21 経理課の猫尾さん
春子ちゃんのお父さんとお母さんのなれそめ話です。
ブログ掲載*二〇一二年十月十九日
テーマ*珈琲
『シリーズ表集4 華 春子と不思議な物語 四年生、春と夏』という紙媒体に収録しています。
2012.11.18発行
細かい数字が並ぶ書面に視線を落としていると、ふわりと香りが漂ってきた。
まるで珈琲専門店にいるかのような、挽きたてのコーヒーの匂い。思わず深呼吸をする。顔を上げたタイミングで、デスクにカップがコトリと置かれた。
「ありがとう」
白いブラウスと濃紺の制服に身を包んだ女性が振り返る。猫を思わせる笑顔で「いいえ」と言って、向き直った。
やっぱり彼女だ。
背中姿を見送る。
溜め息をつき、書類を置く。椅子の背もたれに身を預ける。数字との格闘は兎に角疲れる。眉間より少し下を揉みながら、カップに手を伸ばして口元に近付けた。
「ふーむ」
思わずほっとする、香り、深い味わい。書類に疲れたときは、この一服が最高。
コーヒーカップを載せたワゴンを押して、デスクの合間を進む濃紺の制服を目で追う。次々に仕事中の社員にコーヒーが行き渡り、香りが広がっていく。ぴりぴりとした雰囲気も、広がっていく。口々に礼を言い、コーヒーの香りに手を止める。
中には彼女がコーヒーカップを差し出した途端、ぎょっとする人もいる。
こめかみを軽く揉みながら眺めていた桜介は、いつもながらの光景にひとり、うーむと思案した。悪いことではないのだけれど。やはりどこかおかしいという感覚に、オフィス内が神経質になる。一度立ち去ってしまえば、通常時の無関心でいられるのだろうが。
ワゴンを押す姿が、給湯室に消える。
仕事の段取りを確認していた上司がコーヒーカップに手を伸ばし、一口飲むとほっと息をついた。他の人たちも、ごくりと飲み込む。
この、よい香りのする、味わい深いコーヒーなら、まあ、鬼上司の気も緩むというものだ。
給湯室にあるコーヒーの粉が七百円の大したことない市販品のはず、だとしても。
猫尾柳さんが新入社員として入社したのは二年前のことである。一般職の事務として、経理の補佐をしている。色白で柔和な女性だけれど、つり気味の大きな目が鋭くて、どことなく逆らえない雰囲気を醸し出す。そのため周りはどこか遠巻きに見ている節があって、一方で彼女はいつもどこ吹く風だ。
桜介は新卒として入社して六年目。仕事はもう任されるようになった。最初の二年は営業で鍛えられ、今は経理課の一員。仕事は単調だけれど、地道で淡々とした積み重ねが得意な桜介には向いている。
ここ二年間、経理課では謎の現象が起こるようになった。桜介が知る限り、年に二三回。頻発はしていないが、一回一回の得体の知れなさが後を引き、謎が謎のままなので、みんな心地の悪い気がしている。
例えば、コピーした資料のこと。
ある企業へのプレゼンテーションのために、営業から資料のコピーを急ぎで頼まれた。経理課はその頼みを受け入れ、新入社員が資料を用意したが、営業課・経理課両者を驚かせることになった。経理課にはモノクロのコピー機しかないのに、資料の写真やグラフが鮮明なカラーで印刷されていたのである。
当然、それを見たプレゼンテーション担当の社員たちは、経理課にどうしたのか問うた。オフィス外で経費を使ってカラーコピーをしていたら、とんでもないことだからだ。
ところが、コピーをした当の社員は首を傾げてオフィスのコピー機でコピーしたと答える。他の社員も、それを見ていたと証言した。経理課の社員たちはお互い混乱したが、とにかく資料としては問題がなかったので、プレゼンチームはその資料でプレゼンテーションをすることになった。結果は見事、契約成立。
