がチャラっぽくへらへら笑うので、りるあはついキツい口調で言った。


「じゃあ聞いて」

「え?」

「何かこの子に聞いて!わけ分からない状況だから、今。人と打ち解けるの得意でしょ」


 なんとなく耐えられなくて、りるあは必死に言った。


「OK」


 ちょっと笑って、太吉は気まずい沈黙を破って女の子に向き合った。


「ごめんね、何かいきなりここに連れ込まれたんだって?このお姉さんに」


 くるみが抗議するように太吉に何か言おうとしたが、太吉は「まあまあ」と手で制した。

 女の子は大きな瞳で太吉とくるみを交互に見、太吉に頷きかけた。


「そうです」


 初めて声を発した女の子に、太吉は「ごめんねぇ」と手を合わせた。


「何か彼女、君と君の彼氏が一緒にいるところを見て、彼氏が自分の好きな人だったから動揺しているらしいんだ」

「む」

「ちょっと、そこまで言わなくても」

「それで今日見かけて、つい君と話したくなっちゃんたみたいなんだ」

「ちょっと!太吉君ひどい!そんなことまで言うなんて」


 可愛らしく握り拳を作って抗議するくるみを振り向いて、太吉は諌めた。


「ひどいって、誰が一番ひどいんだよ。関係ないゼミの皆に自分の都合を押しつけて、巻き込んで、挙句の果てには面識のない高校生をいきなり掴んで喫茶店に連れ込んだのは誰だ」


 う、と言葉に詰まり、くるみは涙目になった。


「だって・・・」

「少しは周りの迷惑を考えろよ。何でも許されるとか思うな」


 やんわりとした口調だが、しっかり非を指摘する太吉に、りるあと美薗は顔を見合わせた。

 太吉は普段、ゼミの中でも軽口を叩いて、堅くて冗長になりがちな雰囲気を軽くしている。誰とでも仲が良いし、人に厳しい意見を言っている場面は一度も見たことがない。くるみのことだって、仕方ないな、というようにいつも慰め役に回っていたはずだ。

 口調は柔らかいけれど、ここまではっきり叱るとは思わなかった。りるあは意外に思って太吉をしげしげと眺めた。

 大学生たちをよそに、女の子は初めて困惑の表情を浮かべ、首を傾げながら頭上に目線を向けた。


「彼氏?私と一緒にいた?」


 おや。

 りるあは首を傾げた。昨日彼女は実と共にいたのではないのか。

 彼女の様子に違和感を持ったのはりるあだけではなかったらしく。


「だって、あなた昨日実君と一緒にいた子でしょ?」


 叱られてしゅんとしていたくるみが恨めしそうに訊ねた。

 すると、神秘的な女子高生は、ぱかーんと口を開けてくるみを心外そうに見つめた。奇妙な反応にくるみを含め、一同ぎょっとしてやや身を引く。

 おそるおそる、美薗が沈黙を破る。


「えっと、あなた、実君の彼女・・・だよね?」


 ギギ、と油の差していないブリキ人形のようなぎこちない動きで、彼女は美薗に顔を向けた。


「違います」

「え?違うの?だってあんな親しそうに」

「自己紹介していいですか」

「あ、ああ、そうだったね」


 太吉が頷く。彼女の申し出は唐突だけれど、確かにそういえば、名前をまだ聞いていなかった。

 気を取り直すように、声の調子を整えて、目を丸くしている大学生に囲まれた彼女は堂々と言い放った。


「わけの分からない状況だったので妖怪かと思ってどうしようか考えていた、けど、大体事情は分かりました。はじめまして、私は遠野春子といいます」


 と お の は る こ


 間の抜けた沈黙が、しばし続いた。


「え?え??」


 意外にも、一番最初に我に返ったのはくるみだった。


「もしかして・・・実君の、妹さん、とか?!」


 彼女―――春子はしっかり頷いた。


「はい、そうです」


 一触即発だった空気が、一気に奇妙な安堵に溢れた。

 りるあは目をぱちくりとさせ、少女をもう一度見直した。そういえば、目の丸いところや、頬の輪郭などが実にそっくりな気がする。ミステリアスな雰囲気も、実と共通している。

