第10話 新たな地平へ
叩きつける冷たい雨の中、二人は泥まみれになりながら必死に走り続けた。
城壁の角笛の音が遠ざかり、要塞都市ベルガモの漆黒の影が雨の煙る彼方へと消えていく。
街道を大きく外れ、岩山に開いた小さな洞窟を見つけた時、二人の体力を繋ぎ止めていた緊張の糸が切れた。
崩れ込むように岩肌へ身を寄せ、荒い息を吐き出す。
「……ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
ライカは冷え切った濡れた服を抱きしめ、激しく身体を震わせた。
身につけていた羊毛のマントは、排水路を這い出た際に泥水で重く汚れ、体温を容赦なく奪い去っていく。
ポケットの中身は空っぽで、手に入れたはずの銅貨も、パンの欠片すら残っていない。
要塞都市に行けば、なんとかなると思っていた。
冒険者になって、金を稼いで、這い上がれると思っていた。
しかし現実は、名前も身元もない未成年の孤児など相手にもされず、路地裏の残飯をあさり、最後はドブのように街から追い出されたのだ。
「……また、振り出しだな」
ライカは膝に顔を埋め、悔しさに声を震わせた。
「金もねえ、飯もねえ……追手まで増えた。俺たちは……結局、何一つ変わってねえのかよ……」
「……ううん。違うよ、ライカ」
闇の中で、ルカの静かな声が響いた。
ルカは濡れた青髪を力無く絞りながら、ゆっくりと顔を上げた。
その表情には疲労の色が濃く刻まれていたが、青い瞳の中には消えることのない理性と意志の光が宿っていた。
「僕たちは、手ぶらで追い出されたわけじゃない。……大事なものを手に入れたんだ」
「大事なもの……? カビたパンのことかよ」
「情報だよ」
ルカは冷えた掌を重ね合わせ、自分の胸に当てた。
「村を出た時の僕たちは、この世界がどうなっているのか、何も知らなかった。でも今は違う。10年続く内乱のこと、三人の異母弟たちのこと、そしてこの領地を治める次男ゼノヴィスの残酷さを知った」
ルカの言葉に、ライカはゆっくりと顔を上げた。
「次男ゼノヴィスの領地に留まる限り、僕たちに明日はない。手配され、兵士に追われ、いずれ追い詰められて殺される。……だから、行くんだ。別の場所へ」
「別の場所って……どこへ行くんだよ?」
「三男……ルキウスの支配地域だ」
ルカは洞窟の外、雨が降り注ぐ西の空を指差した。
「ギルドの情報では、三男ルキウスが抑えているのは中央の穀倉地帯だ。三人の王子の中で唯一、平民への過度な徴収や弾圧を避けていると言われている。人も物資も流通している場所なら、僕たちみたいな身元不明の者でも紛れ込める隙があるはずだ」
「三男の地か……」
「ベルガモから西へ、徒歩で二週間以上かかる過酷な道筋だ。手持ちの食料も金もない。途中で魔物や盗賊に襲われるかもしれない」
ルカは腰の細身の直剣を引き抜き、欠けた刃先をじっと見つめた。
「でも、ここにとどまって飢えて死ぬより、ずっと生き残る確率が高い。……僕たちの刃は、まだ折れていないよ」
ルカの青い瞳が、まっすぐにライカを見据えた。
泥を舐め、無力さに打ちひしがれていたライカの胸の奥で、その言葉が小さな種火となって灯る。
そうだ。
自分たちは死んでいない。
街の冷酷さに叩きのめされ、泥水をすすらされても、こうして生きて息をしている。
手に握りしめた軍刀の重みと、互いの存在がある限り、命はまだ終わりを迎えていないのだ。
「……ハッ、言わせておけば」
ライカは濡れた顔を袖で強引に拭うと、ニッと野性的な笑みを浮かべた。
赤髪から落ちる水滴を払いのけ、腰の錆びた軍刀の柄を強く握りしめる。
「二週間でも三週間でも、歩いてやろうじゃねえか。三男の領地とやらまで行って、今度こそ俺たちの力を見せつけてやる」
「フッ……威勢だけは相変わらずだね」
ルカもまた、薄く唇を歪めて笑った。
夜が明け、長かった雨がゆっくりと上がっていく。
洞窟の外には、どこまでも続く泥の街道と、果てしない荒野が広がっていた。
要塞都市ベルガモでの敗北と苦杯。
だが、少年たちはただ打ちのめされたのではない。
理不尽な世界の現実を知り、その足で次なる目的地を見据える「知恵」と「覚悟」を手に入れたのだ。
「行くぞ、ルカ!」
「うん。死ぬなよ、ライカ」
赤と青の二つの影が、朝靄の立ち込める西の街道へと力強く踏み出していく。
背後に捨ててきた挫折の街に振り返る者は、もう誰もいなかった。
泥を舐め、傷を負い、それでもなお研ぎ澄まされていく二つの刃。
三男ルキウスの治める中央地帯を目指し、二人の少年たちの果てしなき放浪と生存の闘争は、新たな章へと向かって加速していく。




