第11話 死線を超えた泥道
要塞都市ベルガモを脱出してから、すでに十日の月日が流れていた。
次男ゼノヴィス派の追手を警戒する二人に、整備された主要街道を進むという選択肢は存在しなかった。
切り立った岩山を登り、人跡未踏の原生林を抜け、ぬかるむ泥道をただ西へ向かって進み続ける。
それは、道と呼ぶのもおこがましいような、地獄の行軍だった。
何より二人を苦しめたのは、絶え間ない「魔物」の脅威と、狂いそうなほどの「飢え」だった。
街道を外れた森や山道には、鋭い爪を持つ小型の魔獣や野犬の群れが蠢いていた。
本来なら兵士や熟練の冒険者が数人で挑むような脅威を、二人は五感を限界まで研ぎ澄ませて回避し続けた。
戦って傷を負えば、その瞬間に死が確定するからだ。
「……ライカ、止まって」
先頭を歩いていたルカが、泥に塗れた手を低く掲げた。
青髪はボサボサに乱れ、その頬は骨が浮き出るほど痩せこけている。
二人は息を殺し、太い大木の影に身体を滑り込ませた。
数十メートル先の草むらを、巨大な猪のような魔獣が地面を穿ちながら通り過ぎていく。
咆哮が空気を揺らし、地鳴りが響く。
魔獣の姿が完全に消えるまで、二人はまばたきすら忘れて固まっていた。
「……行ったよ。息を吐いていい」
「ハァ……ハァ……ッ。冷や汗で全身が重えよ……」
ライカが荒い息を吐きながら、血の気のない唇を噛んだ。
魔物を避けるだけでも体力を激しく消耗するが、腹を満たす食料はどこにもなかった。
運良くルカが落ちている石で野うさぎを仕留められた日には、火を焚くこともできず、生のまま肉を分け合って喰らいついた。
しかし、そんな幸運は数日に一度しかない。
食べものがない日は、足元に生える名前も知らぬ苦い野草をむしり取り、木の皮を削ぎ落として噛みちぎった。
木渋で口の中が麻痺し、胃が拒絶反応を起こして吐き気をもよおしても、泥水で強引に胃の奥へ押し込んだ。
「……食えるか、ルカ」
ライカが差し出したのは、泥がついた根っこ状の野草だった。
「食えるよ。毒はない……ただ、すごく苦いだけだ」
ルカは受け取ると、躊躇なく口に放り込んでガリガリと噛み砕いた。
その青い瞳に、もはや感情の揺れはない。
どんなに惨めでも、どんなに不味くても、生命を維持するための作業として冷徹に処理していた。
「あはは……不味いな。村にいた頃の、あの硬いパンがご馳走に見えるぜ」
ライカは笑おうとしたが、乾いた顔の皮膚が上手く動かなかった。
足の裏の皮はとっくに破れ、破れた革靴の中で血と汗が固まって激痛を主張している。
全身を覆うマントはボロボロの雑巾のようになり、二人の体臭と血とドブの匂いが混ざり合っていた。
「弱音を吐くな、ライカ。歩くのを止めたら、僕たちはただの屍体になる」
「吐いてねえよ……! 俺の足は、まだ動いてるだろ……ッ!」
ライカは自分の太ももを拳で力任せに殴りつけ、痛みに耐えながら再び泥を蹴った。
極限の生存闘争。
二人を繋ぎ止めていたのは、互いの存在と、胸の奥で燃え盛る理不尽への激怒だけだった。
ライカが倒れそうになればルカが肩を貸し、ルカが疲労で意識を失いかけるとライカが背中を叩いて叫んだ。
二人で一つの命を分け合うようにして、死線の上を這い進んでいく。
そして――十三日目の朝。
密林を抜け出た二人の視界が、突如として圧倒的な光とともに開けた。
「……っ!?」
眼下に広範囲に渡って広がっていたのは、地平線まで続くかのような美しい黄金色の麦畑だった。
風が吹くたびに麦の穂が波のように揺れ、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
黒い森や泥の世界を彷徨っていた二人にとって、それはまるで幻覚のような光景だった。
「見てごらん、ライカ……。三男ルキウスの領地、中央穀倉地帯だ」
ルカの声が、微かに震えていた。
そして、黄金の海の中心に、堂々たる威容を誇る白亜の城壁が聳え立っていた。
次男の要塞都市ベルガモのような黒々とした威圧感はない。
開かれた巨大な城門からは、無数の馬車や人々が絶え間なく行き交う活気が、遠目からでも伝わってくる。
「あそこが……『穀倉都市ヴェローナ』か」
ライカは息を飲み、カサカサに乾いた唇を小さく開いた。
地獄のような泥道を抜け、二人の少年はついに目的地へと辿り着いたのだ。
身も心もボロボロになり、今にも崩れ落ちそうな満身創痍の身体。
しかし、互いの肩を支え合う二人の瞳には、どんな惨劇にも消せなかった強い生存の炎が、確かにはためいていた。
「行こう、ルカ……ッ。あの街へ!」
「……うん。ここからが、僕たちのやり直しだ」
二つの影は、眩しい黄金の麦畑の合間を抜け、希望と混沌が渦巻く都市ヴェローナへ向かって最後の一歩を踏み出した。




