第57話 隣に立つって、こういうこと
文化祭当日。
校門をくぐった瞬間、世界の色が一段階変わった気がした。
極彩色の看板、重なり合う呼び込みの声、焦げたソースの匂い。
普段の静かな学校とはまるで別物だ。
どこを見てもスマホを構えた生徒や来場者がいて、笑顔と熱気が渦巻いている。
かつての俺なら、逃げ場のないこの密度に「また何かが始まる」と怯え、息を殺していただろう。
「……すごい人だね」
隣で、美咲が小さく息を吐いた。
今日は実行委員の腕章を二の腕につけている。
その凛とした横顔がいつもより少しだけ大人びて見えて、俺は一瞬、言葉を失って見惚れてしまった。
「ああ……人、多いな」
「うん。でも……すごく楽しい」
彼女が俺を見上げて、花が咲くように笑う。
楽しい。
そう思える自分が、不思議で、こそばゆい。
俺は彼女の笑顔につられるように、深く頷いた。
「白石ー! こっち手伝ってくれ! 看板が傾いた!」
「おー、今行く」
クラスメイトの呼び声に、身体が自然に動く。
美咲も当然のように俺の隣に並び、歩幅を合わせる。
誰も、奇異な目で見ない。
特別扱いもしない。
ただ、俺たちはクラスの一員として、
そこに「居る」だけ。
それだけのことが、胸の奥にじんわりと熱いものを滲ませていく。
午前中は奔流のように過ぎ去った。
多少のトラブルはあったものの、真琴と菜月が見事な連携で捌いてくれたおかげで、大事には至らなかった。
「白石くん、これ運ぶの手伝って」
「了解。……重いな、これ」
「でしょ? 頼りにしてるよ、力持ち」
菜月が静かに微笑み、すれ違いざまに真琴が小声で囁く。
「ね。……ほら。白石くん、ちゃんと輪の中にいるじゃん」
俺は苦笑した。
確かに。
俺は今、逃げていない。
誰かの役に立ち、誰かと笑い合っている。
昼前。
人波が一瞬途切れたタイミングを見計らって、美咲が俺の袖をクイクイと引いた。
「……少し、外の空気吸いに行こうか」
裏庭。
校舎の陰になり、喧騒が一気に遠のく場所。
ここだけ時間が緩やかに流れているようだ。
「……大丈夫? 疲れてない?」
「うん、大丈夫」
即答できた自分に、俺自身が驚く。
「正直、怖くないわけじゃない。人の目も、カメラのレンズも気になる。でも――」
俺は、眼鏡のブリッジに指をかけ、少しだけ持ち上げた。
外さない。
まだ、完全には戻さない。
けれど、もう隠れるためだけの盾じゃない。
「逃げたい衝動より、美咲の隣でここにいたいって気持ちの方が、ずっと強いんだ」
美咲は何も言わず、俺の手をそっと取った。
人目のない場所。
けれど、それはもう「隠れるため」の避難場所ではなかった。
「悠真くん」 名前を呼ばれる。
はっきりと。声を出しても許されるこの場所で。
「私ね、ずっと思ってた」
「うん」
「文化祭って、一番バレちゃう怖いイベントだって。……でも、違った」
彼女は、俺の手をギュッと強く握り締めた。
熱が、直接心臓に届く。
「一番、選べる場所なんだね」
誰の隣に立つか。
誰と笑い合うか。
誰の手を、決して離さないか。
無数の選択肢の中で、私たちは互いを選び取ることができる。
俺は、答える代わりに一歩、距離を詰めた。
肩と肩が触れ合う距離。
「俺は、ここにいるよ」
「うん」
「ずっと、美咲の隣に」
彼女の瞳が潤み、夕陽よりも美しく輝いた。
午後。
人の流れがピークに達する。
廊下のすれ違いざま、どこかの他校生が俺を見て、 「あ、あの人……まさか中学の?」 そんな声を漏らしたような気がした。
背筋がヒヤリとする。
でも、俺の足は止まらなかった。
隣には美咲がいる。
後ろには仲間がいる。
何より、俺自身が「逃げない」と決めた。
夕方。
校舎全体がオレンジ色の光に包まれる頃、後夜祭の始まりを告げる放送が流れた。
ざわめきの向こうで、拍手が波のように起こる。
「……終わっちゃうね」
「うん」
美咲が名残惜しそうに呟く。
「でも、今日のこと、一生忘れないと思う」
俺は静かに頷いた。
派手なステージに立ったわけでも、全校生徒の前で叫んだわけでもない。
それでも。
人波の中で、自分の意志で彼女の隣に立つことを選んだ一日。
それは、俺の人生にとって革命のような一日だった。
「……帰ろうか」
「うん。一緒に」
並んだ影が、長く長く伸びていく。
文化祭は終わった。
視線はまだある。
噂も、たぶん完全には消えない。
でも、俺は隣を見た。
そこには、世界で一番大切な人が、当たり前のように微笑んでいる。
俺たちの選択は、ここから先も続いていく。
この手を、もう二度と離さないために。