しかし、プレゼンチームはその後、更なる混乱に陥った。後日取引先の担当者が契約をした理由に、資料のことを挙げたからだ。
「資料の一枚一枚のデザインが違った。あれほどの熱意をみせられたことは、今までない」
カラー以上にデザインまで一枚一枚違うとか、そんなことはしていない。結果オーライなものの、不可解さには拍車がかかるし、プレゼンチームにとっては自分たちがやってきた事に不測の援助が差し挟まれて、釈然としない。急ぎの資料にカラーやデザインに凝る余地がどこにあったのか、まったく不明。経理課の社員も悉く首を傾げる。コピー機がカラーコピー機に変身するわけもないから、原因が究明できるわけもなかった。
結局、追及しても仕方がないので、謎は謎のままになってしまった。このカラーコピー事件が今も後を引いて、営業課と経理課にはどことなく余所余所しい雰囲気がある。
また別の一件では、給湯室の茶碗がすべて藍色の縦じま柄から柿の絵柄に変わっていたことである。
この一新も、どこから買い換える金銭が出たのか、それとも誰かがセットを持ってきたのか、縦じまの茶碗がどこに行ったのか不明であり、経理課の社員全員を不可解の渦に落とし込んだ。誰かさんの
「前からこの柄じゃありませんでしたっけ」
の一言で、「そうだったっけ」ということになってしまったが。
経理課一同、どこか釈然としない思いを抱いているというのが、共通認識である。
桜介はこうした出来事を、ひとつひとつ、興味深く眺めている。
正直に言えば、ウキウキしてしまっている。
忙しいこともあるけれど、穏やかで単調な職場に、事件が起こる。
子供の頃から、不思議なことが、大好きだった。妖怪、魔法、ファンタジー。本やアニメで語られる架空のものたち。胸躍るそれらを夢想して、探して、遊んだ子供時代を忘れていない。
子供っぽい。本当はいない。現実を見なければならない。分かっている。
そうして大人になって、社会人になった。今では怪談、オカルティック、ファンタジックな物事は専ら読み物で愉しむ。趣味だ。
ところが。
職場で、見て見ぬふりがされている。謎は謎のまま、無理やり納得しながら、放置されている。小さなことも、大きなことも。そこはかとない不気味さを皆、共有しているのに関わらず。
それは自分も同じだけれど、何でもないように仕事に来て、暮らしているけれど。不可解なことが起こる度、興味と、もしかして、という思いを抱いている。
何かが変わるような、期待感。
どうして皆、不思議なことが起きているのだと、思わないかなぁ。
丁寧に、辿って行けば、共通項は明らかだ。原因も、そこにあるに違いない。みんなも、それを分かっているけれど、事実に突き当たって現実が崩れるのを恐れているのだ。
微かな優越と共に、書類に向き直る。猫のような笑顔を思い浮かべ、桜介は顔がにやけるのをこらえた。
デスクの上のコーヒーは、安物以上のよい香りを揺蕩わせている。
謎の現象は、全部、猫尾さんが関わっているのだ。
「猫尾さんて、休みの日って何をしているの?」
ベンチに座った猫尾さんは目をぱちくりとさせて、桜介を見た。
社内の休憩室の自販機の前で、たまたま一緒になったので、舞い上がってしまった。二年目にしてこういうチャンスは初めてだった。今一番の関心事と遭遇するなんてラッキー。
話しかけない手はない。飲み物を買いに来たようだったから、ついでだからと言ってコーヒーを奢ってみる。猫尾さんは素直にありがとうございます、と例の猫みたいな笑顔を見せた。
質問に対して、猫尾さんは思案してからゆっくり答える。
「そうですね・・・。友達とお茶したり、お買い物行ったり」
おや、結構普通な回答だな。
「そうだ、庭いじりをします。週一の習慣で。母と一緒に花の世話をするんです」