 なんだ。

 ほっとしている自分に気が付いて、複雑な気分になる。くるみもいるし、彼女もいるらしいし、と思い、諦めをつけようと必死に押さえつけていた恋心は現金だった。彼女かと思われた子が妹だった、というだけで、実に彼女がいなくてよかった、と思ってしまう。あまりに勝手だ。


「なぁーんだー!実君の妹だったんだ!そういえばそっくり!」


「昨日も今日も兄と用があったんです。カノジョと勘違いしていきなり腕掴んで引っ張ってたんですね何か緊急事態が起こったのかと思って身構えましたよばかやろう」


 妹だと発覚して喜んだくるみだったが、見た目にそぐわぬ罵倒を乗せた春子の冷たい声に、くるみだけならず一同は固まった。


「ほ、本当にごめんね・・・私も昨日見かけたとき、てっきり彼女かと・・・」


 宥めるような言い方の美薗にギンと目線を向け、春子は「いえ」と強く言い切る。

 絶対に怒っている。


「あ、あはっ。本当にごめんね。くるみの勘違いだった。本当、好きなもの奢るから許して?何かケーキとか・・・」


 図らずも実の身内を怒らせてしまったことに気が咎めたのか、笑って謝ろうとしたくるみだったが、春子が急に明後日の方向を向いてきりりと表情を改めたので、しゅんとした。


「あのぅ・・・」


 声をかけても、全然くるみを見ない。

 あらら、とりるあは肩を落とした。どうやら実の妹も、一筋縄ではいかないタイプの人間らしい。

 と、そこへ、新たな人員がやって来た。


「春子?!」


 慌てたようにやって来たのは話題の人物、実だ。その後ろにはまほろが仕方なさそうについてきていた。


「もの凄い勢いで道を歩いて行くところを見かけて、一緒に来たよ」

「まほろちゃん」

「横井の暴走に付き合うのは面倒臭いけど、大竹からメールもらっちゃ、断れないからね。このお人よし」


 微笑みかけるまほろの言葉にりるあが胸をジーンとさせているところに、実の激怒の声が響いた。


「横井、うちの妹に何したんだ!」


 聞いたこともない実の激しい口調に、一同は凍りついた。

 中でもくるみはいつもの可愛らしさなど雲散霧消、完全に表情を硬直させて実を見つめていた。


「な、何って・・・」

「聞いたぞ、正門の前にいた妹を喫茶店に引っ張り込んだって!何だってそんなこと・・・春子、大丈夫か」

「何ともない」

「よかった。いいか横井、何でこんなことをしたのかよく分からないが、うちの妹に危害加えたら絶対許さないからな」

「ち、違うの実君・・・あのね」

「違う?違うって何だ。春子、何かしたのか?」

「何もしてない。いきなりだった」

「昨日実君と一緒にいるところを見かけて、彼女かと思って・・・」


