第9話 街の暗雲と逃走
カビの生えたパンで辛うじて胃袋の悲鳴を抑え込んだものの、ライカとルカの体力は限界に達していた。
翌朝、要塞都市ベルガモの空からは冷たい小雨が降り始め、石畳を濡らしていく。
二人はマントのフードを深く被り、雨を避けるように大通りの物陰や建物の庇の下をあてもなくさまよっていた。
「……これから、どうする……?」
ライカがかすれた声で呟いた。
赤髪を濡らしながら、虚ろな目で通りを行き交う人々を眺める。
誰一人として、泥に汚れた二人に見むきもしない。
この巨大な街において、自分たちは路傍の石ころ以下だった。
「……どこか、街の外へ出る商隊の荷積みでも手伝える場所がないか探そう」
ルカもまた、冷え切った濡れ鼠のような青髪を指で払いながら息を吐いた。
「ギルドを通さない個人的な雑用なら、銅貨一枚くらいはもらえるかもしれない。まずは今日の……」
ルカが言葉を途切れさせたのは、その直後だった。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ――。
雨音を切り裂いて、重厚な鉄の甲冑が擦れ合う不穏な金属音が近づいてきた。
巡回中の王国兵士たちの足音だ。
二人は咄嗟に路地裏の影へと身を潜め、通り過ぎるのを待とうとした。
だが、運命はどこまでも残酷だった。
四人組みの兵士の先頭に立っていた男が、ふと足を止め、路地裏の暗がりに視線を向けたのだ。
その男の顔には、右頬から首元にかけて生々しい引きつった傷跡が残っていた。
――あのリブート村で、徴税隊長が手負いになり、部下が全滅した際に逃げのびた「生き残り」の兵士だった。
隊長の怒りを買って降格され、ベルガモの街頭巡回へと回されていたその男は、暗がりの中に潜む二人の少年の姿――フードの隙間から覗く赤髪と青髪を目ざとく捉えた。
「……あ?」
男の目が、狂気と憎悪で大きく見開かれた。
「おい……おい待て……! その赤髪と青髪のガキ……!」
「ルカ、まずいッ!」
ライカの野生の直感が警鐘を鳴らした。
瞬時に踵を返し、路地裏の奥へと走り出す。
「あの村のガキどもだッ!! 隊長を傷つけ、俺たちの仲間を殺した小悪魔どもだあああッ!」
兵士の怒号が雨の街道に響き渡った。
「なにいっ!? あの辺境で隊長をハメたっていうガキ共か!?」
「追え! 捕まえて叩き潰せッ! 褒美が出るぞ!」
ジャキィンッ! と長剣を抜く音が重なり、四人の兵士が一斉に怒号を上げて追撃を開始した。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
濡れた石畳を滑るように駆け抜ける。
後ろからは、鉄靴が激しく地面を叩く重い足音と、兵士たちの怒号が急速に迫ってくる。
「ちくしょう、なんであいつらがここにいやがるんだッ!」
ライカは走りながら腰の軍刀へ手を伸ばしかけた。
「斬り捨てるぞルカ! 四人ならなんとか――」
「バカ言撃なッ!」
前方を行くルカが、悲鳴に近い声で制止した。
「ここで剣を抜いて騒ぎを起こしてみろ! 街中の兵士が集まってきて包囲される! 逃げるんだ、街の外へッ!」
ルカの判断は冷酷なまでに正しかった。
要塞都市ベルガモは、次男ゼノヴィスの軍事拠点だ。
一度「兵士を襲ったお尋ね者」として街中で大騒ぎになれば、数百の兵が城門を封鎖し、逃げ場は完全に失われる。
二人は入り組んだ路地裏へ飛び込んだ。
積まれた空き樽や腐った木箱を蹴り倒し、追手の足をわずかに止める。
「待ちやがれガキどもッ!」
後ろから投げつけられた短槍が、ライカの耳元を掠めて壁に突き刺さり、火花を散らした。
冷や汗が背中を伝い落ちる。
「ルカ、どこへ逃げる!? 正門は固められてるぞ!」
「城壁の水抜き穴だ! 街の西側、旧区画の排水路から外へ抜ける!」
ルカは街の構造を、ギルドでの情報収集の段階で完璧に頭に叩き込んでいた。
要塞都市といえど、古い城壁の崩れかけた排水口までは兵士の目が届いていないはずだ。
二人は濡れた路地を折り曲がり、ドブの臭いが充満する旧市街のどん詰まりへと駆け込んだ。
目の前に現れたのは、巨大な石造りの城壁の根元にある、格子が腐ちかけた小さな排水口だった。
「ここだ! 急げ!」
ルカが崩れかけた鉄格子を力任せに引っ張ると、錆びた鉄パイプが悲鳴を上げて外れた。
「逃がすかあああッ!」
角を曲がってきた傷跡の兵士が、長剣を振りかざして躍りかかってくる。
その距離、わずか数メートル。
「クソがッ! 引っ込んでろ!」
ライカは反転すると、足元の泥と水たまりを強烈に蹴り上げ、兵士の顔面へ泥水を浴びせかけた。
「ぐあっ!? 目が……ッ!」
兵士が体勢を崩した一瞬の隙を突き、ライカはルカの後を追って暗い排水口の中へ滑り込んだ。
「追え! 穴の中へ槍を突っこめッ!」
背後で絶叫する兵士たちの声と、鉄の槍が壁を突く不快な音が響く。
二人はドブ水と泥に塗れながら、暗闇の管の中を必死に匍匐前進で進み続けた。
狭く、息が詰まるような漆黒の闇。
どれほど進んだだろうか。
前方に、うっすらと外の光が見え始めた。
ズザザザッ!
勢いよく滑り出た二人は、要塞都市ベルガモの外壁の下、城壁を囲む深い空堀の泥の中に転がり出た。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! げほっ、げほっ!」
ライカは泥を吐き出しながら、激しく咳き込んだ。
全身がドブ臭く、濡れた衣服が氷のように皮膚を冷やす。
見上げれば、高く聳え立つベルガモの黒い城壁。
上空からは、兵士たちの警笛の角笛が低く響き渡っていた。
「……ハぁ……脱出、できた……ね」
ルカが泥まみれの顔で、冷たい雨を見上げながら力無く呟いた。
街の中へ入ればなんとかなる。
そんな甘い希望は、完全に打ち砕かれた。
街に居場所はなく、追手に見つかり、またしても命からがら逃げ出す破目になったのだ。
二人は重い身体を叩き起こし、追手が城門から出てくる前に、雨の煙る荒野の奥へと足早に姿を消した。




