54 怜王の情報
その日の午後は私はハンカチに刺繍をしながら過ごした。
一番大変なのは魔公爵家の家紋の部分だ。
魔公爵家の家紋は真ん中に剣がありその剣に二匹の蛇が絡み合っていてさらに月桂樹の模様がその剣の周囲を取り囲む物だ。
刺繍の得意な私でも難しい。
「う~ん。意外と時間がかかるかもね。でも一度決めたことはやり遂げたいもんね」
完成には時間がかかりそうだが私は烈牙様や息子たちの喜ぶ顔が見たくてせっせと刺繍針を動かす。
やがて夕食の時間が来て私は西棟の使用人の食堂に向かう。
食堂には侍従長の結城がいた。
「真雪。昨日は災難でしたね。ケガはありませんでしたか?」
「はい。結城様。大丈夫です」
「そうですか。何か異変を感じたら自分で行動せず私どもに報告してくださいね」
「はい。皆様にご心配かけてすみません」
確かに結城の言った通りにあの時は烈牙様に報告するべきだった。
烈牙様の侍女としては失格だわ。
これからはもっと考えて行動しないと。
「それより貴女のことはだいぶ噂になっていますね」
「噂ですか? どのような?」
「貴女が魔公爵様の寵愛を受けている女性だという噂です」
結城の言葉に私は僅かに動揺する。
これまでの出来事でそういう噂が広まることは覚悟していたし魔王様にもそのようなことを言われたがやはり戸惑いは隠せない。
それは私が噂通りに烈牙様の寵愛を受けてはいないからだ。
烈牙様との約束で愛人のフリをすることは承諾したがそのことで烈牙様に余計な負担がかかるのは避けたい。
「そんなに噂が広まっているのですか?」
「ええ。魔公爵様が王城で麗華王女様に真雪のことを自分の女だと宣言したと世間では有名ですよ」
いや、あれは麗華王女から烈牙様を護るためのお芝居だったのよ。
でも王城は人が多いからあの時のことを誰かが見ていたのね。
「真雪が麗華王女様に宣戦布告したとも聞きました」
「そんなことありません」
麗華王女とは少しだけしか会っていないのに噂というものは尾ひれ背びれが付くものだとはよく言ったものね。
烈牙様を護りたい気持ちでの行動だったけど宣戦布告なんて言い過ぎだわ。
「まあ。噂などどこまで信用していいか分からないものですが昨晩魔公爵様が真雪の部屋に入られていたようですね」
私は胸がドキッとした。
確かに烈牙様は私を心配して部屋に来てくれたが烈牙様とは何もなかったのだ。
「あ、あれは、私が眠れないのではと魔公爵様が心配してくれて」
「そんなことだとは思いましたが。まあ、お二人のことを私がとやかくいう権利はありませんので安心してください」
結城はニコリと笑う。
その笑顔が怖いわ。
本当に私と烈牙様の間には何もないのよ。
そりゃあ、本音では何かあって欲しいけど。
私は夕食を食べ終わり烈牙様の夜のお酒の準備をする。
そして定刻に私はお酒を持って烈牙様の私室にやって来た。
烈牙様の私室に入ると烈牙様はソファで本を読んでいらした。
お酒を渡すと烈牙様は私に「座れ」と短く命じる。
私は烈牙様の向かい側に座った。
最近では烈牙様がお酒を一杯飲む間、私とおしゃべりをするのが定番になってきている。
「今日は変わったことはなかったか?」
「はい。あ、でも樹牙様から薬を貰いました。烈牙様が樹牙様に私に薬を渡すように言ってくれたのですよね。ありがとうございました」
私がお礼を言うと烈牙様はお酒を飲みながら優しい視線で私を見た。
「樹牙は精神的な医学も学んでいる者だ。不調があったら遠慮なく樹牙に相談するといい」
「そうなんですね。ありがとうございます」
そこで私は昼間の紅葉の想い人のことを思い出した。
そうだ、今は二人きりだし怜王様のこと聞いてみよう。
「烈牙様。もし知っていたら教えて欲しいのですが」
「何だ?」
「サイラス侯爵家の長男の怜王様をご存知でしょうか?」
「サイラス侯爵家の長男? ああ、確か現在福祉機関の官僚をやっているはずだ」
「福祉機関ですか?」
「福祉機関では病院や孤児院を経営している。そこの副長官が怜王だ」
なるほど。官僚なのね。
身分だけでなくきちんとした仕事にも就いていて優秀な方なのね。
「その男がどうかしたか?」
「いえ。その方は独身ですか? 婚約者とかいらっしゃいますか?」
「……」
烈牙様は私の問いかけに黙ってしまった。
どうしたのかしら。そんなに知っている人物ではなかったのだろうか。
「……怜王は独身だ。婚約者はいない」
烈牙様は少し低い声で教えてくれた。
顔を見るとどこか不機嫌そうだ。
「そうですか。教えてくださってありがとうございます」
私はお礼の言葉を述べたのだが烈牙様は私と視線を合わせない。
私、何か烈牙様を怒らせるようなこと言ってしまったかしら。
不安が私の心を覆う前に烈牙様が話題を変える。
「明日の遠乗りの準備はできているか?」
「はい。厨房にお願いしてサンドイッチの具財も用意してもらいましたし。楽しみにしています」
「そうか。では真雪にはリール湖でボートに乗せてやろう」
「わあ! それは素敵ですわ!」
昔もよく烈牙様とリール湖でボート遊びを楽しんだものだ。
私は昔を思い出し心が躍る。
烈牙様も私の喜びように不機嫌な表情が消えて笑みを浮かべている。
だから私は先ほど烈牙様が見せた不機嫌な様子のことをたいしたことではなかったと思ってしまった。
このことが後から問題になるとも知らず私は明日の遠乗りのことで頭がいっぱいだった。




