第30話 断ち切る情と高まる志
東の空がゆっくりと茜色から薄紫へと移り変わり、朝靄の立ち込めるグランベルの街角に静かな光が差し込み始めていた。
ひんやりとした朝の空気を突き破るように、少年の足音が石畳を叩く。
一閃館の部屋で一晩中涙を流し続けたシオンだった。
瞳は真っ赤に腫れ上がり、全身には激しい疲労が溜まっていた。
だが、その足取りには昨夜までの迷いや躊躇いは微塵も無かった。
短杖を握る小さな指先に、確かな力が込められている。
下層区の露地に佇む大衆食堂『木もれび亭』。
まだ開店前の静まり返った店の前で、シオンは深く呼吸を整え、木戸をそっと叩いた。
トントン、と遠慮がちな音が響く。
少しの間を置いて、中から慌ただしい足音が近づいてきた。
「はーい! ごめんなさい、開店はもうちょっと……え? シオンくん!?」
仕込みのために早起きしていたセナが、扉を開けるなり目を見開いた。
栗色の髪を後ろで結び、腕まくりをした少女の顔に、驚きと喜びが同時に浮かぶ。
「どうしたの、こんな朝早くに! 瞳がすごく赤いよ……何かあったの?」
「セナさん……」
シオンはセナの顔を直視することができなかった。
視線を少しだけ落とし、胸の奥で渦巻く痛みを必死に押し殺しながら、静かに唇を開いた。
「朝早くに押し掛けてごめんなさい。……僕、挨拶に来たんだ」
「え……? 挨拶って……」
「僕……遠くへ旅立つことになりました。今日、この街を発ちます」
カトン、と小さな音が聞こえた。
セナが手に持っていた仕込み用のふきんが、床へ力無く零れ落ちていた。
「遠くって……どこへ行くの? いつ戻ってくるの……?」
「戻れません」
シオンの声は短く、そして残酷なほど静かだった。
「本当の事情は……言えません。僕は身分も隠さなきゃいけないような逃亡者で、これから先、いつ死ぬかもわからない修羅の道を進まなきゃいけない……。本当は、セナさんみたいな優しい人と関わること自体、許されない人間だったんです」
「そんな……そんなことないよ! シオンくんは優しくて、私の大切な……!」
「セナさん」
シオンはセナの言葉を優しく遮ると、意を決して顔を上げた。
赤く腫れた瞳でセナの顔を網膜に焼き付けるようにじっと見つめ、痛々しいほど綺麗な笑みを浮かべた。
「セナさんは僕に、生まれて初めての温かい思い出をくれました。美味しい料理も、優しい言葉も……孤児として凍えていた僕にとって、夢みたいな時間でした。……本当に、ありがとうございました」
「シオンくん……待ってよ……! 急すぎるよ、私……!」
セナの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
その涙を見た瞬間、シオンの胸は引き裂かれるほどの激痛に襲われた。
今すぐ彼女の肩を抱きしめ、ここに残りたいと、ずっとセナの隣で美味しいシチューを食べながら暮らしたいと、叫びたかった。
だが――シオンは胸の奥で、その芽生えたばかりの初恋を、鋭い情の刃で断ち切った。
(僕には……護らなきゃいけない家族がいる。僕を活かしてくれたガルシア様と、命を分け合ってきた兄さんたちがいるんだ……!)
