第28話 薄氷の平穏
大衆食堂『木もれび亭』の厨房から漂う、出来立てのシチューの香り。
夕暮れの柔らかい日差しが差し込む店内で、セナが楽しそうに声を弾ませていた。
「ねえ、シオンくん! 今度の休日、街の中央広場で大きなお祭りが開かれるんだって! 出店もたくさん出るみたいだし……もしよかったら、一緒に――」
「あ……うん。そうだね、きっと賑やかになるね」
返事をするシオンの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
セナと過ごす小一時間は、過酷な依頼や血生臭い戦闘を忘れられる、世界で唯一の安らぎの場だった。
彼女の無邪気な笑顔を見つめていると、自分がどこにでもいる普通の十五歳の少年になれたような気がした。
だが――。
(……僕は何を浮かれているんだ?)
その瞬間、シオンの脳裏に冷たい氷の刃が突き刺さった。
胸の奥で、炎の記憶が燃え上がる。
黒煙に包まれる穀倉都市ヴェローナ。血の海の中に立ちはだかり、命を賭して自分たちを逃がしてくれた父親代わりのガルシア。
身内裏切りによって居場所を奪われ、逃亡者として生きる自分たちの悲惨な運命。
(ライカやルカは、毎日血を吐くような地獄の稽古で身を削っている。アリアさんだって、お嬢様の誇りを捨てて必死に生きているのに……僕だけが、こんな温かい場所でヘラヘラと笑っていていいはずがない)
血の気が引いていく。
セナの楽しそうな声が、急に遠い世界の出来事のように聞こえ始めた。
「……シオンくん? どうしたの、急に顔色が……」
「あ、ううん! なんでもないんだ。ごめんね、セナさん……そろそろ戻らなきゃ」
シオンは慌てて銅貨をテーブルに置くと、逃げるように食堂を飛び出した。
背しろで「あ、シオンくん! 待って――」と呼ぶセナの声が響いたが、振り返ることはできなかった。
夜の帳が降りたグランベルの街道を、シオンは一人、俯きながら歩いていた。
手にした短杖を強く握りしめる。指先が白く変色するほど、力が入っていた。
(僕は……愚かだ。ガルシア様が僕に魔術の才を見出してくれたのは、温かな日常で愛を囁くためじゃない。仲間を守り、理不尽な世界に立ち向かうための『力』を与えるためだったのに……)
セナの優しい笑顔を思い浮かべるたび、強烈な罪悪感がシオンの胸を苛む。
このままセナとの関係を深めていけば、いつか彼女を自分たちの暗い運命――ゼノヴィス軍や裏切り者たちの復讐の渦中に巻き込んでしまうかもしれない。
かといって、自分の正体やヴェローナの過去を明かせるはずもなかった。
身分を隠した逃亡者と、街の平穏な少女。
二人の間にある溝は、あまりにも深く、残酷だった。
(僕に……幸せになる資格なんて、最初から無いんだ)
道場へ戻る足取りは、鉛のように重かった。
翌日の一閃館。
「おい、シオン。この傷薬の調合、薬草の割合が少し違わないか?」
稽古の合間、汗を拭いながらルカが眉をひそめた。
手渡された薬壺の中身は、普段のシオンなら絶対にやらないような初歩的な調合のブレが生じていた。
「え……? あ、ごめんね、ルカ。すぐにやり直すよ」
「……シオン、お前、最近おかしいぞ」
木剣を床に立てかけたライカが、荒い息を吐きながら歩み寄ってきた。
全身あざだらけの赤髪の少年は、野性的な鋭い瞳でシオンの顔を覗き込んだ。
「ここ数日、ずっと心ここにおらずだ。ギルドの依頼で何か嫌なことでもあったのか? それとも体調が悪いのか?」
「そんなことないよ! ただ……ちょっと魔術の勉強で考え事をしていて……」
シオンは慌てて引きつった笑みを浮かべ、誤魔化そうとした。
だが、長年ともに死線をくぐり抜けてきた「兄弟」の目を欺くことはできなかった。
「……嘘をつくのが下手だな、シオン」
離れから着替えの布を持って現れたアリアも、心配そうにシオンを見つめていた。
「あなた、夜もあまり眠れていないでしょう? 部屋から深呼吸や溜息をつく音が聞こえてくるわ。何か悩んでいるなら、私たちに話しなさいよ。私たちは家族でしょう?」
「アリアさん……」
みんなの温かい視線が、今のシオンには痛いほど突き刺さった。
自分を心から心配してくれる家族。
だからこそ、己の私情や初恋の葛藤など、口が裂けても言えなかった。
みんなが復讐と生存のために命を懸けている時に、「食堂の女の子が好きになって悩んでいる」などと、どうして言えるだろうか。
「本当に……大丈夫だから。ちょっと疲れているだけなんだ。心配をかけてごめんなさい」
シオンは深々と頭を下げると、逃げるように調合室へと駆け去っていった。
残された稽古場で、ライカ、ルカ、アリアの三人は顔を見合わせた。
「……あいつ、絶対に何か隠してるな」
ライカが腕を組み、背中の一刀の柄にぽんと手を置いた。
「責めるような理由じゃないはずだ。シオンは昔から、一人で重いものを背負い込もうとする癖がある」
ルカが静かに呟く。
「……僕が少し、あいつの後を追ってみる」
ライカはそう言い捨てると、夕暮れの中に消えていった弟の背中を追いかけ、足音を殺して道場を後にしたのだった。