 実は顔を引きつらせ、たちまち眉間に皺を寄せた。


「彼女かと思った?それで、面識のない相手を喫茶店に連れ込むのかよ」

「えっと・・・」

「待ち合わせ場所にいなくて、どんなに肝が冷えたかと思ってるんだよ。とにかく二度とうちの妹に関わらないでくれ」


 妹が座る背後に回り、妹の両肩に手を添えて、いつもの冷静さからは想像できないような厳しい態度をとる実に、皆唖然とし、くるみは顔を青くして固まった。

 りるあは唖然としながら、心の中でこんなことを思った。

 えーっと、これは、つまり。

 遠野君、シスコンだ。


「お兄ちゃん」


 凛とした声が響いた。一同の視線を集めるも、なお春子は、視線を上向けて、じっとそちらを見つめていた。


「どうした」

「あった」


 一同が不思議に思う中、春子は確信を込めた声で兄に告げた。


「見つけた」



「いやーびっくりしたな、今日の実。あんなキレると思わなかった」

「うん」


 何故この組み合わせで帰ることになったのだろう。

太吉の言葉に頷いて、りるあは内心首を傾げた。

 喫茶店に用事が出来たという実とその妹を喫茶店に残して出た後、泣き止まないくるみを慰めに、別の喫茶店に入った。

 太吉とまほろは完全に呆れ顔でくるみを見つめていたが、くるみと仲のいい美薗はひたすらくるみを慰めていた。

 美薗はヘルプに応じてやって来た三人に礼を言った。


「やーありがとう、りるあも、太吉も。倉田さんも、りるあが呼んでくれたの?」

「うん」

「迷惑かけてごめんね。まさかくるみがあんな行動をとるとは思わなくて」


 謝る美薗に、まほろがすぱっと言った。


「大橋さんが謝ることないんじゃない?全部その子の自業自得じゃない」


 すると、美薗は困ったように笑って首を振った。


「これでも付き合い長いの。やっぱり、友達だから」


 なんとまあ、友達のありがたさよ。りるあは感心した。

 テーブルに突っ伏していたくるみが顔を上げて、美薗を見つめて「ごめん」と一言、言った。そして、りるあを見た。


「りるあも、ごめん。わざわざこんなことに付き合せて・・・」


 太吉の叱ったことが、かなり効いているらしい。

 りるあは、りるあと名前で呼ばれるのが好きではない。だけれど、くるみが「りるあ」と呼び始めて、美薗もそれに倣って呼び始めて、ゼミ生の大体に名前で呼ぶ習慣が浸透している。

 居心地が悪い気もするし、大学生で流石に馬鹿っぽいからかいを口にする人もいないから、いいか、という気もする。

 どんなに可愛くしようと努力しても、好きな人に友人以上の関心を持ってもらえないこともある。「仕方ないでしょ」と突き放されることもあるし、我を通そうとして叱られることもある。

