第29話 兄の言葉と弟の涙
大都市グランベルの下層区。石畳を茜色に染める夕暮れの街並みは、上層区の洗練された美しさとは異なり、どこか人間くさい温もりに満ちていた。
煮込み料理の香ばしい匂い、家路を急ぐ人々の足音、露店から響く呼び込みの声。
その喧騒から一段落ちた路地裏の物陰に、気配を殺して身を潜める赤髪の少年がいた。ライカだ。
「……あいつ、こんなところで何やってんだ」
ライカの視線の先には、大衆食堂『木もれび亭』の木戸の前で佇むシオンの背中があった。
華奢な肩をこわばらせ、手にした短杖の柄を白くなるほど強く握りしめている。
入ろうか、それとも引き返そうか。
何度も足踏みを繰り返し、まるで冷たい刃の上に立たされているかのような痛々しい迷いが、その背中全体から滲み出ていた。
ガラガラと音を立てて木戸が開いたのは、その時だった。
「あっ……シオンくん!」
エプロン姿の少女――セナが、ゴミ箱を抱えて店から出てきた。
少女はシオンの姿を認めると、ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべ、駆け寄ってきた。
「やっぱりシオンくだ! 今日は来ないのかなって思ってたの。昨日、急に走って帰っちゃったから……私、何か気に障るようなこと言っちゃったかと心配で」
「あ……ううん! セナさんは何も悪くないんだ。ごめんなさい……僕の都合で」
シオンは慌てて引きつった笑みを浮かべ、手を振った。
だが、その笑顔の奥に張り詰めた痛切な糸を、物陰から見つめるライカは見逃さなかった。
二人はしばらくの間、他愛のない言葉を交わしていた。
セナが今日あった楽しかった出来事を話し、シオンがそれに優しく相槌を打つ。
その瞬間のシオンの表情は、一閃館の稽古場で見せる冷や汗に濡れた決意の顔でも、冒険者ギルドで見せる引き締まった術者の顔でもなかった。
どこにでもいる、ごく普通の十五歳の少年の顔だった。
しかし、セナが「また後でね!」と店内に戻っていった瞬間――シオンの顔から一切の色彩が失われた。
「……ッ」
シオンは一人、食堂の壁に背を預け、激しく頭を抱え込んだ。
その小さな身体が、恐怖と罪悪感で浅く震えている。
絶望に似た激しい溜息が、少年の薄い唇から零れ落ちていた。
温かな日常に惹かれ、少女の笑顔に救われている自分。
その一方で、滅び去ったヴェローナの惨劇と、命を散らしたガルシアの影に苛まれる自分。
二つの想いに引き裂かれ、血を流すような思いで苦しむ弟の姿が、そこにあった。
(シオン……お前……)
ライカは胸の奥を激しい打撃で突かれたような衝撃を覚えた。
言葉をかけることもできず、ライカはただ静かに気配を消し、夕闇の迫る道へと引き返した。
夜の帳が下り、一閃館は静寂に包まれていた。
頭上に架かる月は冷たく澄み渡り、庭園の池の小波を銀色に揺らしている。
静まり返った池のほとりに、ライカは一人たたずんでいた。
その膝の上には、無造作に置かれた一本の刀があった。
漆黒の鞘に収められた、かつてガルシアが振るった愛刀。
いまのライカの体格では全身の軸を使わねば振れぬその重厚な長剣に、ライカはそっと大きな手を重ねていた。
「……ライカ?」
背後から、静かな足音が近づいてきた。
道着姿のシオンだった。
昼間の迷いを引きずっているのか、顔色は蒼白で、ライカの背中に向ける視線には怯えと罪悪感が混ざり合っていた。
「僕を呼び出すなんて……何かあったの?」
シオンは深くうつむき、手にした短杖を抱え込むようにして身構えた。
稽古中に集中を欠いていたこと、何かを隠していること。
きっとライカに問詰され、怒鳴られ、たるんだ精神を叩き直されるのだと、そう覚悟していた。
しかし、ライカは静かに立ち上がると、ゆっくりとシオンに向き直った。
月光を反射する赤髪の奥。
ライカの目元に浮かんでいたのは、怒りでも苛立ちでもなかった。