「へぇっ」
今度は驚いた。意外だ。
猫尾さんは結構、美人である。それから流行に敏感なタイプにみえる。肩パットが入ったブラウスを着ていたり、ストッキングなんかは模様が入った黒い色のを履いていたりしている。
不可思議系を匂わせる回答を期待しつつも、そんな簡単に不可思議な休日を言うとは思っていなかった。だから、スキーとか、ドライブとか、そういうイマドキ趣味の回答を想定していたのだが。「母と一緒に庭いじり」ときた。思う以上に堅実、というか地味な過ごし方だ。
「じゃあ、休日は土いじりしているんだ。意外だな」
「そうですか?」
「帽子被って、スコップなんか持っちゃってるの?」
「そうですけど」
少し剣のある口調になった猫尾さんに、桜介ははっとした。
「何か私の趣味はおかしいですか?」
紙コップのコーヒーをぐっと飲み干すと、猫尾さんはごちそうさまでしたと言い捨てて去って行った。
休憩室に立ち尽くして、桜介はあちゃーと肩を落とした。自分がおちょくっている口調になっていたことに気が付いた。
失敗した、と思いながらも、だがしかし、と口元が緩む。
ゴミ箱の中の、潰された紙コップを眺める。
渡してそんなに間もなかったから、湯気が立っている熱々のコーヒーだったはずなのに。一気に飲み干せる温度になっていたとは、興味深い。
「猫尾さんはディスコとか行かないの?」
形よく描いた眉がぴくりと動いた。
「友達に誘われたりしたら、行きますけど。好きじゃありません」
「ふむ、そうなんだ」
怪訝そうに目をじろっと向けて、猫尾さんはずずっとコーヒーを飲む。桜介は自分はおそらくニヤニヤしているであろうことを自覚しながら、コーヒーをこくりと飲む。
この間怒らせてしまったが、また休憩室で遭遇したのだ。奇遇だねと言うと嫌そうな顔をしたけれど、見なかったふりをしてまたコーヒーを奢ってみる。意外にも猫尾さんは大人しくコーヒーを受け取った。
この頃、ディスコは人気があって、桜介と同年代の若者たちはよく踊りに行っていた。ジュリアナ東京という大型ディスコが話題を呼んで、ボディコン・ワンレンといったファッションに身を包んだ女性が街を闊歩する。派手な格好をした女性やディスコの光景はマスコミに取り上げられて大きな流行を生み出していた。
それは一種の時代の風潮で桜介も流行だと認識していたし、猫尾さんは美人でお化粧をいつもきちんとしているから派手な服を着ても似合いそうだ、という印象があったから訊いてみたのだが、猫尾さんは興味がなさそうだった。
「苦手なんだ?どうして?」
「踊っていると、ミラーボールとかの光とか、音楽に惑わされてしまって。なんだか現実と非現実が入り混じるような感じが苦手なんです」
「ああ、なるほど。分かるなぁ。時間なんか分からなくなっちゃう感じがするからね」
「遠野さんは行くんですか?」
「行かない。インドア派なんだ」
家で『月刊妖怪研究』とか『季刊超常現象』とか海外ファンタジーとか読んでいる方が楽しい。
休憩室にコーヒーのいい香りが漂う。桜介は思い返した。そういえば猫尾さんは会社の飲み会でも一次会だけでさっと帰ってしまう。酔った姿も見たことがない。鮮やかに立ち回って、失礼にならない程度に飲みつつシャキっとしている。派手なようにみえて、堅実だ。
意外と猫尾さんと価値観が合うかも知れないなぁ、と思った。桜介はスキーなどのアウトドア系は苦手だし、流行のディスコも誘われたら行くけどそこまで興味はない。飲み会も世話役の方が多く、どんちゃん騒ぎは好まない。
猫尾さんに不可思議系の気配はないかと期待して声をかけたけれど、ごく普通の感覚が分かったという妙な感じ。いや、普通に価値観分かったのが普通なのか?
