第17話 触れ合う唇と邪念
辰巳は目を開けた。目の前には代わり映えのしない天井が見える。
「夢か……そうだよな」
彼は指先に温もりを感じているのに気づく。なので、その方向を見る。
「うあっ!!!」
そう彼が大声を上げたのは人に彼の指先が触れているからだ。ソウセイの頬にだ。彼女は両腕をベッドの上に起き、それを枕代わりにスヤスヤと寝息を立てている。
彼は、そっと指先を彼女の頬から離そうとする。その瞬間、彼女は目がパッと見開く。これに対して、彼は、指の動きを止める。まだ、それは彼女の頬に触れたままだ。
ソウセイは寝ぼけ眼だ。その上、トレードマークである眼鏡を掛けていない。なので、視界がぼやけている。
彼女の眼前には丸い物体が朧気に見えている。彼女は何であるか確認しょうと顔を近づける。そうすると、触れている彼の指先から手の甲へと温もりが移っていく。そして、腕へと。
彼女は、その重みに手で払いのける。彼の腕はベッドの上で一回バウンドしてシーツの上へと。彼女の顔、いや唇が迫ってくる。
それに対して、辰巳は金縛りにでもあったかの様に体が思う通りに動かない。腕を上げて彼女を静止したいが動いてくれない。
2人の唇が重なり合う。
「なんだ君か?」
近視の彼女はピントが合い彼に気づいた。彼女は両腕でベッドを押し立ち上がる。そして、丸テーブルの上に置いてあった眼鏡を手に取ると掛ける。再び辰巳へと近づく。
「したか? 君」
「………………」
「私は、したかと聞いている。聞こえないのかっ?」
「………したと言うよりは……受けました」
「したことは、したんだな?」
「はい……すみません」
「なぜ謝る? でかしたぞっ、君」
「…………」
「早速だが、してもらうぞ。忘れないうちに。立て、君」
「もう一回……するんですか?」
「そうだか」
「流石にそれは……ちょっと」
「嫌なのか?」
「いやぁ〜、そういう訳では…………」
「忘れないうちにしないと。さぁ、いいから立ってこっちに来て座ってくれ、君」
そう促された彼はベッドから起き上がり出る。そして、恐る恐る彼は丸テーブルの前の椅子に座る。彼は俯く、いや項垂れていると言ったほうが正しのかもしれない。
「ちょっと忘れ物を取りに行ってくる」
そう言うと彼女は部屋を出て行った。すると三脚にビデオカメラが設置してあるのに気がつく。
しばらく時間が経過した。部屋をノックする。彼はハッとする。それは、ひょとして彼女の家族がそうしているのかと。
「眠っているのか? 君」
「あっ、います。いや起きてます、はい」
「入っていいか?」
「ご自由にどうぞ」
「そうはいかない。私が君に提供した部屋ではあるが、今は君の部屋だ。許可なく入るのは礼儀知らずのすることだ」
――今さっきまで、この部屋にいたよな……
「許可をくれ」
「あっ。どうぞお入りください」
その彼の言葉に扉が開く。そして、ソウセイが入ってくる。一瞬、彼は視線が一点に集中する。その先には、ネグリジェを着た彼女の姿がある。胸元の大きく開いた紫色の。例の一件で、彼女の着ている服に目が行くはずもなかったのだ。
我に返った彼は、視線を逸らしながら顔を背ける。一方の彼女は丸テーブルへ進み、その上へと缶ケースを置く。俯いたままの彼の視界にそれが入る。
「開けて、どっちか選んでくれ」
そう彼女が言った。その発言に彼は戸惑う。
「どうした?」
「何が入ってるんですか?」
「聞くまでもないだろ、君。当然あるべき物が入ってるだけだ」
「本当に開けてもいいんですよね?」
「もちろん」
その彼女の言葉に彼は震える手で恐る恐る開ける。中を見て緊張が多少だが収まっていく。
「これは」
「見れば分かるだろ、君。ボールペンにシャープペンシル、それに消しゴムだ。いわゆる筆記用具だが」
「あっ、ですよね」
「呼吸が荒いけどどうした?」
「あっ、ちょっと」
「興奮でもしてるのか?」
「してませんよっ!」
「いきなり大声出して。もしかして……」
「なっ、何ですか?」
「書きたくてしかたなかったのか? 君」
「……あっ、はい」
「では頼む、君」
そう言った彼女は脇に挟んでいたノートを手に取る。そして、ご丁寧に開いて上げる。その際、前のめりになった彼女の胸が彼の顔の側面に当たる。
