第3話 希望の破綻
広場を包み込む沈黙は、まるで死の冷気そのものだった。
泥まみれの地にひれ伏す村長老人の背中に、馬上の徴税隊長が放つ冷徹な殺気が重くのしかかる。
兵士たちは略奪の手を止め、ニタニタとした下卑た笑みを浮かべながら、老人がどのような末路をたどるのかを嘲笑うように眺めていた。
「隊長様……どうか、どうか温情を……!」
村長は血の混じった唾を吐きながら、なおも泥に顔を押し付けて懇願した。
その手は震え、干からびた皮膚が痛々しく引きつっている。
「来年の種モミまで奪われては、わしらは芽吹く春を迎えることすらできません!この村には、親を失った幼い孤児たちも大勢おります!どうか……どうか子供たちの命だけでもお救いください!」
「しつこいぞ、老いぼれが」
隊長の低く濁った声が、広場に冷たく響いた。
男は億劫そうに兜の顎紐を整えると、鞍の脇に差した長剣の柄に手をかけた。
「王国の恩恵を享受しておきながら、納めるべき税を惜しみ、挙句の果てに私情を挟んで言い訳を並べ立てる。それは忠義の欠如であり、我がガルディナ王国に対する明白な愚弄だ」
「そんな……滅相もございません!わしらはただ、生き延びたいだけで――」
「言ったはずだ。反逆の芽は摘む、とな」
シャキイン、と高く冷たい金属音が響いた。
鞘から引き抜かれた抜身の長剣が、午後のくすんだ光を反射して怪しく煌めく。
村人たちの間から、息を飲む音が漏れた。
「やめろ……頼むからやめてくれ……!」
物陰で息を潜めるライカの全身から、嫌な汗が噴き出していた。
赤髪の下の瞳がグラグラと煮えたぎり、視界が真っ赤に染まっていく。
隣でライカの肩を必死に抑えつけるルカの指先も、激しい力で白く強張っていた。
「ルカ……あいつ、殺す気だ……!村長を殺す気だぞ!止めなきゃ……!」
「動くなと言っているだろ、ライカ!」
ルカの囁き声には、これまで聞いたこともないほどの緊張と悲痛が混ざり合っていた。
「今飛び出せば僕たちも死ぬ!あいつの剣を見ろ、ただの兵士じゃない……!間合いの切り方、刀身の構え……あの隊長は本物の人斬りだ!」
「だからって……黙って見殺しにできるかよッ!」
だが、ライカの怒りが爆発するよりも早く、運命の瞬間は訪れた。
隊長は馬上から、何でもない雑草を払い落とすかのように、ただ静かに長剣を振り下ろした。
ザシュッ――。
不快な肉を断ち切る音が、静寂を切り裂いた。
老人の叫び声すら上がらなかった。
村長の首が浅く傾き、鮮血の飛沫が冷たい泥の上に大きな黒いシミを作っていく。
力無く崩れ落ちる老人の身体。
その広げられた手は、最後まで村の土を求めているようだった。
「ひっ……うわああああああっ!村長様っ!」
「お、お父さんッ!いやあああああっ!」
村人たちの悲鳴が一斉に弾けた。
狂乱と恐怖が広場を埋め尽くし、母親たちは子供の目を覆い隠してガタガタと震え上がる。
「ふん、不快な声だ。騒ぐ者は見せしめに血祭りに上げろ」
隊長が血塗られた刃を冷酷に振り払い、兵士たちへ命じた。
兵士たちがニヤつきながら剣を抜き、パニックに陥った村人たちへ迫っていく。
その瞬間、ライカの中で何かがプチりと弾け飛んだ。
理性の糸など、最初から無かったかのように霧散した。
己の命の危険、ルカの制止、圧倒的な戦力差――そんな思考の全てが、燃え盛る激怒の炎に飲み込まれて消えた。
「――てめええええええっ!!絶対に許さねえええええっ!!」
獣のような雄叫びが広場に轟いた。
「ライカッ!?」
ルカの叫びも虚しく、赤い髪の少年は身を隠していた物陰から飛び出していた。
足元の泥を爆発させるように蹴り上げ、一直線に兵士たちの群れへと突進する。
手に握られているのは、刃こぼれだらけの錆びた軍刀。
しかし、その身に纏う殺気とスピードは、百戦錬磨の兵士たちを一瞬だけ躊躇させるに十分な異彩を放っていた。
「なんだあのガキは!?」
「伏兵か!?討ち取れ!」
最前線にいた兵士二人が慌てて槍を構え直す。
だが、正気を失ったかのようなライカの突進速度は彼らの予測を超えていた。
ライカは槍の穂先が届く直前で強引に身体を沈めると、泥に滑り込むようにして間合いを殺した。
野性的な直感が命じるまま、兵士の足元を狙って低く軍刀を横一文字に薙ぎ払う。
ガギィンッ!
「グアッ!?」
鉄の脛当に弾かれたものの、強烈な衝撃に兵士が体勢を崩して泥の中に転倒した。
ライカはそのまま立ち止まることなく、足蹴にして踏み台にし、目指す敵――馬上の隊長へと跳躍した。
「身の程を知れ、ドブネズミが!」
隊長は冷ややかな目を向け、跳躍したライカの頭上から一閃を放とうと長剣を掲げた。
空中では回避も防御も不可能。
死がライカの喉元に届こうとした、まさにその一瞬――。
――ッシューーーン!!
鋭い風切り音が空気を穿ち、隊長の視界の死角から、青い閃光が滑り込んできた。
「……ハラは、括ったよッ!」
冷徹な叫びとともに、澄んだ青髪をなびかせたルカが、完璧なタイミングで死角から乱入していた。
ルカはライカが作った一瞬の混乱を逃さなかった。
兵士たちの視線が上空のライカに集中した隙を突き、影のように低い姿勢で接近。
隊長がライカを斬り下ろすために振り上げた右腕の脇腹――甲冑と防具の隙間となる、わずかな皮膚の露出部分を正確に見抜いていた。
ルカの手にある細身の直剣が、目にも止まらぬ速さで突き出される。
ズスッ!
「ぬぐっ……!?」
隊長の口から呻き声が漏れた。
右腕の関節を貫かれた衝撃で、振るわれようとしていた長剣の軌道が大きく狂う。
空中で死を覚悟していたライカの頭上を、隊長の剣が虚しく空を切って通り抜けた。
「ライカ!今だッ、引けえええっ!」
地面に着地したライカは、ルカの叫びで正気に戻った。
ルカの細身の剣が隊長の腕から引き抜かれ、血飛沫が舞う。
「貴様ら……ガキの分際で、この私に血を流させたかッ!」
隊長が顔を般若のように歪め、激怒の声を上げた。
傷を負った腕を押さえながらも、その殺気は先ほどまでの比ではない。
「逃がすな!あの二人のガキを細切れにして叩き潰せッ!!」
周囲の兵士たちが一斉に血走った目で剣を抜き、二人を取り囲もうと襲いかかってくる。
「走れ、ライカ!森へ逃げるんだ!」
「おおおっ!」
ライカとルカは背中を合わせると、襲いかかる兵士の槍を力任せに弾き飛ばし、一進一退の死闘の末、隙を突いて広場の外へと走り出した。
激しい怒号と追手の足音が、二人を追って急速に近づいてくる。
もう、二度と村には戻れない。
二人の少年は、血塗られた刃を握りしめたまま、漆黒の夜へと変わりつつある荒野へと身を投げ出した。




