第23話 師範の眼光
「……おい、ルカ。マジで道場の中に入るのか?」
道場の立派な長屋門の前で、ライカが引きつった顔で耳打ちした。
石畳の上には、鼻血と泥まみれで気絶したアルトが転がっており、残された門下生たちは恐怖と怒りに震えながら二人を遠巻きに取り囲んでいる。
「当り前だ」
ルカは深い溜息をつきながら、短く答えた。
「このまま立ち去れば『襲撃者』として衛兵に通報されかねない。僕たちは身分を隠して潜伏している身だ。逃げて指名手配されるより、ここで冷静に示談に持ち込むのが一番リスクが低い」
ルカは覚悟を決めると、自ら門をくぐり、道場の敷地内へと足を踏み入れた。
バツの悪そうなライカも、ガルシアの大刀を背に抱え直して後に続く。
「おい……ッ! 逃げずに自首してくるとはいい度胸だな!」
「アルト様をあんな目にして……師範にお言いつけて叩き出してもらうぞ!」
門下生たちが喚き散らす中、道場の奥から重々しい足音が近づいてきた。
「何の騒ぎだ」
低く、地響きのように静かな声。
道場の奥から現れたのは、質素な黒の道着を纏った三十代半ばの男だった。
引き締まった体躯、鋭い眼光、そして右頬から首筋にかけて走る古い切り傷の痕。
大柄とまではいかないが、その全身から漂う圧迫感は、並の剣士のそれとは一線を画していた。
「グレン師範ッ! このドブネズミどもが、アルト様を……ッ!」
門下生の一人が縋りつくように叫んだ。
道場主――グレンは、気絶して運ばれていくアルトの無残な姿を一瞥すると、静かに視線を巡らせ、門前に立つライカとルカの上に留めた。
「……ほう」
グレンの眉が微かに動いた。
ルカはすかさず一歩前へ出ると、腰を深く折り、丁寧な礼を取った。
「失礼いたします、師範。僕たちは冒険者の者です。先ほど、貴道場の門下生の方と口論になり、こちらの仲間が手を出してしまいました。非はこちらの行き過ぎた暴行にあります。お怪我の治療費については、できる限りの誠意をお支払いします」
無駄のない所作、言い訳を挟まず理路整然とした謝罪。
だが、グレンの鋭い眼光は、ルカの言葉そのものよりも、二人の「立ち姿」を凝視していた。
「……足を軽く開き、重心をやや前に残した構え。後始末に来ておきながら、指一本でいつでも腰の直剣を抜ける間合いを保っている。軸に一切のブレがない」
グレンは低く呟き、今度はライカへと視線を移した。
「そっちの赤髪は……野性そのものだな。筋肉の引き締まり方、拳のタコ、そして何よりその目だ。型にはまった道場の剣じゃない。死線を何度もくぐり抜け、泥を舐めて生き残ってきた奴の顔だ」
「……ッ」
ルカの背中に冷や汗が流れた。
一目見ただけで、自分たちの剣の「本質」を見抜かれた。この男、只者ではない。
グレンは腕を組み、騒ぎ立てていた門下生たちを冷ややかに見下ろした。
「アルトの奴、また道場の看板を笠に着て外で威張り散らしたな? 相手の身なりを見て舐めてかかり、返り討ちに遭った……といったところか」
「あ、いや……それは……ッ」
「口を慎め。剣を握る者が相手の芯も見抜けぬとは笑止千万。アルトには目が覚めたら雑用百日を命じる」
門下生たちが一斉に黙り込んだ。グレンの言葉には、反論を許さない絶対的な重みがあった。
グレンは再びライカとルカに向き直ると、ふっと口の端を上げた。
その瞳に宿っていた冷酷な色彩が消え、猛者を検分するような強い興味へと変わる。
「謝罪も治療費も不要だ。自業自得の敗北から学ぶのも稽古のうちだからな。……それより、お前たち」
グレンは二人を指差し、堂々と言い放った。
「実にいい筋をしている。粗削りだが、死にかけた肉体だけに宿る本物の覇気がある。どうだ? うちの道場の門下生にならないか? 正式に俺の手ほどきを受ければ、数年でこの街一番の剣士になれるぞ」
破格のスカウトだった。
大都市グランベルでも有数の名門道場の師範から、直接弟子入りを打診されたのだ。
剣の腕を磨きたい二人にとって、これ以上の願ってもない好機に見えた。
ライカが一瞬、目を輝かせてルカを見た。
しかし――ルカの頭脳は、即座に冷酷な現実を弾き出していた。
(……ダメだ)
名門道場の門下生になれば、当然ながら毎月高額の月謝が発生する。
伯爵から預かった資金は逃亡の命綱であり、無駄使いはできない。
何より、僕たちには宿で待つアリアやシオンを養うための生活費を稼ぐ責務がある。
昼間に道場で呑気に稽古を受ける余裕など、今の自分たちにはどこにもないのだ。
ルカは固く唇を噛み締め、再び静かに首を横に振った。
「……申し訳ありません、師範。せっかくのお言葉ですが、お受けすることはできません」
「なに?」
グレンが意外そうに眉をひそめた。
「理由を聞かせてもらおう。剣を志す者なら、願ってもない話のはずだが」
「……僕たちは、生活が苦しいのです」
ルカは偽りのない、切実な事実を口にした。
「日々の飯を稼ぎ、養うべき仲間がいます。毎日の手配仕事に追われており、道場に通う余裕も、月謝をお支払いする金銭的余裕もありません。……ありがたいお話でしたが、辞退させていただきます」
「……」
グレンは黙って二人の顔を見つめ直した。
洗練された大都市の少年たちとは違う、生きるために刃を研ぐ者の切実な眼差し。
その奥にある譲れない矜持を読み取ったグレンは、深く溜息をつき、手を振った。
「……そうか。ならば強くは言わん。邪魔をしたな」
「失礼いたします」
ルカはライカの手を引くようにして、急速に道場を後にした。
背後に残されたグランベル一閃館の長屋門を見上げながら、ライカは悔しそうに歯噛みした。
「……くそっ。強くなるチャンスだったのにな」
「仕方ないさ、ライカ。僕たちの最優先事項はアリアさんとシオンを守り、生きていくことだ」
強さを求める渇望と、押し寄せる貧しい現実。
二人は夕暮れに染まるグランベルの街道を、重い足取りで安宿へと帰っていくのだった。




