第18話 英雄の影
ガルシアが出撃してから三日の月日が流れていた。
普段ならどれほど過酷な戦場であっても、ガルシアの率いる騎兵隊は鮮やかに敵を退け、豪快な笑い声とともに帰還していた。
しかし、今回の館を包む空気は、これまでにないほど重く、冷たく冷え切っていた。
庭園では、ライカとルカが黙々と木剣を振るっていた。
汗が額から垂れ落ち、石畳を濡らす。二人の打ち込みには、焦りと祈りに似た狂気が宿っていた。
「……ライカ、踏み込みが甘い」
「うるせえ! お前だって腕が震えてんじゃねえか!」
木剣が激しく打ち合わさる。
ルカの言う通りだった。互いに言葉には出さないものの、出撃の夜にガルシアが残した言葉――「内部の裏切り者」という凶兆が、胸の奥で黒い毒のように広がり続けていたのだ。
屋敷の離れではシオンが魔術の書物を開いていたが、その視線は同じページを行ったり来たりするばかりで、全く頭に入っていなかった。
居間に坐すマリアもまた、ただ静かに手芸の針を止め、遠い国境の空を見つめていた。
その平穏が破られたのは、陽が赤く傾きかけた黄昏時だった。
バカッ、バカッ、バカッ――!
猛烈な勢いで街道を駆けてくる馬秤の音が、館の門前で唐突に止まった。
ついで、重い鉄鎧が地に倒れ込むような凄惨な衝撃音が響く。
「……ッ!?」
ライカとルカは弾かれたように木剣を投げ捨て、門へと駆け出した。シオンとマリアも、胸を騒がせながら後に続く。
門をくぐった先で倒れていたのは、血と泥に塗れた一人の騎士だった。
ガルシアの副官を務める、経験豊かな古参の武人だ。
しかし、その甲冑はズタズタに引き裂かれ、右腕は無残に曲がり、全身から血が噴き出していた。
「副官殿……!? 一体どうしたんです、その怪我は!」
ルカが咄嗟に抱き起すと、副官は血を吐きながら、虚ろな目でルカの胸ぐらを掴み引き寄せた。
その瞳には、深い絶望と激しい無念の色彩が激しく渦巻いていた。
「……ガルシア様が……ガルシア様が……っ!」
「おっさんはどうしたんだよッ!? 答えろよッ!」
ライカが副官の肩を掴み、怒号を上げる。副官は咽び泣き、喉を詰まらせながら、前線で起きた惨劇の全貌を語り始めた。
――罠だった。
国境の峡谷へ向かったガルシア騎士団を待っていたのは、ゼノヴィス軍の伏兵だけではなかった。
ヴェローナ軍の重鎮――穀倉都市の防衛線を任されていた貴族将校の一人が、密かにゼノヴィス派へと寝返っていたのだ。
その裏切り者はガルシア隊の背後の補給路と退路を遮断し、防衛線の城門を内部から固く閉ざした。
ガルシアたちは、前方にゼノヴィス軍の精鋭大軍、背後に味方であったはずの要塞の固い壁という、退路を完全に塞がれた極限の包囲網に叩き落とされたのだ。
「……裏切り者の将校は……ゼノヴィス軍から莫大な金と、落城後の地位を約束されていた……ッ! ガルシア様の圧倒的な武名を恐れ、邪魔立てしたのだ……!」
副官の声が悔しさに震える。
「絶体絶命の包囲の中……ガルシア様は……我ら部下数百名を脱出させるため……たった一人で狭い峡谷の口に立ちふさがれた……!」
「一人で……!? 馬鹿野郎、なんで全員で戦わねえんだよッ!」
ライカが叫ぶ。だが、副官は涙を流して首を振った。
「全員で戦えば全滅だった! ガルシア様は……『俺の愛する息子たちに、これ以上惨めな知らせを届けるな』と叫ばれ……巨大な大剣を振るい、迫りくる数百の敵兵をたった一人で食い止められた……ッ!」
迫り来る槍の山を打ち砕き、群がる敵をなぎ倒し、血の海の中で仁王立ちとなったガルシア。
全身に数十の矢と槍を受け、甲冑が朱に染まってもなお、その巨躯は一歩も引くことはなかったという。
部下たちが涙を飲んで脱出する背中で、伝説の獅子は最後まで不敵に笑い、敵の将校ごと峡谷を崩落させ――壮絶な最後を遂げた。
「ガルシア様は……討ち死にされた……。我らを逃がし……ただ一人で……ッ!」
副官の絶叫が、黄昏の庭園に冷たく響き渡った。
「……嘘だ」
ライカの手から力が抜け、膝からがくりと地面に崩れ落ちた。
「嘘だろ……おっさんが……あんなに強かったおっさんが……死ぬわけねえだろ……ッ! 『大陸で五本の指に入る』んだろ!? こんなくだらねえ罠なんかで死んでんじゃねえよッ!!」
ライカは血が出るほど拳を石畳に叩きつけた。皮が破れ、血が滲む。だが胸を切り裂かれるような激痛に比べれば、手の痛みなど何も感じなかった。
ルカは言葉を失い、ただ全身を激しく震わせていた。
青い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、泥を濡らしていく。
冷徹な分析も、戦略も、何一つ意味をなさなかった。尊敬し、背中を追い続けた「父親」は、卑劣な裏切りという理不尽によって、二度と戻らない存在となったのだ。
「う、あ……あああぁぁぁっ!!」
シオンがその場に泣き崩れ、顔を覆って慟哭した。
そして――
「……あなた……」
マリアが絞り出すような声を漏らした。
手にしていた手ぬぐいが力なく落ちる。彼女は取り乱して叫ぶこともなく、ただ静かに血の気を失った顔で天を仰ぎ、そのまま糸が切れた人形のように倒れ込んだ。
「マリアさんッ!」「マリア様ッ!」
悲鳴が交差する。
陽だまりのように温かかったガルシアの館は、一瞬にして絶望と死の冷気に支配された。
故郷を奪われ、世界に捨てられた自分たちを拾い上げてくれた男。
「強さ」とは何かを教えてくれ、「息子」と呼んで抱きしめてくれた男。
その男が、己の欲望のために国を売った欲望に塗れた重鎮どもの裏切りによって、命を散らした。
「許さねえ……許さねえぞ……ッ!!」
ライカの胸の奥で、かつて村を焼かれた時以上の、黒く狂おしい殺意の炎が燃え上がった。
牙を剥き、天を仰いで咆哮する赤髪の少年。
だが、悲劇はこれで終わりではなかった。
英雄ガルシアという絶対の防壁を失ったヴェローナに向かって、次男ゼノヴィス軍の大軍勢が、血に飢えた狼のように雪崩れ込んでこようとしていた。
悼む時間すら与えられぬまま、滅亡の足音が、すぐそこまで迫っていた。