 厳しい意見は必要なことかも知れない。だが、やっぱり、りるあは他人に甘かった。


「ううん、いいよ」


 あまり好きではない、りるあと呼ばれることも、少しの我が儘も、「いいよ」と言える最後の砦でいたかった。

 美薗に、後は私が付き合うから皆帰って大丈夫、といわれ、ようやく喫茶店を出たときは夕方だった。


「本当、大竹はお人よしだよね」


 まほろが目を細めて言い、太吉がそれを聞いて笑った。

 りるあは首を傾げた。


「そうかな」

「いやー。あんまり自分の感情抑えなくてもいんじゃね?とも思うけどね。巻き込まれるよね、大竹さん」

「うん。まあでも、確かにむかついたけど、やっぱりくるみちゃんのこと、何か憎めないし」

「なるほどね」


 まほろはそう言って頷いたが、「あ」と声を上げた。


「ねえ大竹」

「何?」

「前言撤回。私、今日の件で遠野のこと見直した」

「え?」


 りるあと太吉の声が重なる。シスコンが発覚した実のどこを見直したというのだろう。はっきり言ってりるあは今日の実を見て、ちょっと引いた。

 だが、照れくさそうに、まほろは言った。


「だって、クールです、みたいな顔をしている遠野が、妹のために恥も外聞もなく全力で怒ってるんだもん。遠野は大切な人を本気で守ろうとするタイプの人間だよ」


 りるあは、まほろがそう言った瞬間「あ、敵わないな」と思った。

 まほろには普段から自立している印象を持っていた。だけど、彼への考え方に、他の人の目や世間体を差し挟まない、独自の目線を持っているのだ、と思い知らされた。

 りるあはそんなこと、全く思いも寄らなかったというのに。


「なに、倉田さんが今度は実を好きになっちゃったってオチ?」


 軽口叩いた太吉に、まほろは微笑みかけた。


「その通り」

「おお」

「ねぇ、大竹。私、全力で恋しちゃうけど、いいかな?」


 何故か胸がすっとした。りるあは大きく頷きかけた。


「うん。応援する」


 とびきり清々しい笑顔を向けて、まほろは「ありがとう」と言った。

悔しい。もっと素敵な女の子になりたい。でもまほろのことは、とても人間として好きだ。

 りるあは思った。くるみと美薗のような関係ではないけれど、きっとまほろと友達になれたことは、一生の宝になる、と。

 そして、喫茶店の前でバイトに行くというまほろと別れてから、のことである。

 りるあは何故か、太吉と一緒に薄暗くなった住宅街を歩いている。一人暮らしで危ないから送る、という太吉はのんびりとした風情で、ごく自然体に見えた。

 こうやって歩きながら話すのは初めてだな、と思いつつ、今日は太吉の意外な素顔も見れた日だったとりるあは思い至った。遠野実の妹も何だか奇妙な子だったけれど、くるみの暴走といい、太吉の叱る姿といい、実の剣幕といい、美薗の友情といい、まほろの告白といい、一日で素顔を晒すことになった人間が周りに幾人もいるという奇妙な日でもあったかもしれない。


「私、実君ってシスコンだったんだー、とか思っちゃった」

「俺も。倉田さんて変わってるよな」

「でも、いい視点持ってるなって思った」

「確かに」


 笑う太吉がふとこちらを見た。


「大竹さんも、遠野実が好き?」


 りるあは肩を竦めた。


「なんか、そうだったみたいだけど、今日のことで吹っ切れちゃったみたい」

「なんと」

「もともと遠野君って、憧れている人が多くて駄目だろうなって思っていたけど、私って所詮そのくらいの気持ちだったんだなって思った。まほろちゃんとか、くるみちゃんとか見ていると、本当に自分とは気持ちの持ちようが違うんだなって」


 それ自体に全力投球できるわけでもないのに、見た目や雰囲気で好きになっているのは自分の方で、だけど、くるみのように普段のギャップに固まってしまうほど入れ込んでいたわけでもなければ、まほろのように人間性を見ていたわけでもなかったのだと気付かされた。

 寂しい心地は残るけれど、それが分かって今は気持ちがいい。


「なんか、恋をしたら、もっと好きになれるんじゃないかって、思うしね」


 それにしても、あの遠野兄妹は一緒に何をしていたのだろう。結局明かしてもらえなかったけれど、昨日鯉の池で妹が佇んでいたことといい、喫茶店での妹の様子といい、どうも挙動が不審だった。何が「見つかった」のか分からないし。

 まあ、自分には関係ない、二人の事情があるのだろう、と思っておく。

 いつの間にかアパートの前に着いている。送ってもらった礼を言おうとしたりるあを、太吉が妙に真剣な目で見ていた。


「ん?なに?」


 いつものチャラさなどどこへやら。

 太吉は口を開いた。


「前から思ってたけど、大竹さんって優しいよね」

「え?」

「だから、ちょっと落ち着かないことがあったときに、大竹さんに会いたい人がいるんだよ。倉田さんだって、本当は横井さんに付き合っているように見えて、大竹さんが巻き込まれすぎないように見ているんだよ」


 思いも寄らない言葉に硬直しているりるあに、太吉は微笑みかけた。


「・・・俺も今度から、りるあ、って呼んでいいかな」


 答えも聞かず、じゃあね、と薄闇の住宅街を去っていく太吉の後姿をぼんやり見送る。

 ゼミの一番最初の授業で「下の名前で呼ばれるのが苦手なので、大竹と呼んで下さい」と言って以来、太吉がずっと「大竹さん」と自分のことを呼んでいたのだと、初めて気付いた。

