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春子と不思議な物語シリーズ  作者: 独蛇夏子
春子、四年生秋~五年生の春。そして中学生、高校生。
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25/29

24 彼女は夢の旅人

ブログ掲載日*二千十三年六月十七日(http://ameblo.jp/midorimushi-show-bow/entry-11501911789.html)

テーマ*卵

 親指をぐっと立てて、腕を前に突き出すと。

 校舎の昇降口と、葉を落した木の前に、親指が出現した。

 片目をつむって、その親指をうーむと眺めた。


「何やってるの?春子ちゃん」


 怪訝そうに話しかけられ、春子は目をぱちくりさせて、隣りを見た。


「何って、ユキノちゃんがやってたから、やってみているんだよ」


 春子の隣に座る少女、ユキノちゃんの眼鏡の奥の目が、時折吹いてくる風の如く冷たくなった。


「あのね」


 ユキノちゃんは親指を立てて校舎に向かって腕を伸ばし、呆れたように言った。


「これね、ただやってるんじゃないの。校舎と親指の比率がどうなってるか測っているの!!」

「む」


 そうだったのか。

 春子はぽかんとして、腕を下した。

 体の芯に響く冷たい風が、画板の描きかけの画用紙をはらりとめくり、からかうように頬を撫ぜていった。


 この時間は図画工作の時間である。

太陽を見せない白っぽい空の下、春子のクラスメイト達はコートを着て、画板を首から下げ、校庭で思い思いの場所を選び、写生に励んでいる。

 春子は赤いコートを着ている。隣に座るユキノちゃんは紺色の素っ気ないコートを着ている。木々は淋しい枝を晒している。今日は寒いのだ。

 まだ春の日が遠い外での写生に、クラスメイトの一部から「何でこんな寒い日に、しかも何もない外で写生をしなければならないのか」と文句も出たのだが、図画工作の先生はにっこりして言ったのだった。


「何もないように見える風景を描くことで、そのものの形や雰囲気を注意深く観察するようになる。それはとても、絵を描くときに、大事なことなんだよ」


 それでも、クラスのある男子は抵抗した。


「でも先生、外寒いんだけど」


 先生は、にっこりして、朗らかに言った。


「君たちにはコートがあるじゃないか」


 図画工作の先生は、若い男の先生だ。背が高く、黒髪はくるくるしている。色白で、鼻が高く、オシャレな黒縁眼鏡の奥には優しげな瞳が光っている。

 こんな物腰柔らかな、ハンサムな先生が言うと、なんとなく従わなければならないオーラが出る。皆、コートを着て、ぞろぞろと外に出るわけである。



 魔法の言葉みたいだ、と春子は思う。

 春子の図画工作の腕前は知れたもので、課題をこなすにはただ必死に絵を描くほかない。

 でも、「何もないように見える風景」を「注意深く観察する」ことは得意だ。なんとなく、自分が見えているものを描いていいと言われた気がして、春子は一心に鉛筆を走らせた。

 春子と同じ場所を選んで絵を描いていたユキノちゃんが、親指を立てて突き出して片目をつむっていた。何となく格好良いなと思い、真似してみたのである。もとい、ユキノちゃんは絵が上手いので、あやかろうと思った。春子だって、上手に絵を描きたいのだ。

 今も同じアングルで描いているはずなのに、どうしてこうも違うのだろうとユキノちゃんの絵を覗き、春子は首を傾げる。


「ユキノちゃんは絵を習っているの?」


 春子が訊ねると、ユキノちゃんはフンと鼻で笑った。


「そうよ。あのさ、そんなに仲良くないんだから、気安く名前で呼ばないでくれる?なんか春子ちゃんにそう呼ばれたくないんだよね」


 む、と春子は目をぱちくりさせて、首を竦めた。

 春子が絵を描く場所を決めて座ったら、隣りに座ったから、てっきり春子と仲良くなりたいのかと思ったじゃないか。

 少し傷付き、不愉快になって、春子は次から話し掛けてなるものかと憤然とした。

 ユキノちゃんの苗字知らない。覚えてない。今度から呼べないじゃないか。まぁいいや今度から話さないから。

 春子は気を取り直して、冬木の枝上にある白い卵を絵の中に描き入れた。

 と、ユキノちゃんは春子の画板の絵を覗いたらしい。


「春子ちゃん、それ、なに」


 む、さっきみたいなことを言っておいて、自分は話しかけてくるとは何事だ。

 春子が憤然として卵の楕円形をぐりぐりと4Bの鉛筆でなぞって、無視していると、機嫌の悪そうな声でユキノちゃんは言った。


「そんなの、木の上にないじゃん。へんなの」


 む?


