第15話 路地裏の継承者
ガルシアの屋敷での生活が始まってから、幾夜が過ぎた。
激しい剣の稽古と昼の家事に追われる日々の中で、ライカとルカにはずっと気になっていることがあった。
この屋敷で同居している、自分たちより一歳年下の黒髪の少年――シオンのことだ。
シオンは大陸屈指の剣豪であるガルシアの館に暮らしながら、一度も木剣を握ったことがなかった。
ガルシアが庭で二人を激しく打ちすえ、怒号を飛ばしている間も、シオンは離れの部屋で静かに羊皮紙と向き合い、週に数度訪れる初老の人物から熱心に手ほどきを受けていた。
その羊皮紙に書かれていたのは、見たこともない複雑な紋様と古代語――「魔術」の知識だった。
ある日の昼下がり。
薪割りを終えたライカは、手ぬぐいで汗を拭いながら、離れの廊下で分厚い書物を広げていたシオンに声をかけた。
「おい、シオン。お前、ガルシアのおっさんの弟子だろ? なんで剣を稽古しないで、そんな難しそうな本ばっか読んでんだ?」
シオンはゆっくりと顔を上げ、黒い瞳を瞬かせた。
その手元では、細い指先から小さな青い火花がパチパチと静かに爆ぜていた。
「……僕は、剣の才能が全くなかったからだよ」
シオンは静かな声で答えると、手元の書物を優しく閉じた。
「最初から魔術師を目指していたわけじゃないんだ。僕もね……三年前、要塞都市の路地裏で凍えて死に掛けていた孤児だったんだよ」
ライカと、後ろから歩み寄ってきたルカの身体がピクリと反応した。
「お前も……路地裏の孤児だったのか?」
「うん。親はいなくて、食べ物もなくて、冬の泥の上でただ死を待つだけだった。そこを、街の巡回中に通りかかったガルシア様に拾われたんだ」
シオンは遠い目をして、当時のことを懐かしむように微笑んだ。
「ガルシア様は最初、僕にも木剣を持たせて稽古をつけてくれた。でも僕は体が弱くて、剣を振るうことすら満足にできなかった。……だけどガルシア様は、僕を捨てるどころか、僕が小さく火を点せることに気づいてくれたんだ。それから高いお金を払って、この街で一番の家庭教師を呼んで僕に魔術を学ばせてくれた」
シオンは二人の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ガルシア様はね、子供の生まれや身分なんて一切気にしない。その子が生き抜くために必要な『才能の芽』を見抜いて、それを育てる手助けをしてくれる人なんだ。……ライカさんとルカさんを見ているとわかるよ。二人には、ガルシア様が目を輝かせるほどの素晴らしい剣の才能と、折れない心があるんだって」
「……」
ルカは言葉を失い、静かに自分の掌を見つめた。
兵士からお金を奪い、ゴミ箱の残飯をあさり、社会の底辺で「ゴミクズ」のように扱われてきた自分たち。
だが、ガルシアは最初から自分たちを路傍の石ころとしては見ていなかったのだ。
死線の中で培われたライカの圧倒的な力と野生の踏み込み、ルカの冷徹な分析力と隙を突く鋭さ――その「二つの刃」の原石を見抜き、研ぎ澄ますために手を差し伸べてくれたのだと。
その日の夕方。
庭園での稽古が一段落した際、ライカは汗に濡れた額を拭いながら、腕を組んで立っていたガルシアを見上げた。
「おっさん……なんで俺たちなんだ?」
「あ?」
ガルシアが太い眉をひそめた。
「シオンから聞いたよ。あいつに魔術を学ばせてる理由も……俺たちに剣を教えてくれてる理由も。俺たちみたいな、いつ追手が来るかわからねえお尋ね者のガキを囲い込んで、何の得があるんだよ」
ガルシアは一瞬あっけにとられたような顔をしたが、すぐに「ハッ」と鼻で笑い、太い腕でライカの頭を力任せに鷲掴みにしてガシガシと撫で回した。
「いってぇ! やめろよッ!」
「知ったような口を利くな、クソガキが。得だの損だの、そんなくだらねえ計算で人を育ててたまるか」
ガルシアは手を放すと、夕日に染まるヴェローナの街並みを静かに見つめた。
「10年も泥沼の内乱が続いてみろ。国中に親を失った孤児があふれ、才能があろうがなかろうが、泥の中で死んでいく。……俺はこの街を守ると決めた。そして、目の前に転がり込んできた見込みのあるガキに『生き残る術』を授ける。それだけだ」
ガルシアは振り返り、鋭い、しかしどこか温かい眼光でライカとルカを射抜いた。
「お前たちの刃は、まだ粗削りで不格好だ。だが、理不尽な世界を切り拓く強さがある。……俺の元にいる間は、存分に牙を磨け。ここはお前たちの『家』だ」
「……ッ」
ライカの胸の奥が、熱いもので満たされていく。
ルカもまた、静かに目元を伏せ、深く深く頭を下げた。
故郷を焼かれ、世界に放り出され、孤独と絶望の中で戦い続けてきた二人。
だが今、彼らには帰るべき屋敷があり、温かい飯があり、背中を押してくれる師と仲間の存在があった。
「よし……稽古の続きだ! 木剣を構えろ、泥犬ども!」
「おうッ! 今日こそはおっさんのヒゲ一本でも切り落としてやる!」
「ライカ、威勢だけじゃダメだ。僕が右から崩す……合わせろよ!」
茜色に染まる庭園に、乾いた木剣の音と少年の咆哮が力強く響き渡る。
理不尽な内乱の渦中、小さくも確かに灯った温かな日常。
「二つの刃」は、大切なものを護り、自らの運命を切り拓くための本当の強さを求め、更なる高みへと木剣を振り下ろした。