 名前で呼ばれたら嬉しい。初めてそんなことを思った。




 さて、私立女子高校二年在学、祖父が「脱妖怪」という謎の出自を持つ、不思議な出来事やおかしなものに敏感な「脱妖怪」の孫、遠野春子の「見つけた」が一体何だったのか。

 時間を二時間ほど元に戻そう。

 喫茶店に用事があると言って残った遠野兄妹は、喫茶店の天井近くに作られた、備え付けの棚の上にある仏像を眺めていた。

 実は春子を見下ろし、訊ねた。


「本当に、あれなのか」


 春子は、頷いた。


「おそらく」


 彼らの視線の先には、くすんだ金色の、小さな仏像三尊がディスプレイされていた。

 子供が不思議な体験をする物語は、大概、大人になるとその力がなくなってしまうとか、やり方を忘れてしまうとか、不思議な場所に行けなくなってしまうとか、残念な展開が待っている。ところがどっこい、正真正銘の血筋の力を持つ春子は、いくら年齢を重ねようと妖怪やらその他不思議な出来事に遭遇する機会に欠くことがなかった。

 もっとも、物事を真正面から見つめようとする性質からか、春子は兄の実よりずっと不可思議状況に置かれることが多い。逆に、兄はそんな状況など本当はスルーできる。

 それなのに、と春子は隣の実を見上げる。

 もともと、春子が知り合いの尼さんから受けた依頼なのだ。わざわざ実が出張ることなかったのに、手伝うと言って聞かなかった。

 憤然として、しかし脱力する気分になって、春子は溜め息をつく。春子が心配なせいで、実は自分に恋しているらしい女の子に無頓着であるようだ。いっそのこと、春子に関わっていなければあんな事件も起きなかったろうに。

 すごい形相をした茶髪の女の人に腕を掴まれたとき、何かに取りつかれた人に襲われたのかと思った。


「春子、脚立借りてきたぞ。仏像も見ていいそうだ」

「む」


 ぼんやりしている間に実は店の人と交渉をしてくれていたらしい。

 こういうところがあるから、兄も心配するのかな。

 春子は膝丈のスカートを気にしつつ、用意してもらった脚立に上る。


「仏像に興味があるとは、おもしろい女子高生だね」

「ちょっと変わってるんです」


 勝手な会話をしている実と店主をよそに、春子は棚の上の仏像三尊に対面する。

 それぞれをよく観察し、ポケットから写真を取り出す。写真ともう一度見比べて、春子はやっぱり、と確信した。

 同じ仏像だ。


「もしもし」


 春子はごく小さな声で、仏像に語りかけた。


「あなた方は、鎌倉の方のお寺の、秘仏さんたちですか」


 問いかけに、彼らは暫く応じなかった。

 しかし、春子は見逃さなかった。真ん中の仏様が、わずかにふるふると震えて、小さな小さな涙を流しているのを。

 天変地異の前触れかと普通の人が思うようなことに、春子は驚かない。不可思議現象やおかしなものに相対するのは慣れたものだった。

 仏像の小さな小さな声が、春子の耳に届いた。



 いかにも。我らはな、帰りたいのだ。



 そうですか、と春子は頷く。


 仕舞われていた厨子の中を、ある日荒らされた。開帳のときではないのに、外に出され、箱に押し込められた。船に乗せられ、遠い異国の地で暫く過ごした。所縁のない土地で、覚束ないときを過ごし、やがてまた誰かに我らは盗まれた。



 うんうん。

 春子は悲しみに満ちた声に耳を傾ける。



 再び我らは日本に来た。今度はガラクタと一緒になって、路上に置かれ、買われてここに飾られた。二束三文の値段で。我らはそのような価値なのか。ただの品として、今も飾られている。



 不安げな三尊の視線が、突き刺さるような気がした。



 信者たちは今の我らの姿を見たならば、がっかりするであろう。信心を忘れてしまうであろう。こんな我らを、誰が立派な仏と信ずるだろうか。拝むだろうか。明日の希望にするだろうか。



「大丈夫ですよ、帰れます。今年、ご開帳の年です」


 春子は静かに告げる。


「お坊さんたち、仏様たちを確認して、なくなっているのに気付いて大慌てだったんです。とても後悔して、哀しそうでした。もっとちゃんと確認しておけばよかったって。とても立派な仏様を拝むのを楽しみにして、信者がたくさんいらっしゃるそうです。誰も仏様がいなくなったとまだ知らない。今、戻れば春に間に合います」