「セナさんの淹れてくれたスープの味……一生忘れません」
「シオンくん! シオンくん――ッ!」
涙を拭うセナに深々と一礼すると、シオンは踵を返し、振り返ることなく疾走した。
一度でも振り向けば、足が止まってしまう。背後から自分を呼ぶ悲痛な声を聞きながら、シオンは歯を喰いしばり、溢れ出る涙を風に散らしながら、一閃館へと向かって走り続けた。
朝日が燦々と降り注ぐ一閃館の広大な稽古場。
そこには、朝稽古を始めていたライカ、ルカ、そしてアリアの姿があった。
ライカは背中に担ぐ重厚な大剣の柄に手を置き、浮かない顔で床を見つめていた。
昨夜、自分が叩きつけた「赦し」の言葉。弟の幸せを願って放ったあの言葉が、本当に正しかったのか。ライカの心にも浅からぬ葛藤が残っていた。
その時、稽古場の重い木戸が開いた。
「シオン……!」
アリアが息を飲んだ。
息を弾ませて入ってきたシオンの顔は、昨夜以上に惨痛なものだった。
真っ赤に腫れ上がった瞳、蒼白な肌、そして走ってきたせいで乱れた黒髪。
ライカは膝の大剣を立てかけ、静かに立ち上がった。
「……シオン。あの子と……ちゃんと話せたか?」
ライカの声は、どこまでも優しかった。
シオンがこのまま一閃館を去り、セナと共に生きる道を選んだとしても、笑って送り出す覚悟を固めていた。
だが――シオンはライカの目の前まで歩み寄ると、しっかりと背筋を伸ばした。
赤く腫れた瞳の奥。
そこに宿っていたのは、昨夜までの迷いや弱さではなかった。
すべての迷妄を削ぎ落とし、自らの命の使い道を見定めた者にしか宿らない、澄み切った黄金の覚悟だった。
「ライカ……ルカ……アリアさん」
シオンの声が、朝の静寂に包まれた稽古場に深く響き渡る。
「僕は、逃げない」
「……何?」
ライカが目を見開いた。
「二人に復讐を押し付けて……自分だけがぬくぬくと温かい場所で幸せになるなんて、そんなの絶対嫌だ!」
シオンの小さな拳が、血が滲むほど強く握りしめられる。
「ガルシア様が僕にくれたこの命も、繊細な魔術の才能も……全部、二人に追いつくために、大切な家族であるみんなと共に戦うために使うッ! 僕は僕の意志で、二人と一緒に修羅の道を進むんだ!」
初恋を自らの手で殺し、血を吐くような苦悩の果てに掴み取った決意。
二人の兄に守られるだけの「弱き弟」は、そこにいなかった。
自らの意思で刃を取り、家族と共に地獄へ飛び込む覚悟を決めた、一人の気高き戦士の顔がそこにあった。
「……バカ野郎」
ライカの唇が激しく震えた。
ライカは顔を背け、腕で目元を強く覆った。溢れ出そうになる涙を必死に堪えながら、口端を大きく吊り上げた。
「後悔しても……知らねえぞ、バカ野郎……ッ!」
「後悔なんて、絶対にしないよ」
シオンが力強く頷くと、隣にいたルカが静かに歩み寄ってきた。
冷徹なはずのルカの青い瞳にも、熱い光が揺れていた。ルカは何も言わず、シオンの小さな手に自分の手を重ねた。
「よく言った、シオン。……僕たちの背中は、君の魔術に預ける」
「はいッ!」
「私も……私も一緒に戦うわ!」
アリアも駆け寄り、涙を浮かべながら二人の手に自分の手を重ねた。
最後にライカが、巨大な拳で全員の手を上から包み込んだ。
「行くぞ……どこまでも、四人で!」
重なり合う四つの手。
生き残るため、ガルシアの意志を継ぐため、そして理不尽な世界に立ち向かうため。
彼らの絆は傷つき、擦り減りながらも、決して折れることのない強固な一つの「刃」へと昇華していた。
その光景を、道場の陰から静かに見つめていた男がいた。
黒の道着を纏った師範――兄弟子グレンだった。
(……見事です、ガルシア様)
グレンは胸中で亡き師の名を叫び、深く目元を伏せた。
(あなたが生み出した芽は、泥を舐め、傷を負いながらも、こんなにも気高く、強く育ちました。……もはや、あいつらは単なる浮浪児でも、守られるべき遺児でもない)
グレンは静かに歩み出ると、四人の前で仁王立ちになった。
その眼光には、これまでにないほど苛烈で、それでいて深い慈愛に満ちた色彩が宿っていた。
「ライカ、ルカ、シオン、アリア。……お前たちの覚悟、しかと見届けた」
全員の視線が、グレンへと集まる。
「これより、お前たちに師ガルシアが遺した最後の奥義――『一閃伝承・双刃の型』の秘伝を授ける。死ぬ気で喰らいついてこい!」
「「「はいッ!!」」」
四人の腹の底からの咆哮が、朝のグランベルの空へと高く轟いた。
恋を捨て、迷いを断ち、絆を研ぎ澄ませた少年たち。
彼らが真の不敗の刃へと成長を遂げるための、血と汗の『第二幕』が、いま静かに幕を開けようとしていた――。