それにしても今日のコーヒーは自販機のわりにいい香りをさせているなぁ。と思っていたら、猫尾さんが不機嫌そうな顔を桜介に向けた。
「この間から何なんですか?遠野さん」
「なにって?」
「コーヒー奢ってくれます」
「ああ、この間気に障る言い方してしまったようなので、お詫び」
「この間は?」
「猫尾さんと話をしてみたかったから」
む、と猫尾さんが怒ったような表情になった。桜介は戸惑って、あれ?何か嫌だったのか?と猫尾さんを窺う。
ぐびっとブラックを飲み干して、猫尾さんは紙コップを握りつぶした。
「また奢って下さい」
投げ捨てた紙コップは見事ダストボックスにインした。
コーヒーの香りが、漂ってくる。
人によって、淹れるコーヒーの香りが違うとか、プロだったらあるのだろうけれど、会社の事務の女の子が淹れる市販のコーヒーなんてそんなに変わり映えしないものである。
しかし、この香りが漂えば、間違いなく猫尾さんが淹れたコーヒーなのである。
顔を上げると、猫尾さんの柔和さと鋭さが併存した美人顔がある。にこりと笑うと、猫みたいな顔つき。
「どうぞ」
「ありがとう」
昨日は不機嫌な顔していたのに。胸の内がざわついた。
よい香りを漂わせて、オフィス内を進む、紺色の制服姿。職場に、不可思議が広がっていく。
「猫尾さんは趣味は庭いじり?」
猫尾さんは最初のように、目をぱちくりとさせて桜介を見た。当然、猫尾さんは桜介奢りのコーヒーの紙コップを手にしている。
桜介は段々、分からなくなってきた。不可思議なものを見つけたくて話しかけていたけれど、何だかそれも関係ない気もする。単純に彼女の庭いじりの何たるかを尋ねたいだけだ。今はどんな花が咲くのだろう、とか気になっている。
思案するように、ぐるりと目を上に回してから、猫尾さんは言った。
「趣味ですけど、母の手伝いのようなものです」
「趣味は?」
「本を読むのは好きです」
「おお」
僕と一緒じゃないかあ、とテンションが上がるのは何故だ。
「何を読むの?ファンタジーとか?」
猫尾さんは怪訝な顔をした。
「いえ、こう見えても恋愛小説とか好きなんですよ」
普通だ。
落胆のような、胸がざわめくような、妙な気分がする。どちらにしろ、変な期待をかけているのは桜介の方なので、身勝手な落胆だし、身勝手な胸のざわめきだ。
「遠野さんは?本読みますか」
虚を突かれた感じがした。そういえば猫尾さんから何か桜介自身のことを尋ねられたのは、初めてである。
「うん、趣味のようなもの」
「大学は文学部でしたっけ?」
「違うよ、社会学部」
「へえ。どんな本が好きなんですか?SF?」
「SFよりファンタジーとか、妖怪譚とか好きなんだな、実は」
妖怪、と口に出した瞬間、猫尾さんの表情が豹変したので、桜介は口を噤んだ。目を吊り上げて、まるで長年の敵に会ったかのような顔つきをしたのだ。休憩室の温度が下がったような気さえする。湯気の立つコーヒーが入った紙コップも急に冷えた感じがする。
また何か言ってしまったかと思って、桜介は慌てた。慌てて、不機嫌に黙り込んだ空気が怖くなって、ついこんなことを言ってしまった。
「ね、猫尾さんは妖怪とか好きじゃありませんか。僕は結構、不思議なこととか好きで」
さらに言葉を繋ごうと思って、こう続けてしまった。
「うちの課で起こる変な出来事にも、結構興味あるんです。あれって全部猫尾さん関わってますよね。何か知りませんかっ」
ええい、この際聞いちまえ!