 ぶわっと仏像三尊の目から液体もとい涙らしきものが流れた。マリアやキリストだけならず、彫金の仏像も涙を流すらしい。

 とりあえず、不幸な境遇で連れ去られた仏像たちは、帰りたかったようだ。仏像は自分では動けないけど、魂が籠っている。盗まれて、知らない土地に運ばれて、遠くにいる信者を思い、さぞかし悲しい思いがしたのだろう。

 自分で歩いて家出しちゃった図太い仏像じゃなくて良かった。春子は密かにほっとする。

 しかし、仏像が見つかったはいいが、まだ課題は残っている。持ち主である店主とどう交渉して、仏像を手に入れ、元の寺に返すか、算段をつけていない。

 いっそのこと、本当のことを話してみるか。この仏像がさる寺の秘仏であり、数十年に一度ご開帳のときにしか見られない、非常に貴重なものであること。寺からなくなって、お坊さんたちが困っていること。盗品であり、巡り巡ってこの店に辿り着いたのだということ。

 分かってくれるだろうか。不安に思いながら振り向くと、実と店主がにこにこして立っていた。

 スキンヘッドの店主が嬉しそうに言った。


「そっか!そんなにその仏像が気に入ったのか、妹さん!」

「仏像可愛いって言って聞かないんですよ」

「女子高生が仏像広めてくれるんなら、仏像ブームがこれから来るかも?!でもイコンの方が綺麗だし・・・ああそっか仏像が好きなんだから仕方ないね、いいよ、あげるよその仏像!フリーマーケットで買った安いやつだし!広めて仏像!」


 いつの間にか話がついていたらしい。

 が、なんだか春子にとって釈然としない形で話がまとまっている。

 スキンヘッドと笑顔を輝かせた店主に、ありがとうございます、と春子は微笑んで、それから生暖かい目で実を見た。親指を立ててみせる実に、溜め息禁じ得なかった。




 翌日、春子は放課後に知り合いの尼のいる寺にいた。

 春子の知り合いの尼・ミヨコさんは、祖父が狸の「脱妖怪」という、春子と近似した出自を持つ。

 春子の祖父はもともと猫又で、狸より長生きしていたらしく、ミヨコさん曰く〝格上〟なんだそうだ。必然春子の方が対応できる出来事の範囲が広い、らしい。とはいえ、人間のしきたりからいえば、ミヨコさんは年長者で、人間としても「脱妖怪」の孫としても、春子より経験を積んでいる。春子はこの姉貴分を尊敬し、慕っている。


「本当に助かりました。猊下、泣きながら大事に仏様を抱いていらしましたね。これでご開帳に間に合います」


 ミヨコさんが莞爾とする。秘仏を盗まれた寺のトップのお坊さんに仏様の受け渡しを終えた後で、春子はお茶を飲みながら話をし、寛いでいた。

 高校生になり、行動範囲が広がってから、普通の人間では対処できない摩訶不思議なアルバイトをミヨコさんは春子に頼むようになった。

 さる寺の秘仏が盗まれたと発覚し、仏教界は密かに大騒ぎだったそうで、駄目で元々の捜索依頼が春子のもとまできた。

 仏像の盗品はほとんどが海外に売り飛ばされてしまうという。見つかる見込みはほとんどなかった。期待されていないのは分かっていたが、やれるだけはやってみようと依頼を受けた春子は、写真を手にあちこちの〝変わり種〟に聞いて回った。例えば少し古い椿の木とか、神社の祠にまします方とか、稲荷さんとか、ふらふら歩いていた小鬼とか、池を悠然と泳いでいる鯉だとか。

 古い仏像には魂が宿っている。そんな気配を感じた古きものや奇妙なものたちは、少しずつその気配の居所を春子に教えてくれた。あちこちの断片的な目撃情報を繋ぎ合わせ、辿り着いたのはなんと兄の大学の近く。