 一瞬聞き流そうとした春子は、画用紙から顔を上げて、もう一度木の上に何があるのか見た。




「さて、次の人」


 春子はぶすっとした顔で画用紙を差し出し、先生は柔和な笑顔でそれを受け取った。

 図画工作の時間では、皆が写生した絵を、先生が見てくれることになっていた。クラスメイト全員に、それぞれの絵のよさを教え、アドバイスをくれるのである。

 春子の絵を見た先生は、うーんと暫く眺めて、言った。


「なんというか、すごく妖気が漲っている感じの絵だねぇ」


 春子が校舎の昇降口前と、その近くの木の雰囲気を見ながら精一杯描いた結果である。


「ん?これは何かな?」


 先生が絵の中の卵を指差すと、春子の隣で先生の講評の順番待ちをしていたユキノちゃんがすかさず言った。


「春子ちゃん、そんなのあるって言うんですよ。変ですよね」


 むっとして、春子は大きな目でギンと隣を睨んだ。

 変なのは分かっている。よく考えたら、冬の木の枝に、白い卵がぽつんと引っかかっていることなんてない。ユキノちゃんが「そんなのない」と言うのなら、それはきっと、春子だから見えるものなのである。

 いつもなら、どうやら春子にしか見えないものらしいと分かれば、春子は巧みにそれを隠蔽する。そして、後で「脱妖怪」のおじいちゃんか兄の実に話して発散する。あんまり変な行動をとっていると、大変なことになると、母の不思議なものヒステリーを見ていたら分かる。どうせ、春子は〝普通なら理解されない物事〟に敏感なのだ。

 しかし、今日は〝ユキノちゃんに指摘されたから描くのを辞めた〟という状況になるのを許せず、怒りのまま、絵の中に樹上の卵を描き残した。言われっ放しはあまりに悔しい。

 先生に「妖気が漲っている」と評された、4Bでぐりぐりと輪郭が描かれた風景画の中に、ぽつねんと、特に強調されたその楕円形は、白く存在感を放っている。

 上目遣いで、先生が春子を窺う。


「こんなの、あったの」

「卵です。卵があったんです」


 アホ扱いされるだろうか、しかし悔いなしという気持ちで春子は断定する。

 先生はふむ、と頬に手を当てて思案する。


「珍しいですね」

「そうですね」


 予想外の反応に、狼狽えつつ、春子も頷く。すると、先生は意外な提案をした。


「遠野さん、君、これを僕のところに持って来れますか」


 春子は目を丸くした。


「やってみることは、できると思います」


 先生は、例の柔和な笑顔で、頷いた。


「じゃあ、手に入ったら先生のところに持っておいで。いいものにしてあげよう。来週も授業は写生にするけど、そうすれば、これはなくなっているだろうしね」


 先生の長い指が、絵の中の卵をトントン、と叩いた。





「で、あの卵をとってくるのね?」


 春子は半ば信じられない、という気持ちで頷いた。


「う、うん」


 葉の落ちた木の下に、赤いランドセル、ふたつ。

 春子の視線の先には、木の上の卵を見上げている友人ルミカちゃんがいる。

 驚くべきことに、ルミカちゃんにも樹上の卵が見えた。先生に受け容れられた態度をとられたこと自体びっくりなのに、今日はどうなっているのだろうと春子は戸惑う。

 ルミカちゃんは、天然である以外にも、前から不思議なところがある。運動会のときに春子が追っていた妖怪を認識していたし、異常事態の起った夢の中にも出てきて、多分助けてくれた。おそらく今現在、ルミカちゃんは自分の特異性を自覚していないけれど、春子が見えているものについては、事前に春子が言っておけば、認識できる感覚があるらしい。

 放課後、一緒に帰ろうと教室にやってきたルミカちゃんに、事情を隠さず説明して、昇降口前の木がある場所に連れてきたら、春子が指摘するより前に「あ、ほんと。木の上に卵があるなんて珍しいわね。ニワトリかしら」とルミカちゃんは卵を指さした。

 春子にとって、こういう会話が通じる他人は、貴重だ。

 ぎゅっと赤いコートの袖口を春子は握り締めた。ルミカちゃんが春子の学校生活に、なくてはならない存在になっていることを、改めて感じる。


「どうやってとるつもりなの?」


 ふんわり疑問を伝えてくるルミカちゃんに、春子はうーむと悩んでから答えた。


「分かんないけど、たのむしかないかも」

「たのむって、誰に?」

「木に」

「なるほど」


 うんうん、と頷くルミカちゃんを見て、春子は切なくなった。


 春子は「脱妖怪」の孫、という、異色の出自をもつ。

 そのため、変なものや、おかしなものに、遭遇することがよくある。


 祖父は祖母に恋して妖怪を辞めた「脱妖怪」。よく分からない存在だが、とりあえず、得体の知れない雰囲気を醸し出すおじいちゃんである。春子にとって、それが当たり前の世界は、同級生その他の人達より広いといえた。春子が小学校低学年の頃、クラスメイトに関心がなく、所属意識も曖昧だったのは、このためである。春子にとって、世界はクラスの中だけではなく、おかしなものや、変なもの、不思議な出来事があって、興味の対象はより多くの物事に分布していたのである。