そんな感じが否めない投げやりな問いかけに、案の定猫尾さんは怒った。
ただ、これも桜介には少し予想外な形で。
「知りません!」
勢いよく立ち上がる猫尾さん。ただ、絞り出すような声で叫んだから、桜介は気付いてしまった。
ぐびっとコーヒーを飲み干すと、猫尾さんは紙コップをぎゅっと握り潰してダストボックスに投げ入れ、憤然と立ち去った。
桜介はおろおろして猫尾さんに声をかけそびれ、つかつかと立ち去る背中姿を見送って、項垂れた。すとん、と休憩室のベンチに腰を掛けて、手元の紙コップの中のコーヒーが波打つのを見つめる。
泣きそうになりながらの怒りの声だった。どうやら自分は、猫尾さんの地雷を踏んでしまったらしい。
「猫尾さん」
会社のビルから出ようとするのを急いで追いかけると、ラクダ色のショールを羽織った背中姿はハイヒールで歩く速度を上げた。
何の、と歩調を合わせて歩く。追いついて横に並ぶと、不機嫌そうな白い頬があった。
真っ直ぐ前を向いたまま、眉間に皺を寄せて、つっけんどんに「何ですか」と言った。
桜介は内心無視されなくて良かったとほっとしつつ、仕事中に考え続けた謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、さっきは失礼なことを言ってしまった」
「いいです、あれがみなさんの本音だって知ってますから」
「決して悪い意味で言ったわけではないんだ」
「いいんです!」
強い口調にびっくりして、桜介は思わず立ち止まる。ラクダ色のショールの背中姿は少し先を歩いて、止まった。ビル街の、駅へ向かう中途の道上で、その背中姿は少し震えているように見えた。
背中姿から、ゆっくりと、でも刺々しい響きをもって、声が聞こえてくる。
「何度も訊かれました。私も分かってます、課のみなさんが困惑していたことって、大体私が関わったことだって。でも何も知らないです。私は普通にしていただけです。何か知らないかって何度も訊かれましたし、不思議だねって何度も疑われました。私は分からない、知りませんって何度も言いました。結局何だか分からないから、そのままになっているけど、みなさんが私を疑ってるんだって分かってます。でも知らないんです。私は普通に仕事していただけですから」
桜介は狼狽えた。課の社員のほとんどが、猫尾さんと普通に仕事をしつつ、遠巻きにしていることに、猫尾さんは気付いていたのだ。
例の営業のコピーは猫尾さんがとったものだったし、猫尾さんがお茶の当番だった直後に茶碗の柄が見事に変身してしまっていたのだから、当然、猫尾さんは真っ先に追及されたに違いない。
不可解であればあるほど、何度も尋ねられ、疑われたに違いなかった。
そしてそれは、思っていた以上に、猫尾さんの気を悩ませていたらしい。
自分は面白がって見ているだけだった。
「遠野さんが疑っているんだとしても、私は何も知りません、分かりませんとしか答えられません。確かに、コピーの資料がカラーだったらいいなとか、茶碗の柄がこんなのがいいなとか思ったことはあったけれど、思っただけが何だというんですか。何度、訊かれたって、何もしてませんて答えます。だって、だって、本当に何もしていないんですから」
平常だったら、桜介は人でなしにも、「思っただけで自分の望み通りに変容させてしまう能力でもあるのか?!」と面白がる心があったに違いない。
だが、桜介は自分でも意外に思うほど、気持ちが沈んでいた。猫尾さんの機嫌をどうとるか、そればかりが心を占めていた。
目の前にいる、ラクダ色の背中姿が、振り払うように歩き始める。
慌てて、少し距離を取りながら、追いかけて歩く。
「ごめんて」
「いやです」
「そんなつもりじゃなかった」
「だめです」
「だめって何が」
