↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/35

第12話 無謀なる刃

 黄金の麦畑を抜け、二人は「穀倉都市ヴェローナ」の巨大な門をくぐり抜けた。


 次男ゼノヴィスの厳重で抑圧的な要塞都市ベルガモとは異なり、この街の空気は驚くほど解放的だった。


 三男ルキウスの治世下にあるヴェローナは、流れる物資と人の多さゆえか、門衛の改めも過剰なまでに厳しくはない。


 泥と返り血で汚れたマントを深く被り、行き交う避難民の群れに紛れることで、二人は難なく市街地へと足を踏み入れることができた。


 だが、安堵が訪れたのも束の間だった。


「……ッ、くそ……目が眩みやがる……」


 ライカが壁に手をつき、荒い息を吐き出した。


 賑やかな市場からは、焼き立てのパンや香ばしく炙られた肉の匂いが漂ってくる。

 その芳香が、限界を超えた二人の胃袋を酷薄に痛めつけた。


 十三日間に及ぶ野草と泥水の生活は、二人の体力を完全に奪い去っていた。


 視界が不気味に揺れ、立っていることすら奇跡に近い状態だった。


「しっかりしろ、ライカ……。大通りで倒れたら目立つ……路地裏に入るんだ」


 ルカもまた、自分の足を強引に動かしながらライカの肩を支えた。


 二人には一文の金もない。

 またしても残飯を探すか、それとも倒れて野良犬のように飢え死にするか――容赦ない現実が再び首元を絞め上げていた。


 薄暗い路地裏へと足を踏み入れた、その時だった。


「いやっ! 放しなさいよ、この分からず屋! 私、帰らないからッ!」


 甲高い少女の叫び声が、石造りの壁に反響して二人の耳に届いた。


「わがままを言うな。屋敷では全員が胃を痛めておられるのだ。お戯れはここまでだ、お嬢様」


「嫌だと言っているでしょう! 離してッ!」


 路地裏の奥で、同じ年頃――十五歳前後の少女が、泣き叫びながら必死に身をもがいていた。


 その腕を強引に掴み、逃げ出そうとする身体を軽々と引き寄せているのは、一人の大柄な男だった。


 男は飾り気のない私服を纏っていたが、その体躯は並の兵士とはまるで違っていた。


 見上げるような巨躯、岩のように分厚い胸板、そしてマント越しにも伝わってくる底知れぬ圧迫感。


 男の手首は太く、少女の細い腕を強固な鉄の枷のように締め上げている。


「助けて……! 誰かッ!」


 涙で顔をくしゃくしゃにした少女と、暗がりの中で一瞬、視線が交差した。


「……チッ」


 ルカの頭の中で、警告音が激しく鳴り響いた。

 今の自分たちの状況を考えれば、関わるのは愚の骨頂だ。


 自分たち自身が、いつ倒れて死んでもおかしくない窮地にいるのだから。


 スルーして立ち去るのが、圧倒的に正しく、冷徹な「生存の選択」だった。


 しかし、ライカの足はすでに動いていた。


「おい……ッ! その手を……離せッ!!」


 獣のような絞り出す声とともに、ライカが血走った目を怒らせて踏み出した。


 かつて、自分たちの村で徴税兵に乱暴されていた村人たちの光景。


 力なき者が踏みにじられ、悲鳴を上げる理不尽。


 腹の底でドス黒く燃え滾る怒りが、飢えと疲労で痺れていたライカの体を無理やり突き動かしていた。


「ライカッ!?」


 ルカは舌打ちをし、即座に腹を括った。

 親友が飛び出した以上、もう引き返す選択肢はない。


 ルカもまた、腰の細身の直剣を抜き放ち、ライカの横へと滑り込んだ。


「あ?」


 大柄な男が、面倒そうに振り返った。

 髭を蓄えた厳つい顔容。


 その鋭い眼光がライカとルカを捉えた瞬間、男の眉がピクリと動いた。


「なんだ、ガキか。……泥と血の匂い、それに刃こぼれした獲物。遊びにしては物騒だな」


「うるせえッ! 女子供を嫌がらせて連れ去ろうってのか! くだらねえ真似してんじゃねえぞッ!」


 ライカは咆哮し、錆びた軍刀を振り上げて一直線に男へ突進した。


 死線をくぐり抜け、研ぎ澄まされた踏み込み。


 だが――。


「甘い」


 ガァンッ!!


 男は刀を抜くことすらなく、ただ一歩だけ交わすと、ライカの腕を軽く払った。


 それだけで、ライカの渾身の力は容易く殺され、体勢が大きく崩れる。


 直後、男の太い丸太のような腕が、ライカの胸板を軽く押し弾いた。


「ぐはッ!?」


 ドゴォン! と凄まじい衝撃が走り、ライカの身体が宙を舞った。


 路地裏の石壁に激突し、ライカは悲鳴を上げる暇もなく吐血して床に崩れ落ちた。


「ライカッ!」


 ルカは死角へと回り込み、無駄のない突きを男の脇腹へ向けて放った。


 スピード、軌道、間合い――飢餓状態とは思えぬ完璧な必殺の一撃。


 しかし、男は振り返りもせず、空いた左手の二本の指で、ルカの剣の刀身を『挟んで』止めた。


「なっ……!?」


 ピタリと制止する細身の直剣。


 鋼と鋼が噛み合うような絶望的な手応え。


「型は悪くない。だが、軸がブレているな」


 男が手首を軽く捻ると、ルカの手から剣が弾き飛んだ。


 そのまま男の巨体が詰まり、肉厚な掌がルカの顔面を捉え、容赦なく石畳の床へ叩きつけられた。


 ズドォンッ!!


「ガ、ハ……ッ……!」


 視界が真っ赤に染まり、全身の骨が悲鳴を上げる。


 圧倒的。

 次元が違う。


 これまで戦ってきた村の徴税兵や追手の兵士たちとは、根本的な「生物としての強度」が違いすぎた。


 文字通り、大人が幼子をあしらうかのような圧倒的な暴力。


「二人ともッ! やめて! この人は違うのッ!」


 少女が泣き叫びながら叫んだが、男は二人を見下ろし、呆れたように息を吐いた。


「命拾いしたな、ガキ共。そのボロボロの体でよくやる。……立ち上がれまい、おとなしく伏せておけ」


 男が再び少女の手首を掴み、歩き出そうとした。 


 その脚に――ガチリと、泥に汚れた手がしがみついた。


「待……て……ッ」


 血反吐を吐きながら、ライカが立ち上がろうとしていた。


 胸骨が折れているかもしれない。

 全身が激痛で激しく震えている。


 それでも、血走った赤い瞳は死んでいなかった。


 爪を相手のブーツに食い込ませ、不屈の執念で膝を押し立てる。


「まだ……終わって……ねえ……ぞ……ッ!」


「なに……?」


 男が微かに目を見開いた。


 さらに、反対側の脚にも手が伸びた。

 顔面から血を流し、意識が飛びかけながらも、ルカが泥の中から這い上がり、男の脚を必死に抑え込んでいた。


「逃がす、か……。僕たちの……目の前で……」


 飢えと疲労で倒れ伏し、圧倒的な力の差で見下され、ボコボコに打ちのめされても。


 二人の少年の「刃」は、決して折れることはなかった。


 泥を舐めても、血を吐いても、目の前の理不尽に対して立ち上がる――その凄絶なまでの泥臭い執念が、男の脚を確かに止めていた。


「……ふむ」


 大柄な男の眼光から、呆れの色が消えた。


 代わりに宿ったのは、猛者を検分するような、深く鋭い感嘆の色彩だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。