 ルミカちゃんと仲良くなって、春子は大分変った。勿論、それだけではないけれど。

 春子は木の前に立つと、ぽんぽん、とざらざらする幹を叩いて、話しかけた。


「木さん」

「ケヤキさんじゃないかしら」

「そうなの?」

「うん、多分」

「じゃあ、ケヤキさん」


 普通の人だったら、この言葉は伝わらないのかも知れない。

 けれど、春子は人間の中の変わり種。言葉の影響する範囲も、多分違う。

 だから、語りかけてみる。


「その枝の上の卵、丸いものです、重たくありませんか。よければわたしが持ちます。もらいます。わたしにくれませんか」


 下校する子供たちが、側を通り過ぎていく。騒がしく、遊びながら、通り過ぎていく。校庭では鬼ごっこをしたり、ボール遊びをする子たちの声が響く。

 コートを着込んだ春子とルミカちゃんと木の間に、冷たい風が吹き抜けた。


「何も言わないわね」


 心配そうに、ルミカちゃんが眉を八の字にして、悲しげに言う。

 ケヤキが発言することはおそらくないが、春子は黙って待っていた。木に意識を集中させる。

 と、ぽつんと頭に、何か小さいものが当たった。

 む?と上を向くと、木から小さな丸いものが、バラバラとたくさん落ちてくるところだった。

 ぎょっとして、口に入りそうだから下を向くと、雨のように実のようなものが大量に弾けて散った。

 これはどういうことだと春子が固まっていると、ルミカちゃんが声を上げた。


「春子ちゃん、上!」


 ピシ、と枝の鳴る音が聞こえて、春子は急いでまた上を向いた。

 樹上の白い卵が、枝の上でアンバランスに揺れている。ふわふわしていると思ったら、細い枝の上を徐々に滑って、つるりと落ちてきた。

 あっと思って春子が両手をお皿にして待ち受けたら、卵がすぽりとその中に落ちて、収まった。


「春子ちゃん、ナイスキャッチ!」


 ルミカちゃんが高い声を上げて喜んだ。

 卵は鶏の卵よりも大きく、軽かった。ほんわりとした重みは感じるが、あの黄身と白身のどろりとした液体が入っている重みではない。


「ねぇ、春子ちゃん、これどうするの?」


 ルミカちゃんがしゃがんで丸い実を拾った。

 春子はケヤキの木を見上げた。当たり前だが、ケヤキはうんともすんとも言わない。むぅ、と考えて、春子は結論を出した。


「全部拾って、色んなところにまく」

「大変じゃない?すごくたくさんあるわよ」

「ん、でもやる」


 悩ましく思うも、卵が手に入ったからには、この大量の実はケヤキに「これよろしく」と言われたとしか思えない。


「分かったわ」


 ルミカちゃんはそう言うと、実を拾い始めた。

 一緒に拾ってくれるんだ、と思うと、春子は胸がじんとした。少し感傷的になる。

 文房具を入れている巾着袋を空にして、ルミカちゃんとその中に実を集めた。

 春子は下を向いて、実を拾っていたが、ふとした時に訊いた。


「ルミカちゃん、転校するんだね」


 ルミカちゃんは、少しの間手を止めて下を向いていたが、うん、と頷いた。




 クラスの違うルミカちゃんの転校は、春子の母がルミカちゃんの母からその話を聞いていたので知った。

 次にマキちゃんからも聞いた。


「ルミカちゃん転校するってね。これであんたも一人ぼっちだね」


 何故か勝ち誇ったようだった。


「転校するかも知れないけど、ルミカちゃんとはずっと友達だよ」


 そう言ったら、何故か今度は泣かれた。

 春子はマキちゃんが何を勝ち誇っていたのかさっぱり分からず戸惑ったが、春子を悲しい気持ちにさせたかったのではないかと感付いた。実際、内心春子は悲しい気持ちでいっぱいだったからだ。

 ルミカちゃんはクラスが離れても、休み時間毎に春子のところに遊びに来てくれていた。話もした。放課後に一緒に遊んだ。長い休みがあっても、遊んだ。そういうルミカちゃんを、どれだけ頼りにしていたのか、いなくなると知って、春子は初めて気が付いた。

 こんなことにも気が付いた。ルミカちゃんが、春子と同じように、ずっと友達だと思ってくれているかも、分からない。

 塞ぎこんだ気分を隠しながら、春子はルミカちゃんと過ごせる残り僅かな学校生活を送っていた。




「さて、持って来てくれたね、卵」


 図工室の準備室に卵を持って行くと、先生がにっこり微笑んだ。

 準備室には、絵を乾かす台や、石膏のイケメンが佇んでいたりと雑然としていた。イーゼルには油絵のキャンバスが立てかけてある。

 机の上に置いてあるパレットには、絵の具の彩りがマーブル模様のように渦巻いていた。キャンパスにはドアの絵が、かなりのリアリティを以て描かれていた。先生の白いワイシャツには絵の具がついていて、絵筆を持っていたから、キャンパスの絵を先生が描いたのだと知れた。