「私に話しかけないで下さい」
「そんなこと言わないで」
「いやです!」
「本当に申し訳ないと思ってるって」
無言で、ずんずん進んでいく。
「普通に、話がしたかっただけなんだ」
答えが返ってこない背中姿が、虚しい。
桜介はあれこれ考えて途方に暮れながら、声をかけた。
「そうだ、駅地下にある喫茶店、猫尾さんは好きですか。あそこはコーヒーが美味しいんです。パフェもあります。食べに行きませんか。奢りますよ」
なんだこの子供騙しの台詞、と心の中で自分を蹴とばした瞬間、ラクダ色の背中姿がぴたりと立ち止まった。
急に止まったから一歩近づいて、桜介も止まる。
何も言わないのでドギマギして戸惑っていると、断定的な調子で猫尾さんは発言した。
「コーヒーじゃなくて紅茶が良いです。アッサムティーとスコーンのセットが良いです」
以上、とばかりに、猫尾さんはツカツカと歩き始める。
呆気にとられていた桜介は、慌てて追いかけた。
現金なの。天邪鬼なの。
どっち。
「わたし、お天気を当てるのが得意なんです」
猫尾さんはご機嫌である。
生クリームとブルーベリージャムが添えられたスコーンと、アッサムティーを前に、尻尾がついていたらフリフリしているのではないかというくらい、目をキラキラさせている。
桜介はコーヒーを前に不思議な感覚だった。
猫尾さんと対面するのは初めてかも知れない。何故自分はこうしているのだろう。
泣きそうに怒っていたかと思えばこの上機嫌、雨天から急展開の晴天なりました、というような感情変化を短時間でしてみせた人間が目の前にいる。とかく女というものは理解できない。自分の申し訳ない気持ちが伝わったのかも、よく分からない。猫尾さんがよく分からない。
駅の地下にある喫茶店は、大人っぽい雰囲気の、コーヒー中心の店だった。お昼にはランチのナポリタンやミートソーススパゲッティを食べることができ、午後にはケーキやパフェ、スコーンなどのメニューを注文できる。前に上司や取引先と話をする用で利用したことがあったのだが、別席の女性がパフェを美味しそうに食べていたのを覚えていた。挽き立てのコーヒーの香りが店内に広がる、節度が守られた空間に魅力があって、桜介は個人的に来店してみたいと思っていた。
それが、まさか猫尾さんと共に来ることになるとは。
ご機嫌な猫尾さんの口から、実に不思議なことが語られているということに、最初、桜介は気が付かなかった。木調の少し暗めな店内の趣と、目の前で猫尾さんを観察する機会が与えられていることと、コーヒーのいい香りとが、ごく普通にお茶をしている状態に、落ち着いて物事を受け容れる心地を作っていたのかも知れない。
「お天気、か。雲の様子を観察することで、天気が分かるっていうけど」
「そういうんじゃなくてですね、朝起きて、なんとなく外の様子を眺めて、ああ今日は晴れのち曇りだなって分かるって具合で、分かるんです。百発百中ですよ」
「それはすごい」
猫尾さんは猫のような笑みを見せて、それからスコーンにナイフとフォークを立てた。
「それが普通だと思っていたんです。違うんだって知ったのは、幼稚園のときでした。友達と天気を当てっこすると、必ず私は当たって、友達のは外れるんです。やなぎちゃんは変、って言われて、私はすごく悲しくて怒っちゃったんですけど、同時にこれって普通じゃないんだ、って愕然としてしまいました」
「ふむ」
猫尾さんはクリームをつけたスコーンをむぐむぐと咀嚼してごくりと飲み込む。
「私にとっての普通が、みんなにとって普通ではない、というのが嫌でたまらなくなって。父に聞いたら、父は自分は脱妖怪だ、なんて言い出すし、それもすごく嫌で」
「だ、脱妖怪?」
「妖怪を脱したんだそうです。脱サラのようなものじゃないですか」
何それ、おもしろ!!