 まさかそのせいで兄を思う女の子に絡まれて喫茶店に引っ張り込まれるとは思わなかったけれど、結果オーライだった、仏像が見つかったから。

 ミヨコさんの淹れてくれたお茶にほっと息をついた春子は、静かに愚痴を零した。


「仏像のことはお役に立ててよかったです。でも、今回も兄がついてきて」

「ほうほう」

「土地勘のある兄に案内してもらえたのはよかったんですけど、兄の事が好きな女の子にカノジョだと勘違いされて、大変だったんです」

「あははは、そうなんですか」


 ミヨコさんが明るく笑うものだから、少し春子も笑った。


「私を心配してくれているのも分かるんです。私の感覚がちょっと他の人とは違うから、兄がいてくれた方が、物事がスムーズに進むのも分かってます。でももうちょっと、自分のために時間を使ったり、恋人を探したりとか、したっていいんじゃないかと思うことがあります。ああやって好いてくれている人がいるんじゃない、って思うと、私のことばかり付き合わないでいいのに」

「しかし、それはお兄さんが自分でそういう道を選んでいるわけでしょ。それも人生ですよ」

「でも、知ってるんです。兄が教育学部を選んだのって、小さいときに私が人間の輪から外れそうなギリギリのところにいたから、そういう子も含めてちゃんと見れる教師になりたいからだって」


 小学三年生の頃だった。春子がおもしろいものや、奇妙なものに対処しているところに、今まで春子に無関心だった実が、急に入り込んでくることが多くなった。その当時は正直鬱陶しいな、と思っていた。実の知恵のお陰で切り抜けることのできた事案もあったけれど、妖怪や不思議な出来事を避けてきた兄が今さら何ができるのかと疑問だった。

 サッカーで進学できる高校を蹴って、実が進学校を選んだとき、春子は驚いた。小学生の頃からエースで、中学校でも毎日毎日部活に励んでいたはずだ。てっきり夢はサッカー選手だと思っていたのに、教師になりたいと言い出した兄に、父母も驚いていた。

 実がどういう心境で進路を決めたのかは、驚いたことに祖父が知っていて、春子にこっそり教えてくれた。

 実は小学生の頃、不思議な出来事に目を背けていた。「脱妖怪」の孫だとしても、七十五パーセントは人間だから、人間としてそれは普通のことだといえた。

 だが、自分のサッカーの試合で応援していた妹が、得体の知れない存在の相手をしているのに気が付き、自分の知らない世界に行ってしまう危惧を抱いた。知らない内に身内が遠くに行ってしまう、そんな恐怖を感じた、という。それ以後、実は春子に過干渉になった。


「そんなに、背負わなくたっていいのに。考えてみれば、小学生のあるときから兄がお兄ちゃんぶりだして、いつも気にかけていたんだなって。私、兄に不安な思いをさせていたなんて、全然そんなこと気付かなかった。自分のおもしろいことや、世界を突き進むぞって感じで」

「ほうほう」


 そして、どんな妖怪でも、不思議な出来事でも、人間でも、目を背けないで真正面から向き合う。そんな春子の性質に触れて、色んな個性を束ねなければならない小学校教師になりたいと実は考えた、と祖父はぷくぷくと笑い、言っていた。


「妖怪の世界とか、不思議な世界とかに引っ張られないように、人間として実は春子を引き止めたかったのじゃ、っておじいちゃんが言って。多分、小学生の頃の私なら、それでもいいや、おじいちゃんがいるし、って思ってた。それって、家族のこととか、何も見えてなかったな、と思うんです。それでお兄ちゃんのことを気に病ませているなら、春子の方こそよくなかったって思うのに」