「先生、そのドアはどこのドア?」


 赤茶色をしていて、つやつやした感じの木のドアは、図工室のドアを描いたものでもなく、学内にあるドアでもなさそうだった。


「うん、次の場所に行こうと思ってね」


 わけの分からない答えだったが、先生がにっこり笑って言うから、それでいい気がしてくる。

 先生は春子から大きな手で卵を受け取り、片手で持つと、たちまち卵を刷毛で空色に塗ってしまった。

 それから、細筆でピンクの波を描き、金の星を描き、緑や赤で水玉模様を描いた。黄色い絵の具で卵を一周する帯を描き、卵全体を点検すると、うん、と納得して絵筆を置いた。


「はい、これあげる」


 こっちに返すんかい、と春子は卵を受け取った。絵の具塗ったばかりだと思い出したが、不思議と絵の具が手に付くことはなかった。

 綺麗に模様をつけられた卵はまるで、宇宙で起こっていることをぐるりと描いているみたいだ。


「これ、どうするんですか」


 そう訊ねると、先生は魅力的な笑顔で言った。


「大事な人への贈り物にすればいいよ」




 だから、春子はこの綺麗に色付けされた卵を、ルミカちゃんにプレゼントすることにした。

 下校を待っていてくれたルミカちゃんを公園に誘うと、春子は綺麗に色付けされた卵を取り出してルミカちゃんに説明した。


「これ、図工の先生が色付けしてくれたんだ」


 ブランコに並んで乗り、春子はルミカちゃんに差し出した。


「大事な人におくりなさいって」


 照れくさいながらルミカちゃんに差し出すと、ルミカちゃんはその茶色い目を丸くして、ぽかんとした。


「わたしにくれるの?」

「うん」


 すると、ルミカちゃんはそのシュガーピンクの頬を紅潮させ、眉を八の字にさせて悲しそうな顔をした。


「春子ちゃん、わたしにそんな資格ないのよ」


 思わぬ言葉に、春子は首を傾げた。


「しかく?」


 ルミカちゃんは俯いて、ブランコを漕いだ。漕ぐたびに柔らかくて茶色っぽい髪の毛がふわり、ふわりと揺れる。


「最初にね、春子ちゃんと仲良くしたかったのって、カレンちゃんだったのよ」


 何故いま、カレンちゃんの話。

 春子はぽかんとしたが、最初に、と言われて脳内が回想モードに入った。

 あれは一年以上前、三年生の夏休み前。カレンちゃん、マキちゃん、ルミカちゃんが一緒に、春子に話しかけるようになった。そういえば、確か、最初はカレンちゃんとよく口を利いていた気がする。夏祭りに誘ってくれたのも、カレンちゃんだった。

 しかし、四人で行動を共にするようになった頃から、マキちゃんが春子を邪険にするようになった。理由は分からないが、春子が邪魔なのは伝わってきたし、嫌われている、と思った。そして、四年生になってから、ありもしない高橋君との仲と村田君との浮気の噂を立てられ、迷惑したのは記憶に新しい。

 それをきっかけに、春子は同じクラスでもマキちゃんと関わらないようになった。カレンちゃんもマキちゃんと関わらなくなったが、春子はカレンちゃんとも距離を置くようにした。悪評を立てられ、春子がマキちゃんと対立したとき、カレンちゃんは春子について嘘の目撃情報を皆の前で言った。そのためにマキちゃんに非があるのだと皆に知られたのだが、春子はカレンちゃんが何故噓をついたのが、どうしても理解できなかったからだ。

 春子はマキちゃんに讒言を広められて、許し難く思ったけど、カレンちゃんがマキちゃんを叩きのめすように論破し、嘘までついてマキちゃんを貶めたのには不信感を持った。春子はマキちゃんを許せない。春子を蔑む目を覚えている。でも、マキちゃんがカレンちゃんに怒られて本気で恐れ、青い顔をしていたのも覚えている。マキちゃんはあの一件で決定的に周囲の信用を失くし、今も孤立している。

 力関係の不気味さに、春子はほとほと疲れた。

 そんな経緯で、現在、春子にはマキちゃんはもとより、カレンちゃんともさほど接触がない。


 回想終了。


 はて。

 一体、〝春子のプレゼントを受け取るしかく〟に何の関係があるのだろう、とルミカちゃんの話の展開が分からず、春子は傾げた首を反対方向に傾げた。


「カレンちゃんはね、幼稚園の頃から人気者だったの。可愛いし、流行のアクセサリーもすぐ持ってるし、頭がいいから、友達がたくさんいたわ。わたしも仲良くしたかったけど、みんなに囲まれて、いつも話ができなかったの。一番仲が良かったのはね、マキちゃん。カレンちゃんと家が近くて、お母さん同士も仲が良いから、いつも一緒に帰っていたし、遊んでいたのね。マキちゃんはね、人気者のカレンちゃんと一番仲が良いんだって、自慢だったの」


 ふと見えた横顔が、切なそうで、春子は驚いた。ルミカちゃんが大人っぽく見えたのだ。


「だけどね、小学校に入ってもそんな感じだから、カレンちゃんはうっとうしかったみたい。何をしても、どんな子と遊ぼうとしても、マキちゃんがついてくるから。困っちゃったのね。それで、クラスであまり友達のできなかったわたしと仲良くして、マキちゃんとはなれてみようとしたみたいだけど、カレンちゃんはわたしのこと、あまり好きになれなかったみたい」