その瞬間、彼は顔を離そうとする。しかし、その彼の意思とは真逆に彼女の胸へと突っ込んでしまう。彼は彼女の胸に密着したまま顔を上げる。その先には彼を見下ろしている彼女の顔がある。
「申し訳ありません……ソウセイさん」
「ソウセイさんか。名前、いや名字か。そうであっても、そう呼ぶのは初めてじゃないか?」
「……でしょうか?」
「おそらくな。私は覚えがない」
「あっ、はい。本当に申し訳ありません」
「気にするな。ちょっとした接触事故だろ、君」
「あっ、はい」
「本当に申し訳と思うなら離れてくれないか? 君」
「あっ! すみません」
そう言うと彼は彼女の胸から頭を離す。
「君?」
「何でしょう?」
「私の腰に回してる両腕も離してくれるとありがたいんだが」
「あっ!」
そう言うと彼は彼女の両腕を離し引っ込める。
「夢の中での戦いを書いてくれ、君」
「えっ……」
「んっ? さっき認めたじゃないか。したって聞いた時に」
「……あぁ……はい」
「どうした? 君」
「今日は対戦してません」
「嘘ついたのかぁっ!」
「いえ、そんなつもりは。言葉の意図を勘違いしてました」
「どう受け取ったんだ?」
「それは……」
「で、観戦はしたのか?」
「あっ、はい」
「なんだぁ。寝起きだったからな。勘違いしたのか。私の聞き方も悪かったな、君」
「いえ、ソウセイさんは何も悪くありません。勘違いしたのは自分ですから、はい」
「そうか。早速で悪いが書いてくれないか? 君」
「あっ、はい」
そう言った彼はシャープペンを手に取ると芯を押し出す。それをノートの紙の上につける。しかし、一向にペンが進まない。その様子を見ている彼女は痺れを切らす。
「どうした?! 君。一文字も書いてないぞ」
「それが夢の内容を思い出せなくて。申し訳ないです」
「謝罪は不要だ。いつもと環境が違うからだろう」
「そう言っていただけると、はい。あのう〜、ソウセイさん」
「また、その呼び方だな。なんだ?」
「あのビデオカメラは……」
「君の就寝の様子を撮影していた。何かの手掛かりになると思ってな」
「消してもらえませんかね?」
「なんでた? 君」
「寝相が悪くて見られるのが恥ずかしくて、はい」
「う〜ん、分かった」
「次、この様な機会があれば撮ってもらっても構いませんので」
「本当にいいのか?」
――どうせ二度はないからな
「嘘じゃないな?」
「もちろんです、はい」
「分かった」
「あのう〜」
「まだあるのか?」
「映像は確認せずに消して下さい。お願い致しますっ!」
「分かった。後で消しといておく」
「ありがとうございます」
「なんか、さっきから落ち着かない様子だ、君」
「おっ、仰っるとおりです、はい」
「ちょっと待ってろ、君」
そう言った彼女は、そそくさと部屋を出ていく。
彼女が扉を開け部屋へと戻ってきた。その際、ノックと声掛けはなかった。彼女は手に紙の束を持っている。
「無理に思い出さなくてもいい。これで気分転換でもするといい、君」
そう言うと彼女は紙の束を丸テーブルの上に置く。そして、彼に左手に握っていた万年筆を差し出す。これに対して、彼は戸惑っている。
「これは……」
「見て分かるだろ。こんな時は一心不乱に文字を書くといい。私が気分転換する時に行っている硬筆書道だ」
「あぁ、そういうのがあるんですね」
そう言った彼に彼女は万年筆を揺らし促す。それを感じ取った彼は会釈して受け取る。そして、彼はキャップを取る。
「……でも、何を書けばいいか」
「もちろん署名、いや自分の名前を書くといい」
そう彼女は間髪入れずに言った。その言葉に彼は首を傾げる。
「そういうもんなんですか?」
「君は初心者だから、何を書けばいいか分からないだろ。君も、そう言ってたし。書き慣れた署、いや自分の名前つまり氏名を書いたほうが落ち着くぞ、君」
「そうかもしれません」
「なら書くといい」
「でも、こんなに枚数入りますか?」
「君に集中して欲しいから、私が一枚一枚書き終える度に捲ってやる」
「それじゃ紙の無駄じゃないですか?」
「大丈夫だ。余白は私がメモ帳代わりに使うから。あっ! もちろん気分転換に硬筆書道する時にも使うぞ、うんっ」
「それなら無駄になりませんね」
「なら早く署、いや書いてくれ」
その彼女の言葉に彼は書き始める。甲斐甲斐しく彼女は彼が氏名を書き終えると捲ってあげる。それを彼の為に繰り返してあげる。
なぜか彼女は捲る度に、ほくそ笑む。