ものすごく興味をそそられたが、ウキウキを呑み込んで桜介は促した。
「何で嫌なの?他とは違うって、個性があって、オリジナリティに溢れていていいじゃない」
「嫌ですよ」
猫尾さんはつんとして、アッサムティーのカップを口元に近付けた。
「だって、他の子と違うと、その時点で線引きされちゃうじゃないですか。そんなの寂しいもの。自分がどうにもできない『普通』というのが、他の人と違うだけで仲間外れ。カテゴリ外です。山奥の仙人じゃあるまいし、そんな孤独は嫌」
猫尾さんはふっと溜め息をついた。
「結局、私は普通なんですよ。妖怪だなんて馬鹿馬鹿しい。得体の知れない何かがあるだなんて、信じらんない。何か変なハプニングが起こるなんて期待したくもない」
全否定された気分だ。
「みんなと一緒にいたい。普通に、笑い合いたい。受け容れられたい。普通の願望だと思いません?普通でいいんです。普通に世の中の人と生きている人がいい」
確かに、それは普通の人の感覚だ。
猫尾さんはスコーンを切り分けて、ジャムを付ける。
「でも知ってもいます、なんとなく。口にしたくはないし存在は信じないけど知っているんです。それでも私は普通でいたいです」
ぱく、と猫尾さんは頬張った。
桜介は目をぱちくりとさせて猫尾さんを眺めた。普通のことを言っているようで、普通のことを言っていない。不可思議を認めているようで、認めていない。しかし、猫尾さんの言いたいことは、何となく分かる気がする。
猫尾さんは確かに普通なのかもしれない。休日を共に過ごす友人や家族がいて、趣味があって、会社で仕事をして、人と足並みを揃えて人と生きる、一人の女性なのである。こうして、普通にお茶して、話をできるような。
しかし、その一方で、経理課で起こる謎の現象や、コーヒーのことや、天気の話などは摩訶不思議なことだ。それはすべて、猫尾さんにまつわる出来事なのである。どう考えても、猫尾さんは不可解なことを引き寄せている、もしくは引き起こしているのだ。猫尾さんの父君も妖怪という話。興味深すぎる。それだと猫尾さんは妖怪の子供、いや脱妖怪の子供ということではないか。
桜介にとってはものすごく面白いと思うようなこと、子供の頃からの空想が目の前で実現しているのと同時に、ごく普通に価値観が合うなぁという感覚のギャップに、妙に調子が狂う。
猫尾さんは思ったより身近な人で、そして摩訶不思議な女性なのである。
スコーンに夢中だった猫尾さんが唐突に口を開いた。
「遠野さんは普通ですよね」
「え」
「なんか王道のサラリーマンというか。日本の平均街道を順調に進んでいるというか、そんな感じ」
猫みたいな目でじっとこちらを見て、平然と言うものだから、少しぐさっとくる。
自分でもそう思ってるし。
「まあ、確かに。凡人だね」
少し逡巡して、口を開いた。
「でもね、僕は妖怪とか、魔法とか、大好きなんだ」
「ふーん?」
理解できない、というように顔をしかめて、猫尾さんは首を傾げる。桜介は苦笑した。
「結構、からかわれたり、アホ呼ばわりされたよ」
「アホだとは思いませんけど」
「そうかい?」
「好きなものは仕方なくありませんか?」
「同感だな」
ふふ、と綻んだように笑い合う。
コーヒーのよい香りが、揺蕩う。
「今は、どんな花が庭に咲くんですか」
「いま、ですか」
猫尾さんは目をぱちぱちさせて、桜介を見つめる。
ふと、桜介は錯覚した。不可思議な影響力をもつ猫尾さんと、普通に向かい合って、お茶して、話し合っている、その空間を、ごく当たり前のことのように感じたのだ。まるで前から、そうしてきたかのように、これからもそれが続くかのように。
何を考えているんだ、と慌ててそれを打ち消すと、猫尾さんが口を開いた。
「朝顔は最後の季節で、今はオシロイバナが夕方に咲きます」
「へえ。いい香りするよね」
「ええ、夜になるとオシロイバナの甘い香りがして縁側に出るといい感じなんです。よく育ったから、今から抜くのが大変だなぁって感じ」
「どんな庭なのか見てみたいな」
「今度見に来て下さい」
「いいの?」
「いいですよ」
お父さんにも会わせて欲しい、とはさすがに言えなかった。胸に留めておきながら、桜介は大きく頷いた。