 段々分かってきた気がして、春子はもしかして、と口にした。


「春子と仲良くしようとしてきたのって、カレンちゃんがマキちゃんとはなれたかったからなの」

「うん。他の子と仲良くして、マキちゃんが一人ぼっちになったら、仲良い二人につきまとってる女の子ってことになって、追い払いやすいから」

「む?よく分からない」

「春子ちゃんそういうの興味ないもんね。春子ちゃんがカレンちゃんと仲良くなれば、自然にマキちゃんがカレンちゃんと一緒にいられる時間が減るでしょ。そうやってマキちゃんから、はなれようとしていたのよ。カレンちゃんは人気者だから、多分『みんな自分と仲良くしたいんだ』と思っていたと思うの。だからきっと、春子ちゃんがあまりカレンちゃんと積極的に仲良くしようとしなかったのは、誤算だったのね」


 春子は初めて納得した。それなら、カレンちゃんがわざわざマキちゃんを貶めたのも理解できる。

 カレンちゃんはマキちゃんを弾劾した時、「絶交する」と言っていた。それが目的だったのだ。そうしたいがために、カレンちゃんはマキちゃんが春子を貶めようとしたのを利用して、徹底的にマキちゃんの非を糾弾したのだ。嘘を吐いてまで。

 いわゆる、大義名分、というやつ。「絶交する」とマキちゃんを除け者にしても、それだけの理由があるんだと、あの時みんな思っただろう。仲が良いマキちゃんが孤立しても、カレンちゃんが怒っているのにはわけがあるのだと、カレンちゃんを悪者だと誰も思わなかっただろう。

 そして、あの後から、マキちゃんは孤立し、カレンちゃんは他の女の子のグループと一緒に行動するようになった。

 すとん、と思考の整理箱に収まったところで、春子は、む?とまた首を反対方向に傾げた。


「それで?」

「え?」

「何で、ルミカちゃんに、しかく、ないの?」

「だって」


 ルミカちゃんの目からぽろ、と涙が零れたので、春子は慌てた。


「む?!」

「だって、春子ちゃんがマキちゃんに嫌われてるって、分かってたもの。春子ちゃんが、カレンちゃんのことも、マキちゃんのことも、好きなんだって、分かってたもの。でも、わたし、春子ちゃんと仲良くしたくて、カレンちゃんが仲良くしようとしてるところに、わりこんだの。何にも知らないふりして。ほんとは何か言えたかも知れないのに。カレンちゃんと、春子ちゃんが仲良くなってたかも知れないのに」


 春子は、こんなことを言うルミカちゃんが何故泣いているのかが分からない。言っていることも、どうもよく分からない。まるでカレンちゃんと仲良くなった方がよかったみたいだ。

 しかし、なんだかそんなの、悲しい。


「あんまり関係ないよ。わたしが友達だと思うのはルミカちゃんだもの。仲良くしてくれたから仲良くできたもの。仲良くしたいって仲良くしたいってことだよ。だから友達なんだよ」


 言いながら頭がこんがらがってきたが、まあいいやと思う。


「ルミカちゃんが春子のことを友達だと思ってくれていたらうれしい。カレンちゃんはカレンちゃんで別人だし、わたしはルミカちゃんと仲良くできてうれしかったよ。というか、マキちゃんに転校してもルミカちゃんとは友達って言っちゃった」


 ルミカちゃんの瞳がキラキラッと光った。


「それ、ほんと?」

「む」


 頷くと、ルミカちゃんがわぁと泣いて、抱きついてきた。

春子はやっぱり、ルミカちゃんが泣いている理由が分からなかった。が、この涙はさきほどの涙とは違うのだろうと結論付けた。

 仲良くしたいとか友達だとか、人間関係は難しいのぅ。

 胸の内におじいちゃん口調で呟いた。思いもよらない理由で、人は行動するし、発言するし、離れたりくっついたりするのだ。

 春子にとって、カレンちゃんやマキちゃんと遊んだりしたのは、嬉しいことだった。だけど、マキちゃんは、悲しみと悔しさと怒りをもたらし、カレンちゃんは、春子に不信感をもたらした。それだけ。

 そんな中で、ルミカちゃんは、常に友人でいてくれ、味方だった。ふんわりしていて、春子もびっくりするようなことを時々言う、春子と同じ、人とは異なる感覚を持っている人だった。自覚的ではないが、普通の人より、春子が見聞きできるもの様々、受け容れる素地を持った人だ。

