第4話 決別の一夜
月明かりすら届かない、漆黒の森。
冷たい夜風が木々を揺らし、不気味な葉擦れの音を響かせる中、二つの荒い息遣いだけが連続して聞こえていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
「……くそっ、しつこいぞ……!」
泥だらけの急斜面を転がるように駆け下りながら、ライカとルカは必死に足を動かし続けていた。
肺は焼けるように熱く、足の筋肉は悲鳴を上げている。
だが、立ち止まれば即座に死が追いついてくることだけは、二人の背後から迫る重い足音と松明の明かりが容赦なく教えていた。
「追え! ガキ二匹だ、逃がすな!」
「隊長に傷を負わせた大罪人だぞ! 見つけ次第、手足を切り落として生け捕りにしろ!」
追手の兵士たちの怒号が、すぐ後ろの木立の向こうから響いてくる。
その数は五人、いや六人か。
暗闇に慣れた兵士たちは、松明の光を頼りに確実に二人の足跡を追跡してきている。
ライカは木の幹に手をつき、荒い呼吸を整えようとしたが、口からは血の混じった唾液が滴り落ちた。
「……っそ。あいつら、どこまで追ってくる気だよ」
「相手は王国の正規兵だ。隊長の顔に泥を塗った以上、地の果てまで追ってくるだろうね」
ルカもまた息を切らしながら、冷静に周囲の地形を観察していた。
しかし、その声は普段の冷徹さとは裏腹に、微かな焦燥感が滲み出ている。
「ライカ、このまま逃げ切るのは不可能だ。僕たちの体力はもう限界に近い。あいつらの方が森の移動に慣れているし、武装の重さを考慮しても、あと数分で追いつかれる」
「……だったら、やるしかねえだろ」
ライカが血走った目でルカを見据え、刃こぼれした軍刀を強く握りしめた。
「どうせこのままじゃ犬死にだ。だったら、一匹でも多く道連れにしてやる」
「……」
ルカは黙って目を伏せた。
頭ではそれが最悪の選択肢だと分かっている。
だが、今の状況では「逃げる」という選択肢はすでに消滅していた。
生き残るためには、自らの手を血に染めて、追手を殺すしかない。
「……分かった。ハラを括ろう」
ルカは静かに息を吐き出し、細身の剣を抜いた。
「正面からぶつかっても勝ち目はない。僕が先へ走って足跡を残し、奴らの注意を引く。君はあの太い木の上の枝に隠れて待機しろ」
「囮になるってのか? 冗談じゃねえ、お前一人じゃ――」
「いいから言う通りにしろ!」
ルカの鋭い声が、ライカの言葉を遮った。
「君の直感と腕力なら、上からの奇襲で確実に一人か二人は持っていける。僕が残りの奴らを引きつけるから、その間に背後から仕留めるんだ」
「……ルカ」
「僕たちは生き残るって約束しただろ。……死ぬなよ、馬鹿」
それだけ言い残すと、ルカは松明の光が近づく方向へ向かって、わざと大きな足音を立てて走り出した。
ライカはルカの背中を見送り、奥歯を強く噛み締めると、指定された太い木の幹に飛び乗り、音もなく上の枝へと登り始めた。
数分後。
松明の炎が森の奥を照らし出し、荒い息を吐く兵士たちが姿を現した。
「おい、足跡がここで途切れてるぞ!」
「ガキめ、どこへ隠れた!?」
兵士たちが松明を掲げ、周囲を警戒しながら歩みを進めてくる。
その直下――木の上の枝に隠れたライカは、息を殺して獲物を待つ獣のように身を潜めていた。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
初めて「人間」を殺すという恐怖が、冷たい汗となって全身から噴き出していた。
だが、その恐怖を押し殺すだけの激しい怒りと、ルカを死なせたくないという必死の思いが、ライカの震えを止めていた。
「……ここか?」
一人の兵士が、ライカが隠れている木の真下へ歩み寄った。
その瞬間。
「ウオオオオオオオッ!!」
ライカは獣の咆哮を上げ、枝から真っ逆さまに飛び降りた。
自身の体重と落下の勢いを全て乗せた、渾身の唐竹割り。
刃こぼれした軍刀が、兵士の首と肩の境目――革鎧の隙間へ深々と食い込んだ。
「グギャアアアアッ!?」
兵士が断末魔の悲鳴を上げて崩れ落ちる。
生温かい血の飛沫がライカの顔に浴びせられ、鉄の匂いが鼻腔を突いた。
「な、なんだ!? 上からか!」
「あの赤髪のガキだ! 殺せっ!」
残りの兵士たちが混乱から立ち直り、一斉にライカへ殺到しようとした、その直後だった。
「――遅いよ」
闇の中から、冷徹な声が響き渡る。
シュッ!
兵士たちの最後尾にいた男の喉元に、青い閃光が滑り込んだ。
ルカの細身の剣が、一切の無駄なく急所を貫き、兵士は声すら上げられずに絶命する。
「な、なんだ貴様……ッ!?」
「二方向からの奇襲だ! 囲まれてるぞ!」
暗闇と奇襲による混乱で、兵士たちの連携が完全に崩壊した。
ライカとルカは、この千載一遇の好機を逃さなかった。
「オラァッ!!」
ライカが血気盛んに突進し、大振りの軍刀で兵士の槍を力任せに弾き飛ばす。
その直後、がら空きになった兵士の脇腹へ、ルカが滑り込むようにして刃を突き立てた。
凄惨な血の匂いと、金属のぶつかり合う音が夜の森に響き渡る。
泥と血に塗れながら、二人の少年は死に物狂いで剣を振るい続けた。
恐怖や後悔など感じる余裕はない。
ただ生き残るために、目の前の敵を殺すことだけを脳髄に刻み込んでいた。
そして。
「……ハァ、ハァ……ッ」
最後の兵士が泥の中に倒れ伏し、森に再び静寂が戻った。
松明の火は消えかけ、月明かりが二人の少年の姿をぼんやりと照らし出している。
ライカはその場にへたり込み、血まみれの軍刀を地面に突き立てた。
手の震えが止まらない。
生まれて初めて奪った命の重さが、胃を激しくかき回している。
「……ルカ。生きてるか……?」
「ああ……なんとかね。左腕を少し掠られたけど、大した傷じゃない」
ルカもまた、木の幹に寄りかかりながら荒い息を吐いていた。
青髪は泥と血で汚れ、端正な顔は極度の緊張からか青白く引きつっている。
「……やったな、俺たち」
「ああ。これで、もう……後戻りはできない」
ルカは倒れた兵士たちの遺体を冷たい目で見下ろしながら、ポツリと呟いた。
彼らの剣は、もう丸太を叩くためのものではない。
人の命を奪う、本物の「刃」へと変わってしまったのだ。
「もう……村には戻れない」
ライカが絞り出すように言った。
生まれ育った極貧の村。
憎悪と絶望しかなかった場所だが、それでも二人が身を寄せ合って生きてきた唯一の居場所だった。
「……行くぞ、ルカ。要塞都市へ」
ライカは震える足で立ち上がり、血塗れの軍刀を鞘に収めた。
その目には、恐怖を乗り越えた強烈な決意の炎が宿っていた。
「俺たちが生き残る場所は、もうあそこにはない。這い上がってやる……この理不尽な世界で、絶対に生き抜いてやるんだ」
「……分かってるよ。僕たちは、もう進むしかないんだから」
ルカもまた立ち上がり、細身の剣の血を布で拭い取った。
二人が運命の境界線を越えた決別の一夜だった。




