第12話 無謀なる刃
黄金の麦畑を抜け、二人は「穀倉都市ヴェローナ」の巨大な門をくぐり抜けた。
次男ゼノヴィスの厳重で抑圧的な要塞都市ベルガモとは異なり、この街の空気は驚くほど解放的だった。
三男ルキウスの治世下にあるヴェローナは、流れる物資と人の多さゆえか、門衛の改めも過剰なまでに厳しくはない。
泥と返り血で汚れたマントを深く被り、行き交う避難民の群れに紛れることで、二人は難なく市街地へと足を踏み入れることができた。
だが、安堵が訪れたのも束の間だった。
「……ッ、くそ……目が眩みやがる……」
ライカが壁に手をつき、荒い息を吐き出した。
賑やかな市場からは、焼き立てのパンや香ばしく炙られた肉の匂いが漂ってくる。
その芳香が、限界を超えた二人の胃袋を酷薄に痛めつけた。
十三日間に及ぶ野草と泥水の生活は、二人の体力を完全に奪い去っていた。
視界が不気味に揺れ、立っていることすら奇跡に近い状態だった。
「しっかりしろ、ライカ……。大通りで倒れたら目立つ……路地裏に入るんだ」
ルカもまた、自分の足を強引に動かしながらライカの肩を支えた。
二人には一文の金もない。
またしても残飯を探すか、それとも倒れて野良犬のように飢え死にするか――容赦ない現実が再び首元を絞め上げていた。
薄暗い路地裏へと足を踏み入れた、その時だった。
「いやっ! 放しなさいよ、この分からず屋! 私、帰らないからッ!」
甲高い少女の叫び声が、石造りの壁に反響して二人の耳に届いた。
「わがままを言うな。屋敷では全員が胃を痛めておられるのだ。お戯れはここまでだ、お嬢様」
「嫌だと言っているでしょう! 離してッ!」
路地裏の奥で、同じ年頃――十五歳前後の少女が、泣き叫びながら必死に身をもがいていた。
その腕を強引に掴み、逃げ出そうとする身体を軽々と引き寄せているのは、一人の大柄な男だった。
男は飾り気のない私服を纏っていたが、その体躯は並の兵士とはまるで違っていた。
見上げるような巨躯、岩のように分厚い胸板、そしてマント越しにも伝わってくる底知れぬ圧迫感。
男の手首は太く、少女の細い腕を強固な鉄の枷のように締め上げている。
「助けて……! 誰かッ!」
涙で顔をくしゃくしゃにした少女と、暗がりの中で一瞬、視線が交差した。
「……チッ」
ルカの頭の中で、警告音が激しく鳴り響いた。
今の自分たちの状況を考えれば、関わるのは愚の骨頂だ。
自分たち自身が、いつ倒れて死んでもおかしくない窮地にいるのだから。
スルーして立ち去るのが、圧倒的に正しく、冷徹な「生存の選択」だった。
しかし、ライカの足はすでに動いていた。
「おい……ッ! その手を……離せッ!!」
獣のような絞り出す声とともに、ライカが血走った目を怒らせて踏み出した。
かつて、自分たちの村で徴税兵に乱暴されていた村人たちの光景。
力なき者が踏みにじられ、悲鳴を上げる理不尽。
腹の底でドス黒く燃え滾る怒りが、飢えと疲労で痺れていたライカの体を無理やり突き動かしていた。
「ライカッ!?」
ルカは舌打ちをし、即座に腹を括った。
親友が飛び出した以上、もう引き返す選択肢はない。
ルカもまた、腰の細身の直剣を抜き放ち、ライカの横へと滑り込んだ。
「あ?」
大柄な男が、面倒そうに振り返った。
髭を蓄えた厳つい顔容。
その鋭い眼光がライカとルカを捉えた瞬間、男の眉がピクリと動いた。
「なんだ、ガキか。……泥と血の匂い、それに刃こぼれした獲物。遊びにしては物騒だな」
「うるせえッ! 女子供を嫌がらせて連れ去ろうってのか! くだらねえ真似してんじゃねえぞッ!」
ライカは咆哮し、錆びた軍刀を振り上げて一直線に男へ突進した。
死線をくぐり抜け、研ぎ澄まされた踏み込み。
だが――。
「甘い」
ガァンッ!!
男は刀を抜くことすらなく、ただ一歩だけ交わすと、ライカの腕を軽く払った。
それだけで、ライカの渾身の力は容易く殺され、体勢が大きく崩れる。
直後、男の太い丸太のような腕が、ライカの胸板を軽く押し弾いた。
「ぐはッ!?」
ドゴォン! と凄まじい衝撃が走り、ライカの身体が宙を舞った。
路地裏の石壁に激突し、ライカは悲鳴を上げる暇もなく吐血して床に崩れ落ちた。
「ライカッ!」
ルカは死角へと回り込み、無駄のない突きを男の脇腹へ向けて放った。
スピード、軌道、間合い――飢餓状態とは思えぬ完璧な必殺の一撃。
しかし、男は振り返りもせず、空いた左手の二本の指で、ルカの剣の刀身を『挟んで』止めた。
「なっ……!?」
ピタリと制止する細身の直剣。
鋼と鋼が噛み合うような絶望的な手応え。
「型は悪くない。だが、軸がブレているな」
男が手首を軽く捻ると、ルカの手から剣が弾き飛んだ。
そのまま男の巨体が詰まり、肉厚な掌がルカの顔面を捉え、容赦なく石畳の床へ叩きつけられた。
ズドォンッ!!
「ガ、ハ……ッ……!」
視界が真っ赤に染まり、全身の骨が悲鳴を上げる。
圧倒的。
次元が違う。
これまで戦ってきた村の徴税兵や追手の兵士たちとは、根本的な「生物としての強度」が違いすぎた。
文字通り、大人が幼子をあしらうかのような圧倒的な暴力。
「二人ともッ! やめて! この人は違うのッ!」
少女が泣き叫びながら叫んだが、男は二人を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「命拾いしたな、ガキ共。そのボロボロの体でよくやる。……立ち上がれまい、おとなしく伏せておけ」
男が再び少女の手首を掴み、歩き出そうとした。
その脚に――ガチリと、泥に汚れた手がしがみついた。
「待……て……ッ」
血反吐を吐きながら、ライカが立ち上がろうとしていた。
胸骨が折れているかもしれない。
全身が激痛で激しく震えている。
それでも、血走った赤い瞳は死んでいなかった。
爪を相手のブーツに食い込ませ、不屈の執念で膝を押し立てる。
「まだ……終わって……ねえ……ぞ……ッ!」
「なに……?」
男が微かに目を見開いた。
さらに、反対側の脚にも手が伸びた。
顔面から血を流し、意識が飛びかけながらも、ルカが泥の中から這い上がり、男の脚を必死に抑え込んでいた。
「逃がす、か……。僕たちの……目の前で……」
飢えと疲労で倒れ伏し、圧倒的な力の差で見下され、ボコボコに打ちのめされても。
二人の少年の「刃」は、決して折れることはなかった。
泥を舐めても、血を吐いても、目の前の理不尽に対して立ち上がる――その凄絶なまでの泥臭い執念が、男の脚を確かに止めていた。
「……ふむ」
大柄な男の眼光から、呆れの色が消えた。
代わりに宿ったのは、猛者を検分するような、深く鋭い感嘆の色彩だった。