 春子とルミカちゃんはたくさん話をしたし、遊んだ。そして冬空の公園で、寒いなぁと思いながら裸の木を眺めて、本音を話合えるくらいの仲だ。

 友人と過ごす楽しみや、会話に救われる気持ちをくれたのは、ルミカちゃんだ。


「ルミカちゃん」

「なに?」

「転校しても友達でいてくれる?」


 ルミカちゃんは春子から離れると、うん、と頷いた。


「春子ちゃんの家に遊びに行くよ。パソコンのメールもする。年賀状も書く。携帯電話を買ってもらったら、絶対メールしようね。わたしの家にも遊びに来て」

「うん」


 春子は手の中の、模様が付けられた綺麗な卵を見た。そして、それを差し出した。


「はい」

「ほんとにいいの?」

「うん。だって一番最初に思い付いたんだよ。ルミカちゃんにあげようって」


 ルミカちゃんは微笑んだ。


「わたし、春子ちゃんと仲良くなれてよかった。ありがとう」

「わたしもそう思ってる」


 そうして、ルミカちゃんが卵を受け取った、その途端、

 ピシリ、と卵の殻にひびが入った。


「む?!」

「あら」


 動揺した春子の声と、おっとりしたルミカちゃんの声が重なった。

 殻に次々と細かいひびが入り、中から光が漏れてきて―――




 光に照らされて目を瞑り、再び目を開けると、そこは青い星空の広がる宇宙空間だった。


「きゃあ、なにこれ、ステキ!」


 戸惑う春子の耳に飛び込んできたのは、ルミカちゃんのはしゃいでいる声だ。

 はっとして隣りを見ると、ピンクのコートのルミカちゃん。星々を見上げて目を輝かせている。

 ルミカちゃんまで、と春子は慌てそうになったが、ルミカちゃんはあの綺麗な彩りの卵を、殻の割れかかった状態で手にしている。その割れて一部殻が剥がれたところから、光が滾々として、青い空間にキラキラと散っていた。

 ルミカちゃんは喜々たる表情で春子に訊ねた。


「何これ、プラネタリウム?!」

「分かんない!!!」


 春子はとりあえず、離れてはならぬとルミカちゃんと腕を組んだ。得体の知れない状況に放り出されて、春子の心臓はバクバクと音を立てていた。


 青い世界に金や銀の星が瞬く。尾を引いて、次々と零れ落ちてきた。

 その流れ星に、周囲の風景が引っ張られるようにして回転した。

 そして、次の瞬間、春子とルミカちゃんは色とりどりの花が咲く草原に立っていた。


「わあ」


 ルミカちゃんは感嘆の声を上げて、躊躇なく春子から離れて、大地を歩き出した。

 春子はおろおろと一歩二歩踏み出し、とりあえず、と草がそよぐ中で深呼吸し、落ち着くことにした。


 青い空にマジックアワーの金色の光りがかかり、風が吹いて淡いクリーム色をした雲を棚引かせている。

 草原は輝いて波打ち、赤やオレンジや白や紫の花々が、楽しげに踊っていた。

 ルミカちゃんは赤いランドセルを背負ったまま、くるくるとその場で回り、はしゃいだ。風がルミカちゃんの色素の薄い、長い髪をさらう。それさえ、純粋な感動を以て、纏っている。

 春子は風に吹かれて、草原に立ち尽くし、とにかく心臓を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。何これ、と頭の中で問いが繰り返される。

まったくの不意打ち。圧倒された。こんな予想のつかないことになるとは思わなかった。

 ルミカちゃんが急に春子を振り返り、呼びかけた。


「ねぇ、春子ちゃん。ここにあのケヤキさんの実をまいたら?」

「む?」

「きっと、ここなら気に入るわよ」


 草原は美しく、花は豊か。風は気持ちいい。なるほど、と春子は頷いた。巾着袋を取り出し、実を蒔き始めた。ルミカちゃんも春子から実をいくから受け取り、あちらこちらに蒔く。

 実を蒔きながら、ルミカちゃんと歩き、春子は考えた。ルミカちゃんの手には、あの光を出す卵がある。因果関係ははっきりしないが、多分この状況はあの卵のせいで、そしてこの状況は、きっとルミカちゃんの性に合った環境なのだろう。でなければこの適応能力は有り得ない。

 それならば、春子はルミカちゃんの言うことを聞いて、ついて行こう。

そう決めると、少し気が楽になった。

 草を分けて歩いて行くと、小川が見えてきた。小川には綺麗な水が流れていて、小舟が停めてあった。


「春子ちゃん、これに乗ってみましょう」


 春子とルミカちゃんは共に小舟に乗り、川を下って行った。

 空はやがて夕暮の色になり、草原は闇に沈んでいった。

 春子とルミカちゃんは手を繋いで、小舟に乗っていた。川底にぼんやりした光がぽつり、ぽつりと映るのに気が付いて、二人は身を乗り出した。


「何かな」

「町があるように見えるわ」

「町?」


 春子がよく目を凝らして覗くと、いつの間にか二人の舟が夜の町の上を飛んでいて、声を上げそうになった。


 町の道々には明かりが灯り、色とりどりの飾りがつけられ、提灯の赤っぽい光で満たされていた。大人も子供もお洒落をして、賑やかに石畳の道を行き交っていた。赤いレンガの建物に、白い漆喰、鐘。人々も、格好も、日本ではなかった。