スコーンをすっかり食べ終わった猫尾さんはアッサムティーを口にして、すっかり寛ぎモードだ。これは仲直りできたと考えていいのだろうか、と思いながら、いい香りのするコーヒーのカップを口元に運ぼうとしたとき、猫尾さんがおもむろに言った。
「遠野さん」
「む?」
「この際だから言っておきますけど、私、本当はコーヒーあまり好きじゃないんです」
桜介はカップを空中に留めたまま、ゆったり紅茶を飲む猫尾さんをぽかんとして見た。
ふわりと漂ってきたコーヒーの香りに、ふっと目を覚ました。
書斎机に突っ伏して寝てしまったらしい。片頬が冷たく、平べったくなっている気がする。
身を起こすと、幾分か眠気が覚めた。桜介は自宅の書斎にいた。
書斎には仕事の書類もあるが、本棚には怪談やオカルト、ファンタジーなどの本や雑誌がぎっしり詰まっている。書斎といいながら半ば以上趣味の部屋だ。家を改築するときに描いた念願が叶ったといえる。
昔のことの夢を見ていたから、浦島太郎の気分がする。猫尾さんこと柳さんとよく話をするようになった最初の頃。あれから度々、喫茶店に行って色々と話すようになって、デートまがいなことを重ねた。柳さんの父上と会ったのはそれから一年後。期待通りの得体の知れない雰囲気の、脱妖怪殿だったので、会えたときはテンションが上がった。変な人間じゃのうと言われて喜んでいる自分を少し気持ち悪いと思ったのを昨日のことのように覚えている。
桜介の眠気を覚ました香りは、柳さんが休日の午後に淹れるコーヒーだ。おやつの時間に柳さんはコーヒーを淹れてくれる。会社でも家でもコーヒー派の桜介は、好みのいい香りの、深い味わいが楽しめる柳さんが淹れるコーヒーが大好きだ。
あれから十五年経った。まずまず順調な毎日で、桜介は満足している。ごく普通に仕事ができているし、大切な家族がいる。
柳さんは毎朝詳細な天気予報をしてくれる。義父は縁側あたりで得体の知れない雰囲気を放っている。優しい義母は亡くなってしまった。息子の実はサッカー部のエースで見た目も心もイケメンという自分にはないスペックを持っている。娘の春子は可愛い。だけど無表情で宙を眺めていることがあるし、義父と仲がいいのでどう見ても普通じゃない感じが傍目からある。なかなか面白いが、その点、少し心配である。最近は実がよく春子を見ているようなのでほっとしている。娘のあの大きな目でじっと見られると、いつか核心を突くようなことを言い出しそうでなんとなく怖いのだが。
椅子の背もたれにゆったり寄りかかって、思い切り伸びをした。要は、概ね、順調で、幸せなのだ。午後の昼寝も気持ちがいい。些細な事件や心配事はある。それも、生きている感じがする。ごく、普通に。
よくよく考えてみれば、百発百中で天気を当てる奥方や、脱妖怪を自認する義父や、青は藍より出でて藍より青しというような息子とか、不可思議に意識的であるとしか思えない娘が家族であって、自分だけごく平凡という状態は、不可思議中の不可思議なのかも知れない。柳さんと出会う前までは想像もできなかった家族のあり方である。それをごく普通に、自分は受け止めている。何とも不思議だな、と思って、大変面白い。不可思議も普通も両方あって、一石二鳥の人生である。
書斎で一人でニヤニヤしながら、桜介は書斎机の上に置いてあった分厚い雑誌を手に取った。『月刊妖怪研究』は今でも購読している。休日の楽しみだ。
もうじき、柳さんがコーヒーを持って来てくれる。またそんなの読んで、と顔をしかめるだろう。でも止めないだろう。知っている。
本当はコーヒーはあまり好きじゃないんです、と告げられた後、桜介は激しく動揺したことをよく覚えている。
ええっ、僕はあまり好きじゃないコーヒーを君に飲ませていたわけ?!奢っていたわけ?!何であまり好きじゃないのにあんなにコーヒー美味しく淹れられるわけ?!てっきり好きだからだと思ってた!!と。
柳さんは自分が好きでなかろうと、コーヒーを美味しく淹れる努力をする。何故なら、柳さんの淹れるコーヒーは桜介にとって安らぎの逸品なのだから。忙しい最中であっても、眠りの中にあっても、その香りがあればほっとする。それが、柳さんが淹れてくれたコーヒーなのである。
きっとそれは、紺色の制服に身を包んでいた経理課の猫尾さんがコーヒーを淹れてくれていたときから。
仄かに宿る思いと重なって、不可思議と安らぎを届けてくれていた。