 沈んだ顔をする春子を見ていたミヨコさんが、にんまり微笑んだ。


「春子ちゃん、大人になりましたね~」

「いやぁ、ミヨコさんの前だと全然~」


 ミヨコさんの表情に何か危いものを感じ取ったかのように春子は畳の上をずずり、後退りする。

 ずずい、法衣を引きずってミヨコさんが正座で進み出でる。

 春子とミヨコさんの視線が重なった、その瞬間、「隙ありっ!」とミヨコさんの法衣が春子の身を挟みこんだ。


「むっ」

「捕まえた!相変わらずかわゆいですな!」


 生ぬるい表情で春子は法衣に包まれて溜め息をついた。


「ミヨコさんには敵いません」


 毎回こうなる、十七歳になっても、なお。

 だが、ミヨコさんに抱き締められると、香のかおる法衣のせいか、ちょっとふくよかなせいか、狸感があるせいか、ふんわりとした癒しがある。狙いを定めたようなにんまりした目線に毎度たじたじするも、春子はミヨコさんが大好きだ。

 ミヨコさんが優しく語りかけた。


「大丈夫です、春子ちゃん。きっとお兄さんも背負っているだけではありませんよ。自分の人生を生きています、春子ちゃんがお兄さんを心配しながらも、自分の道を歩んでいるように」

「それなら、よいのですが」

「お兄さんのことが好きな女の子に引っ張られたんでしょ?そんな風に、お兄さんのことが好きな人がいるんだから、お兄さんはきちんと、自分の世界を持っています。何かに気をとられていても、人はやっぱり自分の世界を生きていますから、春子ちゃんのことを心配しながら、勉強したり、友達づきあいしたり、いつか恋をしたり、するんじゃないでしょうか。春子ちゃんのことが心配で仕方ないのは、それこそ仕方のないことで、きっとそれでいいよって言う素敵な女の人が現れますよ」


 春子はふと思い出す。

 何か憑いているんじゃないかという形相の女子大生に引っ張られていき、喫茶店で睨み合いになった後、付き添いのような女子大生が呼んだのか、次々と女の人と男の人が来た。その人たちがまるで糸を引っ張って、リレーしたかのように、最終的には兄もやってきた。

 兄がすごい剣幕で怒っているところで、春子は仏像を発見して早く確かめたくてたまらなかったのだけれど、びっくりしている一同とはやや異なる反応を示している女子大生が一名いたのに気付いていた。

 兄の後ろについてきた、稲荷の狐のような端正な顔立ちの、少し不遜な雰囲気の女の人。怒る兄を見て、感心しているようだった。

 それがどうというわけでもないけれど。


「そうかもしれません」


 春子が感じていたこと、見ていたこととはまた別に、人の心は思いもよらず、人生は進行中で、動いているのに違いない。兄の世界はやっぱり兄のもので、その中で誰かが動いたり、何かを感じたりしているはずだ。

 それは、先日、突発的な出来事によって偶然居合わせた人たちにとっても同じなのかもしれない。

 ふふ、とミヨコさんが笑う気配がした。


「おやおや、他の人が見えないものが見える春子ちゃん、また何か見えたのですか?」



 寺からの帰り、春子は電車に乗り込んで思案に耽った。

 春子にとって、妖怪やら、不思議な出来事やらと遭遇する機会の多い世界は、人間関係以上に広かった。小学生の頃は、それが全てだと思っていた。

 だけれど、まだまだ知らない世界がある。思いも寄らない出来事が、人間の心がある。そのなんと果てしないことだろうか。

 女子高に入って「第一印象、神秘的。喋ってみたら、やっぱり変」と友人に評される春子は、あまり小学生の頃から変わらないとよく言われる。自分では分からない。だが、春子の見識は確かに広がり、日ごと様々な心の模様の変化がある。

 先日出会った大学生たちと、二度と会わないだろうと思っていたけれど、何故だろう、今はまた会う気もする。巡り巡って、思いも寄らない形で。

 兄はあの人たちの中で、確かに生きている。それを実感するだけで、全く感じられる世界の広さが違う気がする。

 電車の広い窓から夕焼け色の日差しが差し込む。一番寒い時期を越えて、日が長くなってきた。

 もうじき、コートのいらなくなる季節がやって来るだろう。

 春子は電車に揺られる。家を目指しているのに、どこか遠い場所に向かっているかのように感じられる。

 春はすぐそこまでやって来ている。

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