 お祭りのようで、縁日をやっているらしい。道の両際に出店が並んでいて、食べ物や玩具を売っている。

 家族連れ、制服を着た男の子たち、仲睦まじい恋人たち、歌や楽器を奏でる人たち。楽しそうに、人々は過ごしている。


「ねぇ、春子ちゃん、あれ」


 ルミカちゃんが指差す先に、木彫りの人形をたくさん置いた店があり、色とりどりの彩色された卵も一緒に並べられていた。よく見ると、他のランプ屋や、天体模型屋、お菓子屋にもその卵が並べられている。

 黒っぽいローブの、フードをすっぽり被った仮面屋の商人が、色付けた卵を勧めていた。


「この卵みたいだね」

「そうみたい」


 ルミカちゃんの手元の卵は、光を溢れさせて、少しずつその殻を光と共に消耗して、欠けつつあった。

 町の上には真っ黒な夜が広がり、真っ白な満月だけが、ひときわ白く妖しく輝いていた。


「ルミカちゃん、これ、すごいね!」

「ほんと!」


 ようやく余裕の出て来た春子に、ルミカちゃんは楽しそうに頷いた。


 ぐっと舟は高度を下げて、家の屋根すれすれを飛び、町はずれまでくると、暗い森の中に入って行った。

 気が付いたら春子とルミカちゃんは、最初から舟などなかったかのように、暗い道を、手を繋いで歩いていた。

 鬱蒼として黒い枝葉が蔽い繁り、二人の歩く音がざ、ざ、と響く。頼りは繋いだ手と、ルミカちゃんの手にある卵の光りだけだ。

 二人は何故か、立ち止まろうとは思わなかった。道は進むもので、恐怖心はなかった。春子はケヤキの実を落していく余裕すらあった。ルミカちゃんが少し先を行って、手を引いてくれているからかも知れない。

 道の行く先がほんのり明るくなってきた。燐光が漏れてきて、誰かがいるのだろうと思って進むと、拓けた場所に出た。

 そこでは、森の中の舞踏会が開催されていた。忽然と現れた森の中の空き地に、たくさんの女の人と男の人が、踊っていた。皆、金髪で、色が白く、背が高くて、美しい人たちだった。幻のように光っていて、笑っていて、楽しそうだ。

 白馬に乗った、ひときわ立派な装束の、冠を被った王様とお妃様が、手を取り合って微笑み合い、それを眺めている。

 ルミカちゃんが手を引いて、一瞬その中に入って行こうとしたが、春子は慌てて止めて、舞踏会の中に入って行かないよう、その場所を迂回した。


「何であの中に入って行っちゃいけないの?楽しそうよ」


 不思議そうに聞くルミカちゃんに、春子は自分の危機感を信じて、答えた。


「一度、あの中に入ったら、二度と出てこれない気がしたの」


 そう?と不思議そうだったが、それ以上ルミカちゃんは異論を唱えなかった。

 舞踏会の空き地を後にすると、二人は再び暗い森の中を歩いた。今度は春子が先に立った。

 静かな暗闇に、ふぅっと光が横切った。また、別の方向から横切ったので、それが蛍だと分かった。

 ひとつ、ふたつ光って、そして、一斉に春子とルミカちゃんの周囲を、その小さな光が照らした。

 春子とルミカちゃんは、葦のたくさん生えた沼の上に立っていた。


「これもすごいわね」


 ぎょっとした春子の一方で、ルミカちゃんはごく当たり前そうに感動していた。

 二人は鏡面のような沼の上を滑るように進んだ。必要な光りが、あちこちで点滅し、交互に進むべきところを照らした。葦を潜り抜け、陸に上がって、ついに二人は森を抜けた。


 そこは拓けて、朝日が昇る丘が目路に広がっていた。足下にはクローバーの葉がいっぱいに生え、それがどこまでも続いている。

 風が、上空でごうと唸った。薄紫色の雲が、光を受けている。途切れたところから、光がカーテンのように降りてきていた。

 広々とした大地に、風が吹き渡って、春子は眩しさに目を細めた。

 ルミカちゃんは長い髪の毛を風に遊ばせて、光を指差して、生き生きと言った。



「春子ちゃん、あれに登りましょう」



「あれって?」


 ルミカちゃんが力強く言った。


「光のはしごよ」



 雲の絶え間から降りてくる光が、真っ直ぐ大地に伸びて、梯子を作っていた。

 二人はクローバーの絨毯の上を走って、梯子の根っこに辿り着いた。春子はその間に、ケヤキの実を落し、ほとんど巾着の中身をなくした。

 ルミカちゃんの手元の卵は、ほとんどなくなりそうに、光を零していた。キラキラと手元から落ちていき、光の粒は地面に着く前に消えていく。

卵が消えてしまったらどうなるのだろうと心配になってしまうが、ルミカちゃんはそれをあまり気にした様子でなかった。


「わたしが先に登るわね」


 ルミカちゃんが梯子に手をかけて、一歩一歩登って行った。

 普段体育で、春子と同じく、登り棒が登れないルミカちゃんである。すごく積極的、と春子は感心する。

 この異常な状況で、立ち止まらず、軽々と乗り越えていく。いつものふわふわしたルミカちゃんに相応しい行動にも思えて、改めて春子は特異な性の友人なのだと確信した。

 生き生きとした姿。ここは明らかに、ルミカちゃんの独壇場だ。

 春子は梯子に手をかけ、足をかけ、登った。光の梯子は実体がないはずなのに、そのまますいすいと登れた。

 コートとランドセルで動きにくい、と思いながら、途中で休んで、下を向くと随分と高いところまで来ていると分かった。クローバーの草原は遠い。急に髪を靡かせる風が気になった。