シオンが一度も見たことがないほど、深く、優しく、包み込むような温かな笑みだった。
「シオン。……昼間、お前のこと、後ろから見てたぜ」
「……っ!?」
シオンの全身から、一瞬で血の気が引いた。
小さく息を飲んだシオンは、弾かれたように膝をつきそうになりながら、激しく首を振った。
「ごめん……ごめんなさい、ライカ! 僕……みんなが血を吐くような思いで稽古をしているのに、一人だけそんな……そんな温かい場所に通って……! 浮ついて、過去を忘れそうになって……!」
溢れ出す罪悪感。シオンは必死に声を震わせ、自分を責め立てた。
「謝るなよ、バカ」
ライカの静かな声が、シオンの悲鳴のような謝罪を優しく遮った。
「ライカ……?」
「お前はさ」
ライカは静かな足取りでシオンに歩み寄り、その華奢な肩にそっと大きな手を置いた。
「俺やルカと違って、根からの武人じゃねえ。昔からそうだろ。路地裏で拾われた時も、お前は戦うことより、怪我した野良犬の手当てをしてるような奴だったんだろ?」
「そんなこと……僕は魔術でみんなの力になりたくて――」
「お前は優しい手を持ってるんだよ、シオン」
ライカの言葉には、揺るぎない確信と、弟への深い誇りが満ちていた。
「血を流して敵を斬り刻むのは、俺とルカの役目だ。……お前は誰かの傷を癒やして、温かい飯を食って、大切な奴の隣で笑ってる方が……よっぽど似合ってる」
「な……何を言ってるの、ライカ……? 僕はみんなと……ガルシア様のために……!」
「ガルシアのおっさんはな」
ライカは膝の上の大剣を指で叩き、夜空を見上げた。
「俺たちに『生きろ』って言ったんだ。ただ復讐のために命を燃やし尽くして、惨めに死んでいけなんて……あのおっさんが望むと思うか?」
「っ……」
「あいつが俺たちを生かしたのは、俺たちに未来で笑って生きてほしかったからだろ。だったらさ……シオン」
ライカはシオンの目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと語りかけた。
「復讐なんて泥臭い真似は、俺とルカに任せろ。お前はあの子と……お前自身の人生を歩め。それが、兄貴としての俺の願いだ」
それは、責め苦よりも残酷な「赦し」だった。
自分を戦いから外し、一人の人間としての幸せへ押し出そうとする、あまりにも深く、あまりにも切ない兄の愛。
「あ……あぁ……っ」
シオンの胸の奥で、何かが派手に崩れ落ちた。
瞳から大粒の涙が零れ落ち、石畳を濡らしていく。
「嫌だ……ッ! 嫌だよ、ライカ……ッ!」
シオンは庭に崩れ落ち、頭を床に擦り付けるようにして慟哭した。
「二人が……大好きな二人が血を流して戦っているのに、僕だけ逃げるなんて……そんなの、生きてる意味なんてないよッ! ガルシア様が僕にくれたこの命を……みんなを捨てるために使えっていうの!? うあぁぁぁぁっ……!」
夜の庭園に、シオンの血を吐くような叫びが響き渡る。
セナと過ごすうたた寝のような温もり。
その温もりに惹かれる自分。だが、それ以上に大切な、命を分け合ってきた家族という存在。
どっちも大切だった。どっちも失いたくなかった。
けれど、身分を隠した逃亡者である自分が両方を手に入れることなど、決して許されないのだ。
ライカは何も言わず、ただ静かに膝をつき、泣きじゃくるシオンの小さな頭を、大きな手で力強く撫で続けた。
その背中に寄り添い、弟の痛みをすべて受け止めるように。
月光が静かに二人を照らしていた。
その夜、シオンは道場の部屋で膝を抱え、一晩中涙を流し続けた。
セナの優しい笑顔、食堂のシチューの温もり、そして自分に「生きろ」と微笑んだガルシアの面影。
自分の命を何のために使うべきなのか。
絆と恋の激しい狭間で、シオンは朝が訪れるまで、血を吐くような葛藤の中に身を沈め続けていた――。