 遠くに鳥が伸び伸びと群れで飛んで、朝を謳歌している。


 ここはどこなんだろう。

 春子は不思議な気持ちで、世界を見回す。

 上を見ると、梯子を登るルミカちゃんの姿が目に入る。

 この世界を悠々と歩む、ルミカちゃんは一体何者なのだろう。


 答えは出ない。

 春子は再び登り始めた。ルミカちゃん自身は、きっと自分の特異性を分かっていない。だけど、春子はこの世界の住人であるルミカちゃんの歩みを、信用している。


 ふっ、と頭上のルミカちゃんの影が消えた。春子が梯子を登り切って天辺に掴まると、そこから空と雲と草原が見渡せた。

 目の前には、ピンクのロングカーペットのようなものが、リボンみたいにして宙にうねって下方へと向かっていた。よく見たら、どうやらルミカちゃんはその上を滑り台のように滑って降りているらしい。

 ものすごく高いところにいることを思い出して、春子は頭がくらくらする思いがしたが、躊躇は一瞬のことだった。

 ピンクのロングカーペットの上に座り、自分の身体を押し出した。

 シューッと風を切って降下していき、カーペットがカーブしたり、上がったり下がったりする毎に、ジェットコースターに乗った時みたいな浮遊感を味わった。

 そして、宙を滑り下りた――――



 すとん、と足がつく。


 春子はもとの公園に立っていた。

 まるで、目が覚めたときのような気持ちがする。空は白濁して、空気は冷たい。明るさや、天気から、時間はさほど経っていなさそうに思えた。

 もう、何時間も、何日間も別の場所に行っていた気分だ。

 ふわふわと浮ついた気分で茫然としていたが、はっとしてルミカちゃんはどこかと探すと、すぐ隣にぽーっとして立っていた。

 その手には、何も持っていない。


「何だったのかしら、今の」


 ルミカちゃんがぼんやり言った。


「春子もわけが分からない」

「そうよね。夢だったのかしら」


 ああ、そっか。

 春子はルミカちゃんの言葉に頷いた。


「夢だったのかも」



 あまりにぼんやりとした余韻が残るものだから、春子とルミカちゃんは公園のベンチに座って休んだ。暫くすると二人は元気になって、さきほどの旅を興奮気味に話した。


「すごかったわね。何だったのかしら。二人で見る夢?」

「あの卵が原因だったみたいだけど」

「卵、もうなくなっちゃったわ」


 ルミカちゃんが残念そうに言ったが、次には微笑んだ。


「でも、春子ちゃん、ありがとう。とても楽しかった」


 春子はうん、と頷いた。


 この時、春子は泣きそうだった。

 ルミカちゃんは自分の特異性に自覚的ではない。となると、自分の特異な体験にも、自覚的ではないということで、春子とは違って、さきほどの出来事はやがて忘れてしまう可能性が高かった。

人間として普通に生きるということは、人間としての常識に沿って生きるということだ。

 夢だか、現実だか分からない出来事だった。おそらく、それは現実として処理されないだろう。

ルミカちゃんが、いつまでもさきほどの出来事を、覚えているとは限らない。あの綺麗な柄の卵も、消えてしまった。

 だけど、春子は絶対覚えている。手を繋いで、歩き、進み、見た風景を。圧倒された感情を、感動を。

 ルミカちゃんを信じて、時に手を引いてもらい、共に旅した世界を。


「わたしも楽しかった。ありがとう」


 巾着袋の奥底に、一粒、ケヤキの実が残っていた。春子はルミカちゃんと公園の隅にそれを蒔いて、下校した。




 ルミカちゃんは四年生の三学期が終わると、引っ越して行った。二駅先なので、意外とすぐ会える距離だった。春子は度々、その家に訪ねに行くことになる。言わずもがな、春子とルミカちゃんは友人同士だからだ。

 よくよく考えてみれば、卵の件で怪しいのは図工の先生なのだが、春子はその後追及しなかった。悪いことではなかったし、どちらかというと大事なことを教えてもらった気がするからだ。

 授業で卵を消した風景画を提出したら、先生はにっこりして、春子にウインクしてみせた。

 不思議なことに、春子はそのハンサムな先生の名前を覚えなかった。覚えられなかった、と言っていい。先生は次の年度には転任してしまい、春子はそれを知って初めて自分が先生の名前を覚えていなかったと、気付いた。

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